2010年11月30日火曜日

ただの妄想

昨日友達の妊娠の報告を受ける。
とても嬉しかった。
元気な赤ちゃんが産まれてくるといいな。

色々な妄想が頭の中を駆け巡る。
自分勝手に、こんな風だったらいいなぁ、を頭の中で再現する。
すごく幸せ。すごく楽しい。
本当じゃないかもしれないけど、
ただの私の頭の中だけの世界なのかもしれないけど、
それでもこんな風な幸せな気持ちにさせてくれるだけの、
材料をくれてありがとうと思う。

私の命は、まず家族のためにある。
そして次に誰かのためにある。
なんだか解らないけれど人に産まれ人として生きていること、
この不思議さを思いながら、
時々憎らしくなったり、楽しくなったり、
自由自在に私はここで生きている。

よくわからない事を言っていると思う人がいるだろうけど、
わかる人がいるかもしれないという賭けで書いている。
この精神は池田晶子さんから学ぶ。

曖昧であやふやな、まるで夢を見ているような心地で、
私は人生を歩むのだろう。
その中でふらふらとどこかに進んでいる。
頼りになるのは、ただ自分の嗅覚のみだ。

以下突然ラブレターを書きたくなったので書いてみた。

これからもずっと見ているんだとおもう。
君が世界を縦横無尽に動き回る姿をみて、
君の思惑通りになるように念を送り続ける。
夢を叶える力が君にはある。
人をよく見ているし、人をきちんと愛しているのが伝わるから、
君は君だけのやり方で世界を切り開いていく。
だいじょうぶ。
安心して。
たぶん私は君を理解しているから。
これからも無言で君を理解することを努め続けるから。
もし私が変な気持ちになって卑屈になってしまうようなことがあったら、
それは私の気持ちがまだまだ弱い証拠。
もっと強くなれるように頑張るよ。
そうやってこっそりと世界を支えているよ。
だから今日はぐっすりと眠るといいよ。
いつも君の側にいて、君が君になっていく様を見守っているよ。
私は君がいつでも安心できるように、
自分自身を鍛える事を頑張るよ。
今よりももっとはっきりと世界が受信できるようにする。
私がやるべきことは君が教えてくれたんだ。
今、明確に理解した。
私はただ強くなる。
君を引っ張っていけるだけの世界を創る。
ただそれだけなんだね。
私が心の底から確信したかったのはそのことなんだ。
命が途切れるその瞬間まで気を抜かないで、
見つめ続けて強化し続ける事。
私はそれをしようと、そう思ったんだ。
その気持ちは多分“信仰”って呼んでもいい気がする。


君がこれを読んでいようといまいと、それはどうでもいい事なんだ。
ただ私の中にある世界を引きずり出すために言葉を使う。
私の中にある透明な想いを言葉に乗せて表したかった。
それは自分自身を強くする事が目的なんだ。
言葉で世界を縛ることで、世界が浮かび上がる。
そういう事を私はほんとうに信じているんだよ。


もし読んでいるなら私の世界はそういうことなんだって事を伝えたい。
全然違っていたら私はとても孤独な人間なのかもしれないけれど、
まったくの不幸だとも思えない。
もしかしたらそれはそれで幸せなことでもあるのかもしれないから。

2010年11月28日日曜日

言葉のその奥にある風景

ハリーポッターを観る。
まだ最終章のpart1。多分part3までは続くだろう。
それにしてもどれだけハリーポッターで稼ぎたいのだ。
まるで『渡る世間は鬼ばかり』状態だ。
まぁいいけど。

『言葉が足りないとサルになる』を飛ばし読み。
途中興味の無いサッカーの話しなどが挟まれているため。
ほんと自分が興味ないと飛ばしちゃうんだよな。
文面の流れから察して自分にはあまり必要の無い情報だな、
と思ってしまうと読まない。
もしかしたらこの中に有益な情報が隠されているかも?
なんて思っても、面倒が先立って読まない。
あまりよくない傾向だと思うけど、これはもうしょうがない。
大学生の言葉の足りなさを大学の教授が危機感を抱いていて、
問題にしてるんだけど、「確かにこの状況はまずいかもな」と共感しつつ、
完全に言葉が足りないサルの代表みたいな人間が私なのであって、
どうやらそんな若い人たちがいよいよ増えてきて、
世の中まともに話が出来ないサルみたいな人たちで溢れかえっているんだな、
という感慨をもつ。
やはりおじさん達はどうも人間がどんどん劣化しているように感じ、
それがとても心配で、恐ろしく、憂いているらしい。
というか、そもそも大学という存在がほとんどの人間に必要ない、
ということではないか、と私は思う。
そこまで明確に言葉を操る能力を育むシステムが教育現場にないというのもあるし、
ネットやテレビや雑誌の影響で言葉がどんどん変化していて、
それを子ども達はぐんぐん吸収して吐き出している結果だとも言える。
曖昧さや、不明瞭さ、が日本人の持ち味なので、
その性質がどんどん強くなっているというのもあるかもしれない。
そもそも一体なにが起きているのかというと、「幼児化」だ。
幼児が社会に出て社会をまわす。
そんな事が到底できないから、ニートやアルバイトになる。
言葉が足りない。言葉を構築できない。
この能力の欠如。不甲斐なさ。
それは私が随分前から常に感じているものだった。
どんどん言葉を使えなくなって、私たちはどこへ行くのか?
よくわからないけれど、とにかく人は変化をし続けている。
もしかしたら本当にサルになってしまうのかも。
たまの『さよらな人類』が頭をよぎる。

『残酷人生論』を読む。
うーん、池田晶子さんの世界はやはり素晴らしいです。
ある意味これは聖書だと思う。
といっても、仰々しいわけでもなく、
一人の人間の澄み切った思考の繰り返しの中にあるその一端に垣間みる、
神聖さ、のようなもの。
これほどまでに魂に正直で誠実で当たり前な世界があるものだろうか、
と思った。
これを読めばいつだってゼロに戻れると思った。
人間が自分を守るために勝手にこしらえた支離滅裂な思考から、
逃れられる世界がここにある。
言葉を通して、宇宙が垣間見える。
「わからない」が「わかる」。
それは安心だ。
ひとつの考えに縛られるという状況が一番苦しい。
抜け出せない。自由にならない。
魂が泣いているのだ。私を自由にしてくれと。
そして往々にしてそんな自分に自分が気がついていない。
それが一番の悲劇だ。
残りの人生の時間をなるべく宇宙に開いていたい。
そのことで魂が磨かれていけばいいと思った。
ほとんどその事をするために生きてると言っても過言ではない。
世の中には色々な才能を持った人が居て、
それを全うするために生きているのだけど、
私の場合、池田晶子さんが言葉で綴る世界に激しく共鳴し、
その事で自分自身を知るのだった。
他者を知ることは自分を知ること。
どうやって知るのかというと、それは言葉という方法がやはり大きい。
私は私がどういうことに共鳴するのかを誰かに知ってもらいたいし、
共鳴はさらなる共鳴を産み、そこに人との繋がりができることで、
明日を生きて行く活力になる事も知っている。
なるべく色々な人と共鳴したい、
というのが私のスタンスであることを改めて気がつかされる。

印象的な一文を抜粋。


人が、自身の宿命を認識し、それに沿い、その実現のために為される努力、
これが幸福だ。
悪人であるとうい宿命もあるのではないか、そんなのは屁理屈だ。
悪人は自身の悪を認識していない、つまり自身を認識していないのだから、
したがって、それは彼の宿命ではない。
たんに努力をしていないだけである。
人はいかにして自身の宿命を認識すべきか
宿命は魂にあるのだから、「己が魂」を、まずよく認識することである。




2010年11月27日土曜日

人生の楽しみ方

インド古典ライブが終わり、
楽しむべきものが未来にないなーなんて思っていたら、
友達から来年のタイコクラブ行かない?とお誘いの電話。
こういうタイミングってほとんど神様が仕組んでるに違いないと思う。
神様ってすごい。
わたしたちを見えない糸で操っていて、
宇宙からの引きの目でみたらすごく綺麗な模様だったりするのかも。
ここに悲しみや苦しみがあることで、
どこかの光が引き立てられていたりして、
なんて事を考えると、無理をしなくなる。
私は無理をしない。
何者かに操られるままだ。
そこにある模様が美しいと思えばそれに従うのみ。
人生は美意識で出来ている。
そう決めた。

今日はグラタンを作った。
お母さんにもお兄ちゃんにも好評。
明日はお母さんとハリーポッターを観に行く予定。

DSでマリオカートをしていたら、
お兄ちゃんも興味津々で懐かしがって楽しそうに遊んでいた。
それを横からみてる感じがすごくよかった。
「もう30前なのにこんなことしていいんだろうか」
なんて言ってたけど、「PS3買おうかな」なんて言ってて、
なんか「しめしめ」と思った。

兄弟で仲良くゲームで遊んでたあの頃を思い出して、
なんだか泣きそうになった。
私たちはもう大人で、別々の他の事に興味があって、
それぞれに世界を構築していて、
もう共通で楽しめる事なんて持てないと思っていたけど、
昔はちゃんとあったんだな、ってそう思ったのだ。

本屋さんで森三中の大島の旦那さん鈴木おさむさんの、
『ブスの瞳に恋してる』の一番新しいやつを立ち読み。
全編どれだけ二人が愛し合っているかを赤裸々に綴り、
ほとんど嫁(大島)へのラブレターなんだけど、
やっぱりこれも泣いてしまった。
お互いが全力で愛し合っているのが分かって、
この二人の出会いもほとんど奇跡に近いなと思ったのだ。
私はこの人たちみたいに誰かを全力で
素っ裸の泥まみれになって愛したりするのだろうか?
多分相手の気持ちばかりを読み取る事に専念して、
私の本当の気持ちにフタをする。
それで何か物事が捩じれていく。
私はまだそんな方法の愛し方しかできない気がする。
人には色々な段階で色々な愛情表現が在るのだ。

よしもとばななのツイッターのbotが素晴らしかったので、
こちらにも乗せておこう。
ああ、染みるなぁ。

人生はうんとはじめのころに至福のほとんどを知るものなの。
人によって違うけれど、至福の鋳型はそのときに作られる。
そしてその後はほとんどずっとそれを取りもどすための戦いなの。
ーサウスポイント

さて、友達に薦められた本と、
池田晶子氏の『残酷人生論』でも読むとしよう。

2010年11月26日金曜日

座敷とインド

にゃーん

U-zhaan×ヨシダダイキチのインド古典音楽ライブ、
無事盛況のうちに終わりましたー!
(わーパチパチ)

場所も内容もなにもかもが最高でした!
昨日のお客さんはほんとにおいしかったと思います。
友達に思う存分自慢してください。
また何か企画が持ち上がった際にはよろしくお願いします。

さすがやってる人たちが一流だけあって、
インド古典音楽のイメージが覆されたかと思います。
楽器は2つだけなのに盛り上がった時の音の密度が半端無いです。
ずーっと精密な音の洪水の中を漂う感じでとてつもなく気持ちがよいのです。
眠くなったり、覚醒したりを繰り返す1時間30分でした。
また来年やってきてもらいたいものです。
是非おまちしてます!


本日のサンセット

2010年11月25日木曜日

にぎゃー



ほぼ日でやってた矢野顕子×星野源みのがしたー!
ショックだー。
その代わり何やってたかっていうと、
都築響一のブログに夢中でした。
わたしこの人の感覚というかアンテナすごい好きだ。
わたしが男子ならこんな男子になりたい。
みんなが見てないものを見て、拾って、なでなでして、
すごいでしょ?かっこいいでしょ?って
一番最初に言える人。

さて明日はいよいよインド古典音楽です。
シタールとタブラのすごいやつ聴けます。
木曜日の平日だけど突然ふらっとやってきてね〜。
今日は電気グルーヴのこの曲で終わりたいと思います。



みんなちょっとずつかわいくないのがいいね。

2010年11月23日火曜日

kid gets a wii

MOTHER3クリアしました。
いやーまさかの号泣。
あんな感動的なエンディングだなんてずるいよ。
てかストーリー深いわ〜。糸井重里すごいわ〜。
小説にも映画にも味わえない体験がゲームにはあると思う。
二ノ国が終わったら、MOTHER1、2もやりたいと思う。
クリアしたいゲームがたくさんあるなぁ。

子どもがゲーム機プレゼントされて狂喜乱舞する姿ってすごくいい。
任天堂ってホントにすごい。
世界中の子どもを幸せにしている。
タムくんの漫画にもゲームの話が出てきてしみじみした。

2010年11月22日月曜日

everybody everything

よしもとばななが愛する世界の傾向として、
奈良美智であったり、タムくんであったり、
そこには通ずるものがある。
かわいい女の子。
どうしようもなくかわいい。
かわいいとはこういう事だというかわいさ。
そして、とてつもなく残酷な面も併せ持つ。
かわいいと残酷は表裏一体で、
常に隣り合わせにあるものなのかもしれない。

今日は朝からマグロの刺身を食べた。
めちゃくちゃおいしかった。
お父さんの網にひっかかったマグロだ。
マグロがかかるのは珍しい。
近くのマグロの養殖場から逃げてきたマグロらしい。
マグロLOVE。

池田晶子さんの『残酷人生論』という本が本屋で目にとまる。
読みたい。買おう。と思ったけれど、
その時財布を持っていなかったので明日買う。
図書館に頼んでいた『言葉が足りないとサルになる』も届いたと連絡があった。
読みたい本がたくさんある。

DSi LLが届く。まだ開けてない。
楽しみすぎる。わくわく。
手始めにマリオカートを買って遊んでみようと思う。
あ、MOTHER3まだクリアしてない。

もうすぐインド古典音楽のライブだ。
とんでもなく楽しみである。
みんなもとんでもなく楽しみにして来ればいい。
どうでもいいけど、理解って愛らしいよ。

2010年11月21日日曜日

夢の競演

年末に向けてのわくわく感が盛り上がってきた。
クリスマスケーキはどうしようか、とか、
おせちはどこのにしようか、とか、
そういうことを考えているだけでウキウキしてしまう。

世界から戦争はなくならないし、学校でのいじめも消えない、
家庭内の不和もある、理不尽な悪意もある、感情も暴走する、自殺もする。

そんな世の中にも年末年始というものは少しずつ近づいてきて、
クリスマスのメロディーが街に流れ人々は否応にも浮き足立つ。

私はそんな世界に住んでいることに、時々変な気分になるけど、
私には家族が居て、友達が居て、住んでる町があって、
穏やかにそしてささやかにそこに暮らしている。

音信不通の弟から父に連絡があった。
元気にしている、とのこと。
父は久しぶりの息子の声を聴いて思わず泣いてしまったそうだ。
仕事中、船の上で、エンジンの音で電話の声が聞き取りづらい中、
一生懸命その存在を確認した2分弱の時間。
家族の一人と一切連絡が取れない状況は、
やはり他の家族にとって不自然な状態だったことに気がつかされる。
私たち家族は弟の存在の無事を確認して、
なにかとても柔らかい空気になった。
今まで気がつかなかったのか、もしくは見て見ぬふりをして、
平気な顔をして生きていたのか、私達は言葉にださなくても、
弟のことで常に心に引っかかるものがあったのだ。
近い未来、弟に会う日がくるといい。
色々なことが「私たちには必要なことだったんだよね」と、
それぞれの心の中で分かりあえる日が来るといい。
それは私たち家族だけではなくて、全ての家族に言える事だ。
そんな事を日々祈りながら生きていきたいと思う。
この世をなんとか乗り切っていこう。みんなで。

私は家族について考える。
そしてこれからも家族について考えるだろう。

というわけで今日は、
アンダーワールドと、電気グルーヴと、相対性理論の
お三方に締めて頂きましょう。
夢の競演です。







最高ですねー。

2010年11月20日土曜日

役割

この世での役割ってものを考える。
私には私の役割がある。
あなたにはあなたの役割がある。
それをそれぞれが全うする。
私の役割はすごく地味なものだと思う。
思い込んでしまえば、その通りにしか世界は動かないのだけど、
そう考える事で、無理がなくなる。
欲張る事無く、自分が出来る範囲の事を、
精一杯、丁寧に、かつ確実にこなす。
そして日々を積み重ねて行く。
実際に自分が積み重ねて行くことの延長線上にしか、
自信や揺らがない思い、というのは存在しない。

家族が幸せに平穏に暮らすということや、
私の人生に出会うべくして出会った人たちが、
まっすぐに伸びて行く手助けをすることで、
ご飯やパンのような滋養的な存在でありたい。
そうならざるを得ないという、感覚に至る。

MOTHER3をしていてそんな事を思った。
改めてとても深いゲームであることを再確認した。

2010年11月19日金曜日

25周年

スーパーマリオブラザーズ25周年ということで、
DS LLの限定バージョンが発売していて、
すぐにでも買ってしまいそうな勢い。。
来年は3DSという代物が発売されるらしい。
映画もテレビもカメラもゲームもなんでも3Dの時代ですね。
あんまり魅力は感じませんが、どうなんでしょう。
『桃太郎電鉄WORLD』とか、やってみたいソフトもちょいちょいあり。
ゲームボーイミクロはMOTHERシリーズ限定ということにしよう。

↓一番なじみがあるマリオは1990年の『スーパーマリオワールド』だな。


桃鉄ってハドソンだったのか。
ちなみにハドソンはボンバーマンも創った会社。
ボンバーマンとかめちゃくちゃやったな〜。
はー懐かし。

ジブリ×RPG

いやー今日知ったんだけど(遅い)、
RPG×ジブリのゲーム『二ノ国』発売だってね!
やりた過ぎる…。
絵がめちゃくちゃジブリだし、
ストーリーも期待しちゃうし、
久々にRPG魂がメラメラと燃えている。
血湧き肉踊るとはこのこと。
まだMOTHER3もクリアしてないっていうのに。
12月9日発売らしいからそれまでにクリアしようっと!
てか『二ノ国』ってサブタイトルが“漆黒の黒魔導士”ってやつと、
“白き聖杯の女王”ってやつと2種類あって、
前のやつがDSで後ろのやつがPS3なんだって。
まんまとPS3欲しくなるやん…。
そもそもDSさえ持ってないから買わなきゃならんのに。
(MOTHER3はゲームボーイミクロでプレイしている。)
12月なんてクリスマスシーズンだし、
クリスマスプレゼントで買ってもらったり、
もしくはお年玉で買ったりするんだろうな子ども達は。いーなー。
(私ならそうする。)
明日からハリーポッターが公開だけど、
日本のファンタジー想像力のほうが断然上だと私は思う。
あー早くゲームしたい!
こんなにゲームの発売にわくわくするのは何年ぶりだろうか。
PV見てるとちょっとポケモン的要素もあるのかしら?と思ったり。



クラムボン×声優といい、
何かと何かが引き寄せられてぶつかるとき、すごくいいものが出来る気がする。

ニート魂

近頃正真正銘のニートであることを自負せざるを得ない状況。
転がり落ち続けるわ。地の果てまで。

世代間のギャップ、のようなものを感じる。
40代50代のおじさん達は、私が感じとっている世界を共有することは
けして出来ないし、30代の人でも社会と深く関わり、
それなりの立場を担っているような人たちとはうまく分かりあえない。
特に一家の生計を担っている男性なんて、
どんどん自分の地位を正当化したり、美談にしたがり、
そういったストーリーを無意識のうちに構築して、
自分が傷つかないように保護していて、ついでに家族も守っているので、
それ以外の世界や、生き方はますます受け入れ難くなっていく、
というのが歳をとるということだと思われる。

そういう、色々なしがらみのものと唯一距離を置いて生きて行ける手段が、
ニートと分類される人たちではないかと思う。
そしてそういう生き方をしている人々がたくさんいるこの時代は、
今後なかなか楽しみだと思う。
古い価値観や、昔流行った世界観にずっと捕われている人達だけが、
苦しんでいるし、これからも苦しみ続けていくのだと思われる。

ニート的ポジションから既婚の男性を見ていると、
女の人にうまく操られているな、という感慨を持つ。
男性は女性と共に暮らす事で、女性の方から家庭という世界を創る方向に、
どんどん染められて行く。
女性はそういう能力を持っている。男性が気が付かないうちに完全に支配する。
そもそも支配できるか、出来ないか、
または支配のしがいがある男性を選別して、すっ、と側によるのだ。
男性の容姿、性格、労働能力、全てを計算して、
自分の遺伝子と照らし合わせて混合させてよいものかどうかを判断する。
それでよいものが出来そうであれば、一緒に居ようとする、
というのが女の行動原理である。
ほとんど本能、動物的な行動である。
もしかしたら女の方がより獣に近いのかもしれない。
私も一応女なので獣に近い正直で誠実な言葉をだしてゆけるといいと思っている。

女が言語化していない、男性に知られたくない本性、
秘密みたいなものはまだまだ在るように思う。
そういうのをどんどん暴きたいな、と思ったりしている。
ニートで暇なので。

タム君の漫画『タムくんとイープン』と、『帽子の下の煙』を読む。
イープンというのは日本という意味で、タム君が感じる日本を漫画にしいてる。
もしかしたら今、一番日本をわかっているのではないかと思う。
私たちはずっと日本に暮らしていて、日本の事が当たり前で、
その中でしかウロウロできないけれど、タムくんはタイ人なので、
とても客観的に日本人のことを見ている。
でも同じアジア人なのでちゃんと理解しているし、
大きな心で受け止めてくれていて、日本人の滑稽な姿が浮き彫りになっている。
富樫義博の『レベルE』とか、はやぶさ君の人類初の快挙であるとかを考えると、
日本人てほんとにすごいなーと思うのと同時に、
日本人という宇宙人というか、そういう風にも考える事が出来るように思う。
完璧主義者で、何事も追いつめて、表面上はキレイに取り繕って、
汚いものにはフタをする。そういった事が限界になって、
自殺するほど自分を追い込んだりする。そんな宇宙人。
本当の優しいとか、かわいいとか、そんな事も知っていて追求する人たち。
色々なことがちぐはぐしていて、たくさんの可能性を秘めている、
突拍子も無い世界を発信しだす人々。
たくさんのアンテナがあって、日本人という言葉を形創っている。

田舎にあるよくわからない建物や創造物、人々に、
ディープな日本の姿を観ている都築響一という人に私は激しい共感を持つ。
宇和島なんていう、陸の孤島で暮らして制作活動をしている、
大竹伸朗さんだってそうだ。
何も無いと思われがちな田舎で、田舎のリアルを、
つまり真実の日本の姿を発信し続け、また勝手に夢を見続け、
創造し続けることで、世界の見方に変化をもたらしたいのだ。

世界は一人の人間の捉え方で、いくらでもおもしろく変えることができる。
そういった考えを持つ人の人生には、
学歴も、収入も、ほとんどなんの意味ももたらさない。
しかしそれらの価値観に執着する進化が出来ない人間がほとんどだし、
これからもそういった世界は存在し続けるだろう。
なぜなら、安心だからだ。
安心だけどつまらない。毎日つまらないと言って文句を言い続ける。
私はそういった世界からドロップアウトさせてもらう事にしよう。
不安だけどおもしろい方が性にあっている気がするので。

2010年11月18日木曜日

カタルシス

感情の解放、浄化。

そういえば、ASA-CHANGが11月24日に桑名で、
タブラボンゴナイトをするらしくて近くで行ける人は、
音楽の世界を耕されに行ってみてください。世界が変わります。
もう一度伊勢でやって欲しい気もするけど人を集める自信がない。
音楽について真剣に考えようという気の人はほとんどいない。
(少なくとも私の周りには。)
難しく考える事を嫌っているし、
ほとんどの人が音楽は楽しむものだと思っている。
愛好家が表現者の真似をしてのさばっている。
しかし、人は表現をしたいのだ。
自分の胸のうちにある感情を自分なりに伝えて、共感され、評価を得たいのだ。
ただ自分が気持ちがよくなるために表現をする。
そういう世界で暮らす人たちは確かに存在する。
そして私もそういった類いの人たちと同じだったりする。

都築響一氏のブログが毎週水曜日に更新されるのだけど、
毎回とてもおもしろい。
アウトサイダーについての文章がぐっときた。

他人の作ったものに満足できないから自分で作る、
というアートの根本的な衝動/動機を思えば、
アウトサイダーであることこそがアートの本質でもある。”


秩序であるとか、何が正しくて、何が悪いなんてものは、
本当はないような気がしてくる。
すべての人間はそこに存在して、
なにかしらのメッセージを放っている。
その膨大な人間の在り方を認めつつ、
何かを見つけて世界に発信すべきなのだ。

他人の助けを求める声に自然とよってしまう。
そして、そこにある穴を埋める事を無意識にしてしまう。
そんな風にして、私は産まれてきてこのかたずっと、
人の穴を埋めることをしていたように思う。
親にはじまり、友達、恋人。
想いが強くなると同化してしまい、距離感が掴めなくなり、
他人を憎み、距離を置く事もあった。
ここに書く文章たちは私の穴を埋めるために自分でこしらえたものだ。
ある程度満足した私は、再び、どこかの、誰かの穴を埋めようとする。
そうやって私の世界はいつだって回っていたし、
これからもそんな風に過ぎて行くんだろう、
という自分自身の性質のことを今日はっきりと気がつく。

NE MU I

昨日、原田郁子と高木正勝が音源を発表した模様です。
少しばかり視聴してとても素敵でしたが、
なんか色々ややこしそうだったので、まだダウンロードしてません。
そういえば、この二人はなんとなく似てるかもしれない、と思った。
どちらもすごく好きなので、「あー繋がったな」という印象。
最近、原田郁子&クラムボンを聞き直していたところなので嬉しい情報だった。
高木正勝の曲も聴きなおしてみようかな。

ASA-CHANGのインタビュー記事を読む。
http://r-circus.com/cotoba_interview20101010.html
非常に興味深い内容だった。
やっぱりASA-CHANGはすげーや、と思った。
音楽や楽器に対する愛情が深すぎる。
愛って、突き詰めるって、物事を深く掘り下げるって、
こういうことだな、と思った。
音楽を取り巻くなんか気持ち悪い感とか、いまいち乗り切れない感を、
少しでも感じたことのある人がいたら、これを読むといいと思う。
インタビューしている人が、大学生ってことにも驚く。
やっぱり若い感性って素晴らしいな〜。清潔さが出ていてとてもいい。
人って生き物はどんどんよくなっている証拠だと思った。

『レベルE』を友達からもらった。
全部読み直した所、やっぱりすごく面白かった。
すごい斬新!富樫先生天才!
『幽々白書』も読んだらおもしろいかもなぁ。

ツイッターを1日2回チェックするのだけど、
その度に最新情報がたくさん入ってきておもしろい。
が、ちょっと疲れる。アナログ人間だからだろう。
ツイッターって新しい世界が頭の中で開拓されていく感覚する。
人間が情報を伝える、繋がる、部分がどんどん高速化している感じ。
めまぐるしく、世の中は動いてるんだなぁ、なんて眺めてしまう。
一体私の立ち位置はどこなんだろう、なんて思ってしまったりして、
路頭に迷っているのだけど、未だに定まらない。
一生定まることなく、ふわふわとしてるのかもしれない。
それも悪くない。

人が一人、普通に暮らしている事の安心感について思った。
一人の人が、たんたんを日常を過ごしているというだけで、
どれだけ周囲を支えている事だろう、と思う。
揺るがず、ただ確かに生をつないでいる事。
大きな声を出したがる人たちばかりの世の中で、
もくもくと、言葉に出す事なく、
確かな光を抱いて大切に日々を過ごしている人。
ツイッターにもインターネットにも興味を持たず、
日々をつないでいる人。
近頃、そんな人たちの事を思い、
そんな事にやけに感動したりしている。

2010年11月15日月曜日

海の幸

雲丹

牡蠣
雲丹のグロテスクさにはびびりました。
ひさびさに見たけどやっぱりえぐい!
身があんまりなくて肝ばかりという発育の悪さが、
さらにえぐさに拍車をかけているような気がする。
もはやモザイクしたほうがいい気がする。
とは言えどちらもおいしく頂きました。新鮮なものはなんでもうまし!

伏見稲荷大社にて

京都へ行ってきた。
にしんそばとか、湯葉とか、京風おでんとか、
なんやかんやとおいしかった。
伏見稲荷大社と下鴨神社と哲学の道もよかった。
歩きながら、ご飯を食べながら、友達と色々話が出来たのもよかった。
日帰りだったけど、いい旅だった。
色々な考えが在り、色々な答えが在り、そこに居るということ。
自然に出会ったり別れたりを繰り返してゆけばいいと思う。
無理はしない。のびやかにいこう。

朝から喉が少し痛くて体調が悪く、拍車をかけて機嫌も悪く、
なにもかもが嫌で、誰の顔を見ても気持ちがのらなくて、
「今の仕事をやめたい」と思って、最悪の態度で他人と接して、
他人を不快な気持ちにさせてしまった。
そんなことを思い返すと全くの駄目人間のような気がして、
ますます引きこもりたくなった。
私は本当に何も出来ない人間で、他人に愛想も振りまけないし、
仕事だと割り切って対応することもできないし、
その時の気持ちに全く嘘をつけなくて、そういう自分が嫌なんだけど、
治すことができないでいる。
大人になるって、社会人として生きるってそういうことだ。
自分で自分を自制する事。本音は出さない事。
その場の空気が第一優先で、私の気持ちなんてものはどうでもいい事なのだ。
そんな風に考えると息苦しくなってきて、
色々なことが負担になってきて、仕事を辞めたくなるのだ。
そうならざるを得ない自分を呪いたくなる気持ちと同時に、
そんな風にして、ごろごろとどこかに転がり続けていこうとしているのだと思うと、
別にそういうのもありかもな、とも思う。

三重県のとんでもなくダサイところをもっとフューチャーしてもいいのにと思う。
みんな夢というか、いい所を無理矢理見過ぎだろう。
目の前にあるものは、こんなにも気持ち悪いものばかりなのに。
ださくて、下品で、つまんなくて、中途半端で、馬鹿で、まるで自分みたいで、
私はそんなところが鳥肌が立つぐらいに嫌いで、どうしようもなく愛しているのだ。

私たちはどうあがいたって変だし、
悲しい生き物で、
それを認めようとしないでいると、
とてもおかしなことになるのだと思われる。

ヨイ夜ナ


ドあっぷ

2010年11月13日土曜日

かに男たこ娘

今日はハウジングセンターでスイーツを売るアルバイトした。
告知の仕方が悪かったのか、ほとんど人が来なかったので、
すごく暇だった。
ずっと曇りで寒いし勘弁して欲しいわーなんて思っていたら、
帰りに余った大量のスイーツをもらった。
それで1日一万円。悪くない仕事だった。

さっそくヴィレバンに行って『カッコカワイイ宣言!』を買う。
あとタム君の漫画を2冊。
富樫先生の『レベルE』も欲しくなったのだけど、
“下”しかなかったので見送る。
『カッコカワイイ宣言!』は、モロうすた京介の影響受けまくりだったのが、
とても気になり、なんか恥ずかしい気持ちになってしまい、
途中を飛ばして読んでしまった。
もう一度読み直さなくては。
地獄のミサワ先生のオリジナリティも確かに在るんだけれど、
うすた京介には及ばない、という感じがする。
しかし、何かに気になるものがあるので、
今後自分の世界を確立していくのかもしれない。
井上雄彦の初期の『スラムダンク』もなんだかくすぐったい感じがしたけれど、
あんな大物に化けていったので、同じようなタイプなのかな、
と思ったりした。

明日は京都に行ってきます。

2010年11月12日金曜日

地獄のミサワ


新しいタイプのギャグ漫画家がぐいぐいきているようだ。
うすた京介、おおひなたごう、とリスペクトしているギャグ漫画家は
たくさんいるけれど、今回の地獄のミサワという人は、
ものすごく希有で幸運なタイプの漫画家であると思われる。
『カッコカワイイ宣言!』という漫画を発売したのはいいが、
アマゾンでは常に売り切れ状態(というかカートにも入れられない状態)で、
すでにアニメ化にもなっている。
声優陣もクレヨンしんちゃんのひろしとしんのすけを起用していてすごく豪華。
集英社も慎重に刻一刻と世間の反応を読みつつ動いている感じがする。
作者本人もすごく慎重だ。世の中の流れをしっかりと掴みつつ、
このタイミングで荒稼ぎしたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
しかし、嫌じゃない。そういう駆け引き。
地獄のミサワ自身がニコニコ動画に出演していて、
担当編集者とのやり取りも、下手な若手芸人よりもよっぽどおもしろいし、
自身の両親を連れてきたという問題のインタビューもおもしろい。
あれだけ作者が露出するのも結構珍しいのではないだろうか。
集英社側も本人を出した方がよりおもしろいと踏んで、
企画しているように思う。
サイトはこちらhttp://jigokuno.com/
土日休みで月曜から金曜更新というのもおもしろい。
ここから動画ページにも飛べる。
インタビューはこちらhttp://ascii.jp/elem/000/000/557/557822/
「なぜ両親が!?」と思うけれど、インタビューを読み進める内になんとなくわかった。
普段親と何も喋らない代わりに、インタビューの席に同席させて、
自分のやっている事を伝えたかったのではないかと思う。
仕事のついでに親にも理解してもらえる一石二鳥の場所だったのだろう。
他にも自分の口からは照れくさくて伝えられない自分の姿を、
親に喋らすとか、すごく頭がいいんだろうな。
井上雄彦の絵を真似していたとか、
ピューっと吹くジャガーは漫画を描き始めてから読まなくなったとか、
なんか言ってること全部がいいんだよなぁ。

今回でそれなりに稼いで現状維持で人生を過ごしていけるといいね、
と、素直に応援したくなる人である。
きっとそうなるんだろう。

ちなみにミサワ先生は26歳。はー若いねぇ〜。

猫の水飲みテク

本日のホットな記事。
中日新聞より抜粋。


『猫舌スーパープレー!? 素早く作った水柱でごくり』
猫が舌先でぴちゃぴちゃと器用に水を飲むメカニズムを、米マサチューセッツ工科大などの研究チームが高速度ビデオ撮影で詳細に解明し、11日付け米科学誌サイエンス電子版に発表した。猫は犬のように舌先を丸めて水をすくい取るのではなく、舌先を手前側にJの字形に丸めて水面に浸した後、素早く引き上げて細い水柱を作り、タイミング良く口を閉じて飲むことが分かった。猫10匹の実験結果では、舌先を水面から引き上げる速さは秒速78センチで、水柱にして飲める量は1回当たり0,14ml程度。一秒間に3,5回のハイピッチで舌先に水を浸していた。このメカニズムは、水を柱状にして引き上げる慣性力と、水が落ちようとする重力のバランスで成り立っている。猫だけでなく、トラやライオン、ジャガーなどネコ科計8種共通して、この慣性力と重力の比率が1対1に近かった。大柄で舌が大きい種ほど、舌の動きのピッチが遅かった。研究チームは、舌先を模した小さなガラス円盤(直径2,5〜5㎜)を水面に浸してから引き上げる実験も行い、水柱ができる様子を測定した。研究成果は、動物に似せたロボットを開発するのにも役立つという。


こういう記事を読むと人間てなんてくだらなくてなんて素晴らしいんだろうと思う。
エネルギーを注ぐ対象は本当に様々だ。

クラムボン×声優


いい歳して、こんなにもかわいい曲を聴いてじんわりする事が出来て、
日本人に産まれてきてよかったとつくづく思う。
それはジブリを小さい頃から観れてよかったと思う事とほとんど同じだ。
やっぱ日本のそういうところってすごいし、日本人ていいなーと思った。
歳をとってもアニメの世界を保持し続ける事が出来る事のすばらしさよ。

中華そば

今日は仕事で中華料理屋に行って、
とても中華が食べたくなったので、
帰りに小さい頃から出前をとっていた家の近所の中華料理屋さんに行った。
出前は何回もとったことがあるのだけど、
お店に行ったのは初めてだった。
週刊誌と色あせた漫画とテレビがある、昔からの中華料理屋。
とても落ち着く店内。
私の前に一組の若いカップルが座敷で食事をしながら、
テレビをぼんやりと眺めていた。
私はカウンター席に座り、壁に貼ってあったメニューが目に入り、
“中華そばととり丼のセット”を頼んだ。
週刊女性を持ってきてパラパラとめくり旬なゴシップネタを探すが、
たいしたネタは拾えなかった。
久しぶりに食べた中華そばは、昔食べた中華そばそのものだったので、
ひどく感動した。
小さい頃に中華そばを家でよく食べた記憶がずるっと出てきて、
それにともなって、その頃の気持ちとか景色が丸ごとやってきた気がした。
20年以上この場所でお店をしてくれていることが、
心からありがたいと思った。
これから定期的に通おうと思う。

アメトーークに引き続きバナナ炎をみる。
アメトーークは『運動神経悪い芸人』。
ほとんど『中学の時イケてないグループに属していた芸人』だった。
色々共感した。
運動出来ない人の引っかかるポイントってやっぱり似てるんだな。
バナナ炎はちょっとガキ使のフリートークスタイルと似てると思った。
ダウンタウンの場合、松本がひたすらつっぱしって、
そこに浜田がツッコミをいれるスタイルだけど、
バナナマンはひとつのテーマについてだらだら喋ってるうちに
自然に二人に役割分担が出来てコントが始まる感じ。
しかもどちらもがボケをしツッコミもする。
おもしろいコンビだなぁ、ほんと。

2010年11月10日水曜日

荒野に立つ

何度でも何度でも荒野に降り立つ。
砂漠の真ん中で体ごと吹き飛ばされそうな強い風を全身で受け止めて、
裸足で、両足で立つ。
そして一歩ずつ、確実に、歩をすすめる。

たったひとり、自分だけの世界。
友達にも、家族にも、恋人にも、
絶対に来る事が出来ない、そんな世界。

私は人間として生きている限り、
その世界の住人として生きなくてはいけない。
一体どこでそんな約束をしてきたのかは解らない。
ただ理不尽で完璧なまでにそのことが決められている。

ザーザーとひどい砂嵐の隙間に聞こえる遠い声。
ふとした瞬間、一瞬だけ見える懐かしくて新しい風景。

遠い声と、一瞬の風景を見るために荒野に降り立つ。
なぜなら荒野にしかないのだ。
私の人生を前進させる為に必要な決定的なアイテムは。

言葉が足りないとサルになる

大学時代、友人が入っていたゼミの教授が本を出した。
『言葉が足りないとサルになる』という本。
とても興味深いのでいずれ読むつもり。

言葉というのは不思議なもので、
私たち人間に無くてはならないものである。
言葉を話すのは人間だけだ。
猫を見て「かわいいなぁ」と言葉に出したり、
美味しいものを食べて「おいしいなぁ」と言ったりするのが人間。
ほとんど動物的な感覚で誰かと話をして、
快、不快を嗅ぎ分ける。
そこら中に散らばっている文章だってそうだ。
世の中には不快な言葉が蔓延している。
つまり不快な考え方、不快な感じ方、不快な人という事になるのだけど、
それは私の感覚なので、間違っているという訳ではない。
それを他者は快いとし、受け入れられる場合もある。
「えー!ちょっとちょっと!そこの変な感じ無視しちゃうの!?それでいいの!?」
なんて思ったりもするのだけど、本人はそれでいいのである。
私の感覚を促したとて「?」と思う部分が多々あるのだろうから。
そこはよっぽどの事がない限りそっとしておくのが一番である。
つまり、私は誰かにとって不快な存在である可能性がある。
誰かの事を嫌だなーと思っていたら、
きっとその数と同じぐらいの人が私を嫌だと思っている。
私のずるさや汚さ弱さちぐはぐさを日々垂れ流しているからだ。
こんなふうに。
しかし私はこの作業を辞めないだろう。
なぜか?と聞かれたら多分こう答える。
「生きているからです。」
言葉を出し続ける事は人として生きているという事の最大の証明であり遊びなのだ。
一瞬のうちに通り過ぎていく世界に敬意を払い続けていこう。

プラスティック・ポエム

突然ですが、ブログのタイトル等を変更しました。
一貫してお笑い志向でいけるかなと思ったのですが、
やっぱりそんな事ができるはずもなく、
日々暗い事、苦しい事、悲しい事が頭の中を通過する訳で、
とはいえ、その状態がずっと続くという訳でもなく、
忘れてテレビをみて笑ったり、友達と馬鹿話はするし、
ご飯はおいしいし、相変わらず支離滅裂に人生は経過して行く。

『アヒルの子』という映画がある。
公式サイトhttp://ahiru-no-ko.com/
予告編を観ただけで号泣した。
観たいと思ったのだけど、名古屋はすでに終わっているし、
三重県のどこかの映画館で是非上映してもらいたいけれど、
なかなか難しそうな内容だ。
しかしやるべきだと思う。
本当に人を癒す事はこんな風にしか出来ない。

それにしても改めて三重県ってほんとおもしろい。
伊勢神宮×秘宝館×ヤマギシ。
世界の坩堝だとおもう。
この土地に一体なにがあるんだろう。
三重県津市出身の浅田政志という写真家は『浅田家』という
研ぎすまされた家族愛のカタチを写真に残し、
『アヒルの子』の上野さやか監督は三重県伊賀市で発足したヤマギシ会の学校に居た。
そして大人になって家族とぶつかった。
親に傷つけられた自尊心をもう一度手に入れるためにに立ち向かった。
私たちは多かれ少なかれはねじ曲がって成長する。
村上春樹の1Q84も親に傷つけられた子どもが自尊心を取り戻す物語とも言える。

2010年11月8日月曜日

シャブリなコメディ

今日はDVD三昧の一日。

入江悠監督の『サイタマノラッパー』、
大根仁演出の『アキハバラ@DEEP』、
あと、バナナマンの『シャブリなコメディ』。

最近ほんとにバナナマンのラジオばっかり聞いているので、
どんなライブをするのかすごく気になりDVDを借りに行ったのだけど、
ちっともなくてビックリした。
あんなに評判がいいのに!?なぜ!?意味がわからない。
その代わりにおもしろくもなんともない一発屋芸人のDVDがたくさんあった。
そもそも韓国ドラマのDVDの棚が異常に多くて、
店内の棚を占領しているのは一体なんなのか。
こういうのを自己中心的な考え方は、
現代病なのであって将来的にモンスターペアレンツみたいなものになりそうで、
嫌なので出来れば辞めたいが、悲しいことには変わりはない。
なんでも欲しいものがすぐ手に入る環境というのは、
欲求を満たす快楽と引き換えに何か恐ろしい心の働きがありそうで、
すこしこわい。
『シャブリなコメディ』はライブDVDではなく、
映像と音楽を使った作品だったのだけど、
「バナナマンてこういう世界も持っているのか」
と、新しい発見であった。
同じ映像で3カ国語くらいで収録してあったりと、
たしかに世界共通で笑えるような、かなりワールドワイドな作品に創ってあった。
やはりますますバナナマンの深みにハマっていく感じである。

入江悠監督の『サイタマノラッパー』は何かの記事で評判になっていたので、
前々から観てみたかったのだけど、レンタルしていたので借りてみた。
田舎のダサ加減が最高だった。
地方の人たちは「そうそう!そんな感じ!」とすぐに共有できる風景が目白押し。
いとうせいこう氏も推薦している。
日本人が、田舎でヒップホップをしている事の、無理さと滑稽さ。
そう考えると、スチャダラパーはかなりすごいと思った。
普通の人がするとすごくダサくなってしまう素材を、
見事におしゃれに変換している。相当頭がよくないと出来ない事だろう。
入江悠監督は神聖かまってちゃんの映画も撮ったそうだ。
来年1月に公開。
ちょっとみてみたい。

大根仁演出の『アキハバラ@DEEP』は、
2006年にTBSの深夜に放送されていたドラマである。
『去年ルノアールで』『週刊真木ようこ』『モテキ』などの話題作に携わる
名演出家だ。
原作は石田衣良。『池袋ウエストゲートパーク』といい、
街を中心にして物語を書くのが得意らしい。
それにしてもとてもよく出来た内容で、普通に引き込まれてしまった。
ちょっと外国人に見せてあげたいな、と思ったりした。
ますます日本て国はおかしいと思うに違いない。
ちなみに、このドラマにはバナナマンが出ていて、
やっぱり彼らの演技が抜群におもしろい。
どんな役者よりもうまいと思う。
ほんとに私の中でバナナマンの評価が鰻登りである。

そしたら今日偶然にもユーストリームでモテキのイベントを配信していて、
その中で大根仁と入江悠の対談をやっていて、とても興味深く拝見した。
『モテキ』が『500日のサマー』を一部参考にして創られている事や、
入江悠監督のキャラクターがおもしろい事や、とにかく色々。
当たり前すぎておもしろみに欠け普段人に捨てられているような事が、
実はすごくおもしろくて、映画やドラマや小説のネタになるのだと思った。

地方のおいしいもの美しい風景、そんなものばかりを取り上げて、
もっとリアルで悲惨な現状には見て見ぬふり。
そんな体裁のよさばかりを取り繕う人間にはうんざりなのだ。
より突き刺さってくるのは、どうしようもない人間達の、
どうしようもない物語。
今すぐに取りかかるべき事はありのままを見つめてゆく事。
それだけで、随分世界はおもしろいものに変わるのかもしれない。

戦場カメラマンの渡部陽一さんの存在に、
私たちはどれぐらい救われているんだろうか。
なんて大げさに考えたくなるような人だと思う。

2010年11月6日土曜日

辞世の句

今日は朝から10年以上前に、
池袋で母(70代)と息子(40代)が餓死した事件で、
その母が死ぬ直前まで書いてた日記を読んだり、
死刑囚の辞世の句を読んだりして胸に迫るものがあり、
喫茶店でひとり涙ぐんでいました。
どちらも都築響一氏の『夜露死苦現代詩集』に載っている。
本当に素晴らしい本だと思うけど、
きっとほとんどの人はこんなの読みたくないだろうし、
出来ればそんな世界の事とは無縁で生きていたいと考えるだろう。
ましてやお金を出してわざわざ買おうと思う人なんてほとんど居ないだろう。
そんな事は自分の人生には関係のない事だし、
これといって問題の無い(と思い込んでいる)
人生にわざわざ不幸な匂いを漂わせたくない。
出来る限り陽気な音楽と美しいもの囲まれて幻想の世界を生きたいと考えている。
しかし実際に彼らが住んでいる世界は、
嘘と裏切りと浅はかな思い込みと他人への配慮が欠けた傲慢な世界。
些細な事に苛立ち、心の奥底のドロドロとしたものにフタをして、
そこにあるものでさえも、まるでなにも無いかのようにしてしまう、
狭い狭い幻の世界。
そんな風に世間が“ない”ものとして黙殺するものを、
きちんと拾ってじっと眺める作業をしているのが、
都築響一という人だと思う。

近頃私は人間のいやらしさや汚さみたいなものをひしひしと感じてしまっている。
正直なところ自分をよく見せようとする必死さにうんざりしている。
特に男。
知識の量を女にひけらかす奴。
(結局、量だけで全くモノになっていない。)
偉そうに先輩風を吹かせる奴。
自分は常に上の立場に居なければ気が済まない奴。
他人を思い通りにしようとする奴。
女を数人まわりに置いて値踏みしている奴。
一人きりになる勇気もない奴。

しかし男というのは自分の良いところを女にアピールして、
よりいい女と出会い自分の精子を卵巣に着床させ種を残すという目的のために、
ほとんど生きているのであって、だとしたらそこに必死になるのは、
ある程度はしょうがない事なのかもしれない。

しかし、うざい。
そこをうざいと感じたら女として駄目かもしれないけれど、
現状に甘んじてヘラヘラ生きているような、
ぐずぐずの男達にさらに向上してもらうためにも、
そういう事実は誰かが言わなくてはいけないことのような気もする。

子は親の夢

今日は四日市(カレー)→久居(免許の更新)→伊勢(ロウソク)
とわりと忙しくしていた。

四日市のカレー屋では写真展が行われており、
なかなか見応えのある写真が飾られていた。
カレー屋の主人としばし談笑。
ここのカレーもかなりおいしい。
チーズときのこのカレーを食す。

高速道路をすっとばして久居の免許センターに免許の更新をしにいく。
違反者講習の映像で河合我門を久しぶりに見た。
事故を起こし、ひたすら不幸のどん底に落ちる役だった。
まんまと「事故したくないなー」と思った。
しかし講習のおじさんのやる気の無さは一体なんなのか。
あれでいいのか、公務員よ。

日が落ちてから、伊勢のヨイ夜ナに行く。
ロウソクがものすごく並び当然キレイでした。
大道芸人がお手玉をしながらルービックキューブをするという、
スゴ技を見せていた。
大道芸人ってすごいなー。

若い人の熱意や、やる気は時にまぶしく、というかチャラチャラしていて、
なんだか独りよがりが過ぎて、イラつくことが多いけれど、
今日はますますその気持ちが強まった。
「みんなで盛り上げようぜ!」という若者のサークルのノリを、
街全体にに移そうとしないで欲しいと思う年寄りがいることを忘れないで欲しい。
あの、ペラッペラの熱意や、行き場のないエネルギーってなんだろう。
同年代から見ていても時々死にたくなる。
こういう風に思うのは間違っているのだろうか、
と思う事も在るし、
結局何もしようとしない人間が口出しする権利もないかもしれないけれど、
やはりどうしてもあの安いノリにのっかる事ができない。
とはいえ、他にいい方法はないものかと考えるけれど、
それに成り代わる新しい提案が思いつかない。
どんづまり。
それでも、簡単にのっからないで、
新しい世界が見えるまで待つことはわりと大事だと思う。

2010年11月4日木曜日

HEAVEN⇔HELL

昨日の不穏な心の動きはもしかしたら未来からのメッセージかも、
なんて思う一日。

父親を助手席に乗せて「今日は天気がいいねぇ」なんて
のんきに運転していると、張っていた警察に捕まる。
(くしくも元秘宝館跡地。)
前を走っていた日産フーガが急ブレーキを踏み、
ぶつかりそうになる。
ほんと「事故った」と思ったけれど間一髪無事だった。
ビビリすぎてぶるぶると手が震えた。
捕まった原因は父親のシートベルト違反。
罰金なしの減点1点。

その後、津方面へ書店巡り。
バイトしている雑誌の在庫のチェックと補充。
エベレストというカレー屋に行く。
今ネパールのお祭りらしくて、ドリンクをサービスしていた。
ラッシーは今までないぐらい甘かった。がおいしかった。
カレーも多分今までで一番おいしい。
今度他のカレーも食べてみたい。
ちなみに明日は四日市のカレー屋さんに行く予定。

そういえば、ドイツのサンタクロースは、
赤と白の普通のサンタクロースと、茶色っぽいサンタクロースがいるらしく、
茶色のサンタクロースは“なまはげ”と似ているらしい。

読まなくちゃいけない本がたまってきた。
今日は都築響一氏の『HEAVEN 社会の窓から見たニッポン』
と『夜露死苦現代詩集』がアマゾンから届いた。
会社の人から薦められた赤瀬川源平の『超芸術トマソン』と
『老人力』も読まねば。
相変わらずモテなそうなものばかりが気になっている。

追記
アメトーークの新しいDVDおもしろそうだな。

苔むす

心にぽつぽつとカビが生えたかのよう。

時々さみしくなっちゃうんだな。

今まで平気だったはずなのに。

ちょっとしたことで足をひっかけてよろける。

みんな幸せそうで、私だけが腐っていく感覚に浸食される。

拡大する自意識過剰にはもううんざりだ。

結局、私は私のまんまでここに居続けなくてはいけないのだから、

やる事といったら、いかに捉え方を気持ちよくしていくか、だけなんだから。

そんな日はうだうだ考えてないで早く寝るに限る。

2010年11月2日火曜日

ストリートは発情している

ひとりワインブームである。
家でワインをとにかく飲んでいる。
ポリフェノールとやらでビールを飲むよりも健康だと思っている。
なにより安い。
妙に健康志向の国産のワインを飲み比べて、
私なりのベスト国産ワインが見つかれば良いと思う。

このごろなんだか頭の中がしっちゃかめっちゃかだ。
何か考えているようで何も考えていない気がする。

今日は喜心というお店に行ってきた。
ナチュラル、ベジタルフードのお店。
ストイックなオーガニック。
(韻踏んでる。)
一度行ってみたかったお店だ。
ほとんど修行みたいな世界だった。
教会の修道院みたいな、そんな空気。
日々、健康への祈りを捧げている場所。
少し女の人のヒステリックなものも感じられる。
味はおいしいのだけど申し訳ないが、
反動でマクドナルドが無性に食べたくなってしまった。
私は俗人であることを痛感した。

なにかふわふわと思考が固まらない。
前はすぐに言葉で固めていたのだけど、
どこかでそうしたくないと感じている。
同じ視点で同じ力を加えて言葉で固める事で、
私を獲得していた気になっていたのだけど、
なんとなく、そうではない空気感が漂っている。
違う視点が必要なのか、少しずつエネルギーの出所が変化していく。
そんな風にして生きる事がラクになる。
今後、苦しくなる事も在るかもしれない。
しかし、今は楽である。
歳をとるとは、ただ単に視点が移動することなのかもしれない。

2ヶ月ぶりに髪を切る。