金曜日は東京に行って、
大飯原発再稼働反対デモの様子を覗いてみようと思い、
首相官邸前に行って、デモが始まるぐらいに離脱して、
渋谷区文化総合センターに向かい、
高田漣10周年記念コンサートに行く。
土曜日は名古屋。
パルコでやってたオザケンの展覧会をみて、
シネマテークで公開初日の「死刑弁護人」を観る。
日曜日も名古屋で、小林麻里さんの著書
「福島、飯館、それでも世界は美しい」
の出版記念講演「いのちを巡る対話」に参加。
田口ランディさんや、べてるの家の人たちのお話も聴けました。
だだーっと、たくさんの感覚を吸収して、
何をどこから言葉にしていけばいいのか、
自分でもよくわからないのだけど、
結局のところ、
「命の見つめかた、深めかた」
という言葉に尽きるのかな、と思う。
なんの脈絡も無く、思いついたところから言葉にしていくと、
「死刑弁護人」の安田さんのこと。
世間からも、日本中の弁護士からも見捨てられた、
死刑判決を受けた被告の弁護人の選出に困った弁護士会の、
最後の拠り所が、安田好弘弁護士だ。
安田さんは死刑廃止を訴え続けている。
安田さんは人間は更正するものだと信じている。
「死刑」は真実をうやむやにする。
しかし真実を暴こうと根気強く犯罪者と向き合う弁護士はいない。
その労力に見合う報酬がない。
その事実に私はまず愕然とする。
裁判というのは明らかに公平ではないのだ。
例えば「和歌山毒カレー事件」。
林眞須美容疑者はすでに死刑判決を受けているが、
彼女は一貫して無罪を主張している。
林容疑者はそもそもヒ素で保険金詐欺を繰り返し、
8億円ぐらい儲けている、
どうしようもない詐欺屋なのだけど、
林容疑者には夏祭りにカレーにヒ素を入れて、
無差別に人を殺す動機がない。
金目的ならやりかねないけれど、
金にならないことは絶対にしない。
それなのに、彼女は決定的な証拠がないままに、
死刑判決を受けている。
多分、おおくの世間の人はもはやどうでもいい話題だろう。
別に彼女が死刑になろうがどうでもいい。
8億円も詐欺をしている女だし、なんだか見かけも憎たらしいし、
やっていようが、やってまいが、
別に死刑になってもしょうながないのではないかと、
実は勝手に心の片隅で片付けているのではないかと思う。
しかし、彼女は自分がやっていないことで刑を受ける。
しかも極刑の「死刑」である。
そのことの恐ろしさと、この国の人々の無関心さに、
寒気がおきる。
そしてその無関心さや、
無意識のうちに心の中で切り捨てていく有り様に、
この世のありとあらゆる、綻びのような、
矛盾のような、そういう世界を見てしまうのだ。
多くの人間が、
「我こそは正義の味方」であるように綺麗ごとを並べたてている、
その裏で、
私達は様々なことを切り捨て、見放し、見殺し、
何も感じず、ただの通り過ぎて行くだけの通行人として生きている。
しかし、一方で安田弁護士のように、
根気強く、死刑判決を覆そうと日々闘っている人も居る。
そして、安田弁護士は完全なる善人でもないのである。
被害者側からは悪魔で鬼畜の弁護士として見られる。
そういうぐちゃぐちゃで濃密な感情が行き交う世界で、
安田弁護士は自分がやるべき仕事を見極め、
誰かを傷つけていることも知りながら、
その真ん中で刃を磨き続けている。
その姿に訳もわからず、ただ感動する。
生きることは、ひたすら世の中の矛盾の中に身を投じて、
世界に疑問を突きつけ続けること。
そんなことを思ったりした。
土曜日は名古屋。
パルコでやってたオザケンの展覧会をみて、
シネマテークで公開初日の「死刑弁護人」を観る。
日曜日も名古屋で、小林麻里さんの著書
「福島、飯館、それでも世界は美しい」
の出版記念講演「いのちを巡る対話」に参加。
田口ランディさんや、べてるの家の人たちのお話も聴けました。
だだーっと、たくさんの感覚を吸収して、
何をどこから言葉にしていけばいいのか、
自分でもよくわからないのだけど、
結局のところ、
「命の見つめかた、深めかた」
という言葉に尽きるのかな、と思う。
なんの脈絡も無く、思いついたところから言葉にしていくと、
「死刑弁護人」の安田さんのこと。
世間からも、日本中の弁護士からも見捨てられた、
死刑判決を受けた被告の弁護人の選出に困った弁護士会の、
最後の拠り所が、安田好弘弁護士だ。
安田さんは死刑廃止を訴え続けている。
安田さんは人間は更正するものだと信じている。
「死刑」は真実をうやむやにする。
しかし真実を暴こうと根気強く犯罪者と向き合う弁護士はいない。
その労力に見合う報酬がない。
その事実に私はまず愕然とする。
裁判というのは明らかに公平ではないのだ。
例えば「和歌山毒カレー事件」。
林眞須美容疑者はすでに死刑判決を受けているが、
彼女は一貫して無罪を主張している。
林容疑者はそもそもヒ素で保険金詐欺を繰り返し、
8億円ぐらい儲けている、
どうしようもない詐欺屋なのだけど、
林容疑者には夏祭りにカレーにヒ素を入れて、
無差別に人を殺す動機がない。
金目的ならやりかねないけれど、
金にならないことは絶対にしない。
それなのに、彼女は決定的な証拠がないままに、
死刑判決を受けている。
多分、おおくの世間の人はもはやどうでもいい話題だろう。
別に彼女が死刑になろうがどうでもいい。
8億円も詐欺をしている女だし、なんだか見かけも憎たらしいし、
やっていようが、やってまいが、
別に死刑になってもしょうながないのではないかと、
実は勝手に心の片隅で片付けているのではないかと思う。
しかし、彼女は自分がやっていないことで刑を受ける。
しかも極刑の「死刑」である。
そのことの恐ろしさと、この国の人々の無関心さに、
寒気がおきる。
そしてその無関心さや、
無意識のうちに心の中で切り捨てていく有り様に、
この世のありとあらゆる、綻びのような、
矛盾のような、そういう世界を見てしまうのだ。
多くの人間が、
「我こそは正義の味方」であるように綺麗ごとを並べたてている、
その裏で、
私達は様々なことを切り捨て、見放し、見殺し、
何も感じず、ただの通り過ぎて行くだけの通行人として生きている。
しかし、一方で安田弁護士のように、
根気強く、死刑判決を覆そうと日々闘っている人も居る。
そして、安田弁護士は完全なる善人でもないのである。
被害者側からは悪魔で鬼畜の弁護士として見られる。
そういうぐちゃぐちゃで濃密な感情が行き交う世界で、
安田弁護士は自分がやるべき仕事を見極め、
誰かを傷つけていることも知りながら、
その真ん中で刃を磨き続けている。
その姿に訳もわからず、ただ感動する。
生きることは、ひたすら世の中の矛盾の中に身を投じて、
世界に疑問を突きつけ続けること。
そんなことを思ったりした。
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