2011年7月25日月曜日

南無阿弥陀仏



ASA-CHANGがいよいよいわき市で活動を始めた模様です。
詳細は上のリンクからみることができます。

いわき市の郷土芸能「じゃんがら念仏踊り」を練習中ということだけど、
ものすごくASA-CHANGらしいというか、
ASA-CHANGにしかできないというか、
至極真っ当で何ものにも代え難い、そういう表現だと思った。

ASA-CHANG&巡礼からタブラボンゴナイトに至るまで、
ASA-CHANGの思想というか祈りのようなものは一貫してそこにあり、
時々、私たち日本人はそれらを享受すべきアンテナを持っていなくては
いけないのではないかとさえ思う。

多種多様な理不尽なことが蔓延しているこの世の中で、
理不尽さに襲われた人間にとって、陽気で能天気な音楽は全くの無意味だ。
陽気で能天気な音楽は生きている健康的な人間の為にある。
言ってしまえば、どん底にいる人や死んでもうこの世に居ない人は
完全に無視されている。無かったことになっている。
音楽はそういった狭さであり冷たさがある。
しかし、ASA-CHANGはそういった音楽の狭さに風穴を作るみたいにして、
音楽活動を行っている希有な人物なのだ。

それは、軽くて、明るくて、前向きで、上昇志向を好む病気にかかっている、
多くの現代の日本人にとって受け入れ難い世界である。
しかし、もうそんなことを言ってる場合ではないどん詰まりのところに、
差し掛かっているのであって、
とにかく、多くの人間が希望に群がることにより、
絶望を量産しばら撒いていることは間違いないのであり、
あえて、絶望に飛び込んでそこから見える景色を発表する人間がいないと、
この世界は終わる。
いづれ終わる運命にある世界なのかもしれないけれど、
それを先に延ばすことはできる。
そこに意味があるのかは解らない。
ただ、人間という生き物の粘り強さであり、執念を見ることが出来る。

そもそもなぜこの世界を延命させたいのか。
この世とはなんなのか。
人間は常に闇との攻防があり、
押したり引いたりの綱引きを永遠にしているみたいな、
そんな感覚に陥る。

死んだ人の供養とはどういうことか。
津波に呑込まれた人間の無念とはなにか。

あ、わからなくなってきた。

そう、結局、命の根本、世界の根本は謎のままである。
根本は謎なのだけど、人間が勝手に創った概念の中で、
右往左往はできる。

右往左往し、その中で「これは」と思えることを、
自分なりに掬っていくしかないのである。

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