昨日ふと目にした菊地成礼氏のブログ、これが非常に興味深かった。
「女性編集者は狂うのか(同時多発)」というタイトルの記事なのだけど、
連載を突然打ち切りにされたり、話しも来てないのにすでに予告を打ち出したり、
とにかく女性編集者(2件とも担当編集者が女性だったそう)の、
幼児退行化が甚だしいという菊地氏の見解が綴られている。
そしてそれに対して仮説を打ち出し一抹の不安を訴えておられる。
実は私も編集者の妙な対応にあったことがある。
実は以前、突然、某カルチャー紙の編集長から連絡があり、
誌面に載せる文章を書いて欲しいとメールを頂いた。
その某編集長はテーマを持っていてそれに沿って書いて欲しいとのことだった。
私はそのテーマが良いか悪いか別にして、とにかく書いてみることにした。
いくつかの原稿を送り、いくつかのメールでのやりとりをし、
某編集長の返信を待っているとき、
3.11は起きた。
以降、全く返事は来ていない。
こちらからも問い合わせていない。
有名カルチャー誌の有名編集長でさえそんな案配である。
彼が何か直感的に私の文章に感じる所があり、
「なにか書いて欲しい」と思うのは自由である。
こちらも光栄だし、ありがたいと素直に思う。
しかし向こうに提示して頂いたテーマに沿って書いていて、
あまりおもしろい文章だとは思えず、
「こんなのおもしろいか?」と思いながら原稿を送っていたので、
なにやら検討違いの原稿が送られてきたとしても、
「ちょっと違う」とか、
「やっぱり今回の話しはなかったことに」
という一言を言って去ってもいいのではないかと思う。
そういうのも全く無く放ったらかしにして、
なかったことにしようとしているのだ。
これに対して私は、菊地氏と同様に、怒りや悲しみを通り越して、
一抹の不安を覚える。
どうも、東京で第一線で流行を必死で追いかけているような人間は、
どこか狂っているところがあると。
彼らが大事にしているのは、一種の感覚であり、
次にブレイクしそうな世界を見つけることであり、
とにかく手当り次第に唾をつけるというような、
鼻がやたらと効く犬のような生き物になっているということだ。
それがやっぱり違うと思ったら平気で捨てる。
また新しい感覚、世界を見つけたらそっちに走る。
そしてその捨て方がまた雑なのだ。
彼らが欲しいのは、この世を渡り歩く為の保身であり、名声だ。
彼らが人を人とも思わず、なりふりかまわず動いた結果は、
いつか己の身に降り掛かるだろう。
面白いことや楽しいことを求め続け、
それを表現し続ける快感に溺れるあまりに、
失うものもあることを肝に命じた方がいい。
そしてそれは自分にも言えることだ。
私もきっと彼らと同じくどこか狂っているのだろう。
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