2011年11月29日火曜日
にくにく
今日はイイニクの日。
つまり私の誕生日で29歳になりました。
ファミリーマートではスライム肉まんが発売開始。
さっそく買って食べました。
ほんと「イイニクの日になったなー」と感心しています。
ユーストリームではオザケンこと小沢健二さんが登場するということで、
PCの前でかぶりついて眺めていたところ、
3月と4月にライブをするよ、という告知でした。
「絶対行けないだろうなー」と思ってたいのですが、
12公演あるといういことで、「これはもしかしたら望みがあるのか…?」
と思わせるかんじでした。
色々と一方的に何かを思ったり、感じたり、盛り上がったり、
でもそれは私だけが思っていることで、
相手はそんな風には思っていない、
というのはよくあることで、私たちは常に世界に片思いをしている
ようなものなのかもしれないけれど、
それでいいのだと、29歳になって、
いろいろと素直に思えるようになってきました。
私には私の能力の限界もあるし、
見える世界、感じる世界も違うのだけど、
でもそれを私が大切にしなくては、誰が大切にしてくれるだろう、
と思った時、誰も大切にしないことに気がついたので、
私なりに思った事感じた事を大切にして精一杯に生きようと思いました。
のびのびと育ててくれたお父さんお母さん、
今まで出会った人たち、仲良くしてくれる人たち、
みんなに分け隔てなく「ありがとう」を素直に言いたくなる、
そんないい一日でした。
2011年11月25日金曜日
観察力
ディアゴスティーニみたいなやつの「源氏物語」買いました。
とても解りやすく丁寧に解説等がなされていて楽しいです。
これは最後まで買いそろえてしまいたい勢いです。
久保ミツロウさん原作の「モテキ」は、
「現代の源氏物語」だと私は思っています。
1人の男性の目を通して様々な現代の女性の姿が、
丁寧に描かれています。
同性ならではの視点できちんと「女」が書かれているのです。
例えば村上春樹さんが描く女性は、
とても魅力的で美しいですが実際そんな女性はおらず、
男の願望や欲求が投影されており、
どこかの本で「村上春樹の書く小説は男のハーレクインだ」と書いてあって、
大きく頷いてしまいました。
しかし、だからこそ私たちは村上春樹さんの美しい物語世界に、
中毒的に埋没してしまうのだと思います。
話しはもどり「源氏物語」と「モテキ」の違いはというと、
主人公がモテるか、モテないか、というのが大きな違いだと思います。
光源氏は容姿も美しく、音楽の才能も、文才もあるという、
驚異的なモテ男なのです。
なので次々と女が現れて深く関わっては別れていきます。
「モテキ」の主人公の幸世はモテません。
なのでせっかく色んな女の子とのチャンスが巡ってきても、
深く関わり合う関係にまで陥りません。
ガードが固いし、何よりも自分の事しか考えていません。
女性に対する見方が薄っぺらいのです。
そして人の表層的な部分で判断して、
うだうだと試行錯誤し、結局は誰とも付き合わないという、
悲しいお話です。
しかしそれは実に現代的とも言えるので、
今の若者達の人との関わり方をとてもリアルで、
忠実に表している作品だと思います。
「源氏物語」の光源氏はとにかくお母さんが一番で、
母を思う愛が全ての根源です。
しかもお母さんは光源氏が幼い時に亡くなるので、
これがますます幻影を深めて行く原因にもなっています。
ここに女性に求める力強い世界が出来上がっており、
そこをベースにして女性たちと接し、求め、繋がっていくのです。
つまりそういうものがないと、
なかなか深く女性にコミットしていけないのではないか、
とも考えることが出来ます。
全ては母の愛=呪いが原因なのです。
それにしても、愛だの恋だので頭の中をいっぱいにできるのは、
とても平和で幸せなことなのではないかと思いました。
国家が破綻しようと、世界中に放射能の雨が降ろうと、
愛だの恋だのにうつつを抜かすことができる、
強い人間でありたいと思いました。
とても解りやすく丁寧に解説等がなされていて楽しいです。
これは最後まで買いそろえてしまいたい勢いです。
久保ミツロウさん原作の「モテキ」は、
「現代の源氏物語」だと私は思っています。
1人の男性の目を通して様々な現代の女性の姿が、
丁寧に描かれています。
同性ならではの視点できちんと「女」が書かれているのです。
例えば村上春樹さんが描く女性は、
とても魅力的で美しいですが実際そんな女性はおらず、
男の願望や欲求が投影されており、
どこかの本で「村上春樹の書く小説は男のハーレクインだ」と書いてあって、
大きく頷いてしまいました。
しかし、だからこそ私たちは村上春樹さんの美しい物語世界に、
中毒的に埋没してしまうのだと思います。
話しはもどり「源氏物語」と「モテキ」の違いはというと、
主人公がモテるか、モテないか、というのが大きな違いだと思います。
光源氏は容姿も美しく、音楽の才能も、文才もあるという、
驚異的なモテ男なのです。
なので次々と女が現れて深く関わっては別れていきます。
「モテキ」の主人公の幸世はモテません。
なのでせっかく色んな女の子とのチャンスが巡ってきても、
深く関わり合う関係にまで陥りません。
ガードが固いし、何よりも自分の事しか考えていません。
女性に対する見方が薄っぺらいのです。
そして人の表層的な部分で判断して、
うだうだと試行錯誤し、結局は誰とも付き合わないという、
悲しいお話です。
しかしそれは実に現代的とも言えるので、
今の若者達の人との関わり方をとてもリアルで、
忠実に表している作品だと思います。
「源氏物語」の光源氏はとにかくお母さんが一番で、
母を思う愛が全ての根源です。
しかもお母さんは光源氏が幼い時に亡くなるので、
これがますます幻影を深めて行く原因にもなっています。
ここに女性に求める力強い世界が出来上がっており、
そこをベースにして女性たちと接し、求め、繋がっていくのです。
つまりそういうものがないと、
なかなか深く女性にコミットしていけないのではないか、
とも考えることが出来ます。
全ては母の愛=呪いが原因なのです。
それにしても、愛だの恋だので頭の中をいっぱいにできるのは、
とても平和で幸せなことなのではないかと思いました。
国家が破綻しようと、世界中に放射能の雨が降ろうと、
愛だの恋だのにうつつを抜かすことができる、
強い人間でありたいと思いました。
2011年11月21日月曜日
再会
ホームセンターの園芸コーナーをぶらついていると、
ダリアが誇らしげに咲いていたので買ってしまいました。
私の場合ガーデニングではなく園芸です。
明日、母の中学生のときの同級生が、
名古屋と岐阜からやってくるので、
お茶請けやお土産のお菓子などを買いに行きました。
なんか40年ぐらいぶりみたいです。
想像を絶する月日の長さです。
40年経ってから再会とかどんな気分なんでしょうか。
同級生と話していると中学生のころに戻るそうです。
そういうの楽しそうだと思いました。
ちなみに、私は年末に高校のときの同窓会があるのですが、
行くかどうかわかりません。
結婚したか、してないか、
付き合っている人は居るのか、居ないのか、
何をしているのか、等のお決まりの確認作業みたいな、
ことになるのだろうと想像がつくし、
なにか疲れることになる気がして行くのをためらっています。
とはいえ、高校のときは高校のときで楽しかったなー、
と最近あの頃を思い返しています。
「くっだらない事に腹をかかえて死ぬほど笑う」
という瞬間が少なくとも今よりは頻繁にあった気がします。
なにがおかしかったのかはわからないけれど、
酔っぱらったみたいに笑う子供のあの感じは、
今となってはものすごく愛おしく、
あの瞬間さえ永遠続けることができれば…!
と、思う事もしばしばです。
だからどんなにシリアスな世界がやってきても、
お笑いはずっと好きなのかもしれないです。
「笑いのセンスを磨く」というテーマは、
わりと切実な人生のテーマものだったような気がします。
ということを、今さら思い出してきました。
書いてるうちにどんどん陽気な気分になってくるなんて、
とても珍しいことなので、もっと色々書いてみたい気もしますが、
ストーブの灯油が切れて部屋が寒くなりそうなので終わります。
2011年11月14日月曜日
ごぶさた
最近はもっぱらツイッターで日々の何かを発散しており、
ブログとは疎遠になっておりました。
「所詮140文字以内で解消できるなにか」
であることに、気付きがっかりしたような、
さっぱりしたような、そんな気分です。
しかもこれといって更新したくなるようなホットな話題もなく、
日々はいつも通りに、のんべんだらりんと勝手に更新していきます。
あ、いしいしんじ氏の「四とそれ以上の国」と、
西村賢太氏の「苦役列車」読みました。
どちらもおもしろかったです。
西村賢太氏は「芥川賞とったのに彼女が出来ない」という
悩みというか愚痴のようなものをこぼしている記事をどこかで
読んだのですが「そりゃできねーよ!」という作品内容でした。
しかも「嫁や子どもにお金使いたくないから結婚しない」
とまで言い切っていました。
わかりやすくていいな、と思いました。
あと東京に11月11日に1日だけ1人で行って、
科学未来館でやっているハラカミさんのプラネタリウムと、
両国のカイシアターという劇場で、
ドフトエフスキーの「白痴」の舞台を観てきました。
しかも11月11日はドフトエフスキーの誕生日だったそうです。
どちらも私の人生にとってとても意義のある作品だったように思います。
東京駅に向う電車の中でひさしぶりの満員電車に遭遇してしまい、
「田舎かえりてー」と心の底から思いました。
そして都会の人々が頻発する人身事故に慣れ過ぎていて、
「電車で事故にあって怪我をした、もしくは死んだ人がいる」
という事実に全く想像力を働かせない、エネルギーを費やさない、
習慣が自然と身に付いていて、
現実に不感症になっていることに少し恐怖を覚えました。
不感症にならなければ、日々を平和にやり過ごせないのはわかりますが、
それは毎日テレビから流れてくる悲惨な事故や事件に関しても言えることでも
あるけれど、なにやら薄気味悪さを覚えてしまったのでした。
そんな風にして、都会の人々が色々な事に不感症になって、感覚が麻痺して、
本当の非常時に我々は何も感じる事ができなくなり、
いつの間にか世界は滅びてしまうのではないか、
と思ったりしました。
花沢健吾さんの漫画「アイアムアヒーロー」の世界のように。
と、なんだか話しが脱線してやっぱり暗くなってしまったので、
ここらで終わります。
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