「インドと北欧」無事終了しましたー!
ご来場して頂いたみなさん本当にありがとうございました。
ツイッターとフェイスブックで一応いろいろ書いたのですが、
もう一度改めてブログ用に書いてみるとすると、
「まじ最高だった!」
というとてもシンプルでバカみたいな言葉しか浮かんできません。
出演されたサントゥール奏者の新井孝弘さん、
タブラ奏者のユザーンさん、
カンランのトリタニさん、アヤコさん、カリームさん、
素晴らしい夜を本当にありがとうございました。
カンランさんの曲の歌詞に精神が救われ、
インド古典音楽でモヤモヤが吹き飛んだ気がします。
その結果さっぱりとした人間になったような錯覚さえ起きました。
そんな晴れ渡ったような気持ちの中、
最近知り合った方がミュージックマガジンの小沢健二特集に、
文章を寄稿されているということで、
さっそく本屋さんで立ち読みしてきました。
2年前の「ひふみよ」には行ったのですが、
4月に東京オペラシティで行われた「我ら、時」には行ってなかったので、
どんな感じだったのだろうと思い読んでみました。
簡単に言うとオザケンがただのミュージシャンではない、
といことを改めて再認識しました。
大衆芸術家、大衆思想家という言葉を使っている文章もありましたが、
確かにオザケンの場合ポップミュージックを使って、
ちょっとみんなの心を明るく盛り上げてみた、というような、
なにか気軽さのようなものを感じます。
しかしそのベースにはもっと広大で深遠な世界が広がっていて、
それを追求する為に何年ものフェイドアウト期間があったのだということです。
小沢家の家系を遡っても芸術一家である事を伺えます。
よしもとばななの父親が吉本隆明である事や、
よしもとばなながオザケンのファンで、
でもエッセイかなにかでオザケンを批判して、
ちょっとムードが悪くなったくだりなどをちらっと思い出したりしました。
何でも「血筋の宿命」ってものがあるのでしょう。
「我ら、時」で原田郁子や、ハナレグミや、
スカパラや、スチャダラを巻き込んで、
小沢健二が日本の音楽界で示した位置は、確信的なものがあります。
音楽が、とりわけポップミュージックが人々の心にもたらす、
明るい光は、現実が悲惨であればあるほど輝くもので、
それは「宗教」全く同じ効果を現すのでしょう。
そのようなことを確信し、効果的に表現しているのが、
オザケンの音楽なのだと思います。
徹底的に光を見つめ続け、表し続ける覚悟。
私たちはいつだってミュージシャンのその姿勢に圧倒され、
ずっと追いかけたくなってしまうのです。
一人でひっそりと闇を見つめその闇の力を利用してうまく光りに転換する、
そのような魔法を持っている人々を、
私たちはいつの時代も待ち望んでいるのだろうと思います。
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