2011年5月31日火曜日

ハルキと猫

おとつい細野さんをNHKで観て、昨日はユーストリームで観る。
NHKで改めて細野さんの生き様を観て、その突っ走りぶりには感動した。
やっぱりいつも新しいものが好きなんだなぁ、ていうのも伝わってきた。
それか極端に古いもの。

あと原田知世とコシミハルの髪型の被り具合に注目していた。
流行ってるんかな。
salyuもあんな感じだしな。
ちなみに私もああいうのしてた。

なんとなく今はアンビエント音楽の気分だ。
細野さんの「omni Sight Seeing」を引っ張りだして聴いている。
明日友人に貸す予定。

最近ブログの更新が(私のわりに)滞っているのは、
パソコンをしていると猫がキーボードの上に乗り邪魔をするという、
嫌がらせにあっているからだ。
猫が熟睡している間に、こそこそと書き上げなくてはならない。
パソコンに向うにはタイミングが必要になってきた。
ブログを書くのに猫の様子をうかがわなくてはいけないとは、
まるで悪い男に引っ掛かったみたいだと思った。
やれやれ。(←ハルキ風味)

2011年5月26日木曜日

シェルター


なぜか上半身をティッシュの箱に委ねる猫。

「グーグーだって猫である」のグーグーが亡くなっていたことが判明。
しかもなぜかスヌーザー編集長の田中宗一郎さんのつぶやきで。
今の時代どこからどう情報が入ってくるかわからない。
近頃やっと大島弓子さんの漫画を集めるようになった。
だいぶ昔から大島弓子さんのことは知っていたけど、
今みたいな心境になってやっと大島さんの世界観を欲するようになった、
というかんじ。
今のときの為に読むことを留まっていたみたいだ。
作品や人と出会うタイミングは、こちら側の心の模様による。
そういう風に人生はできている。

というわけでここのところ古本屋さんに行って、
大島弓子さんのほかに、おーなり由子さんや、
「みかん絵日記」の我孫子三和さんの漫画を買い漁っている。
甘ったるいぐらいに優しくて、昔から知っている世界。
懐かしくて、暖かい、あの世界。
誰からも、何者からも毒されていない、密閉された世界。
世の中の色々に追い込まれるようにして、
私は今あの世界に逃げ込んでいる。
私にとっての精神的なシェルターだったのだ。

もうしばらく、内省的な世界に引きこもる。
もしかしたら永遠にその世界に住むかもしれない。
でも残念なことに、時期が来たら自然と出て行くんだろう。

2011年5月25日水曜日

種と苗と

朝顔をプランターに植えた。
ひとつのプランターには苗から、
もうひとつのプランターには種から育ててみようと思っている。
まだ種が余っているので、
もっと撒いて育ててみるつもりだ。
ぐんぐん育つといいなぁ。

母親が「すっぱいものが食べたい」と言うので、
ピクルスを作ろうとおもう。
きゅうり、にんじん、だいこん、カリフラワー、パプリカ、などで。

近頃、カレーうどん→伊勢うどん→味噌焼きうどん、
とうどんをよく食べている。
讃岐うどんのように太くてコシのないうどんは、
やはりやさしい。
けど、讃岐うどんのようなコシのあるうどんもたまには食べたい。

今日も世界は平和だ。
色々な問題はあるが、ひとまず平和だ。
極小の世界で、ささやかな幸福の中で、
これからもぬくぬくと生きたい。

2011年5月22日日曜日

グリーンカーテン

節電に一役買おうというわけじゃないけど、
今年の夏は朝顔で緑のカーテンを作ろうかと目論んでいる。
小学生ぶりに朝顔とむきあってみようかと。
グリーンカーテンだけじゃなくて、
畑しようかと思ったり、思わなかったり。(どっち?)
高木美保や、杉田かおるのように、
年増の独身女性の心の最後の拠り所が畑だと思うんだけど、
もはや28歳にしてそんな心境になってしまったのかどうかはさておき、
畑いいなーと思っている。
いまのところ。

ブログを2個持つことにした。
以前利用していたはてなダイアリーを復活させて、
そちらに重めものことを書いて、
こっちには軽めのことを書いていこうかと。
http://d.hatena.ne.jp/krtec1129/
(ブログの右側にリンク貼ってあります。MONOlogueってやつ。)
うまくいくかどうかはわからない。
とりあえずやってみる。
見切り発進もいいところ。

自分が軽い人間なのか、重い人間なのか、と言ったら、
どちらも面も大いにある部分なので、
気分によって書く場所を変えてみたら、
また違ったものがみえてくるんではないかと思い。

こっちには主に、音楽のこととか、身の回りの軽いこととか、
そんなことを書いて行こうと思う。
書いてる途中で軽い→重いに移行する可能性は十分にあるんだけど。

2011年5月21日土曜日

まさかの沖縄化







昨日いつもお父さんの職場に行く途中の海が沖縄のようにきれいな海だった。
車から眺める光景に胸がざわざわして、
思わず車を海岸の方に走らせていた。
砂浜に着くと私ひとりで、少しの間ぼんやりと眺めていた。
久高島の砂浜を思い出して、
いつの時代も波打ち際が持つ浄化効果は変わらないんだろうと思った。

生きていることのシンプルさを考える。

2011年5月19日木曜日

ビョークっぽい人々




タイコクラブにマイア・ヒラサワという人が出演するのだけど、
youtubeでチェックしてみたところ、なかなかよい。
コメント欄にビョークっぽいと言われまくっていて、
まぁ、確かに似てるけどビョークにはないポップさがあるかんじ。
ビョークに似てると言えば、
レジーナ・スペクターも似てると思うんだけど、
レジーナ・スペクターよりも似てるな、確かに。
でも本家の迫力というか、観たり聴いたりしてて、
同じ人間として動物的な根源を揺さぶられるのは、
ビョークにしかない。
なんかこう、ぞっとする。
かなり安定的にぞっとする。
このビョークの存在感はやっぱり半端ない。

ビョーク



マイア・ヒラサワ



レジーナ・スペクター

いじめは本能

「グーグーだって猫である」の中で、
拾った病気の子猫を、もともと飼っている猫達に対面させるときに、
「動物には弱いものをいじめる本能がある」
と作者である大島さんが気にかけるシーンがるのだけど、
なるほど、いじめは動物の本能なのだな、と思った。

学校の中でいじめられるというのは、
集団の中で「劣っている」と判断されるとそうなる。
人は劣っていると感じるものを排除したいのだ。
ナチスドイツもそうだ。
ユダヤ人を排除して理想の世界を創りあげようとした。

そういうことは実は個人個人が、
普段何気なくやっていることだと思う。
優劣の判断基準は人それぞれだけど、
「劣っている」ものにはなるべく接したくないと感じるものだ。
集団から排斥したり、見ないようにする。
それは生き物の本能だ。
どこかに属する為には資格が居る。
誰かと友達になるにも、その誰かに認められなくてはいけない。
人はいつだって誰かに判断されているし、判断している。
切ったり、受け入れたりして、
自分を知るし、他者を知る。
残酷だけどそれがこの世界の仕組み。
一体なんのため?

「ほんとうの愛をみつけるため」

だといいけど。

2011年5月18日水曜日

普通とか変とか

岩手に農業研修に行ってると思ってた友人が、
実は災害ボランティアに参加していると知った。
その事をお父さんに言ったら、
「お金ももらえないのに仕事をするなんてありえない」
というようなことを言っていて、
あー、うちの親父だわ、と思った。
ちなみにお父さんは桜を愛でる気持ちが解らないと、
桜を観るたびに言っている。
そして今日はそんなお父さんから、
母親の前にお見合いをした女性の話しと、
若い頃はバイクに乗っていた話しを初めて聞いた。
今までそんな話し聞いたことがなかったので驚いた。
私が知らないことはたくさんあるんだなぁ、と思った。

八丈島に行って友人達と飲みながら話しをしていた夜、
一人の友達が「自分は普通の人間だ」という話しをしていた。
確かに普通である。
内輪では劇的におもしろいことを言うので、
そこらの芸人よりおもしろいんじゃないかと思うほどなのだけど、
けして芸人にはならないタイプだ。
そんな素人はたくさん居るのだろうけど、
そんな素人が居なくなったら世の中相当つまらないだろう。
普通の考え方で、普通の生き方をして、普通に死ぬのだ。
しかし、普通も神懸かり的に普通なので、
もはや普通と言っていいのかわからなくなる。

私は普通になりたいと思っていた時期があるのだけど、
今またそういう時期に差し掛かっている。
「凡人として生きるということ」を読んだ影響もあり、
私は自分の中の普通を貫き通したいと思っている。
私は今まで、「私は変だ」と思っていたのだけど、
「私が変」なのではなくて、変な人を見つける才能がある、
だけなのではないかと思った。
そもそも「変な人」とは何か。
というか、「普通」とは何なのか。
その辺の定義が自分の中で定まっていないので、
このような話しは無意味なのかもしれないけれど、
やはりここはとにかく、
「人生に美学がある」ということが言えるかもしれない。
私の美学とはなんなのか。
人生に一貫して表現されている世界。
その人が言いたいこと。
それは人生に現れている。

最近見つけたかわいいもの

最近見つけたかわいいものを紹介します。

①琴欧州のブログ
http://kotooshu.aspota.jp/
☆マークを多用してきたりしてすごくいい。
ネタは食べ物が多い。(肉かラーメン)
プロフィール欄も要チェック。
身長202cmあるけど、やっぱりかわいい。
今一番欲しいものがどこでもドアて!
なごむわ〜。

②宮内優里
女の人かと思ったら違った。
原田知世さんや高橋幸宏さんと交流があるらしい。
ひさびさに「おしゃれかわいい」空気が入ってきた。
いっぱい吸っとこ。


2011年5月17日火曜日

グーグー

半分あまっていた「こくまろ」を使ってカレーを作った。
やっぱりトマト一個入れるとおいしくなる。
カレーはうまいなぁ。

大島弓子さんの「グーグーだって猫である」を読む。
大島さんの猫に対する愛情がこちらにじわりとうつってくるようだ。
最近の家の猫は、ゲージから出して私の部屋の中を自由に歩かせている。
居間には病人が暮らしているのでいけないけれど、
廊下や玄関は時々歩き回らせている。

小学生の頃「みかん絵日記」という漫画があって、
みかんという猫が人間の言葉を喋るんだけど、
その漫画がすごく好きだった。
特にみかんが子猫の頃の話しなど感動しすぎて、
何度読んでも号泣していた。
あの空気感。
私は大好きだ。
それは大島弓子さんの漫画にも通ずるものかもしれないけど。
ぷくぷくと沢山の水の泡が空気中に漂っているような、
透明であたたかくてあわい世界。
泣いているような笑っているようなそんな気持ち。

ああ、私あの頃そういう世界観てたなーと思う。
脳がどんどん発達して、この世には色々な世界があって、
全部現実なんだと知るのだけど、
私の根本にはああいう世界がある。
死ぬ時はあの世界にくるまって死にたい。
そしてあの世界を創っていきたい。
必死に、子供がお母さんを求めるみたいに、
私は全力で、逃げる。

私の本質を知る。
君の本質を知る。
それをしないと何を得て、どう振る舞えばいいのかわからなくなる。

2011年5月16日月曜日

すりすりとごろごろとなでなで

図書館に行く。
2週間ぐらい前から借りたいと思っている本を借りに行ったのだけど、
またしても借りられていた。ちっ。

長嶋有さんの「いろんな気持ちが本当の気持ち」と、
押井守さんの「凡人として生きるということ」を借りる。
長嶋有さんは小説を読もうかとおもったのだけど、
ぱらりとめくって冒頭をちらりと読んだところ、
あんまり読みたくない気分になったので、
エッセイならいけるだろうということで、
エッセイコーナーに向かい見つけ出したもの。
押井守さんの「凡人として生きるということ」は、
以前読んだ事があるのだけど、久々に読み返したくなったので借りた。
あと帰りに古本屋さんに寄って、
大島弓子さんの「グーグーだって猫である」を買う。

押井守さんの「凡人として生きるといういこと」を読んだのだけど、
改めてこの本は名著だと思った。
手元に持っておきたいのでアマゾンで買おうと思う。

本能を大事にしたいとおもう。
これからはもう、ほとんど本能だけでいいんじゃないかと思う。
選び取る事の大切さを思い知らされる。
少なくとも私の身の回りにある最低限のもの、
それは家族であり、猫であり、友達。
偶然なのか必然なのか出会ったもの。
私が愛している言葉、音楽など、すり寄っていきたいもの。
そして、それにすり寄ってくるもの。
そういうものを本能で選び取り大事にしていくという、
人生の基本構造のことを考える。
人は猫と似てる。
共鳴するものにすりすりする。
仲良くしよーよ、とごろごろする。
で、なでなでされるのを待っている。
私が最近やっている事は、
すりすりしてきたやつに、するっと身をひるがえしてみたり、
ぺしっとパンチをしたりしていた。
それはすりすりしてきた人に何か傷つけられたり、
調子をめちゃくちゃにされたりした、苦い思い出があるからだ。
でも、すりすりは、すりすりした事実としてそこにある。
今はもう興味がなくなって、プイっとなったとしても、
すりすりした事実は残っている。
私の本棚やCDラックには私が過去にすりすりした形跡が残っている。

押井さんの本の中に「他者を選び取り、受け入れる事が人生」
という項目がある。
すりすりされる度に他人を受け入れていたらきりがないけれど、
いつか選び取ることをしなくてはいけない。
そもそもすりすりされることなんてあんまりない。
人生の仕組みについて考える。
やるべきことと、やらざるを得ないこと。

私がまっさらにしたかったのは、ゼロに戻したかったのは、
きっと本能を取り戻したかったのだと思う。
ひとりの人間として。一匹の動物として。
傷ついた猫を介抱していくうちに開いていく世界が、
目の前に広がっていく世界が確実にあった。
溢れる豊穣な世界。
人間の本能は豊さそのものだった。
気付かせてくれてありがとう猫。
君は神様からの贈り物だよ。

電流と虫

NHKスペシャル「虐待カウンセリング」を観る。
作家の柳美里さんのカウンセリングの模様を収録したもの。
私の人生では「秘宝館」に続き「虐待」も度々引っ掛かるワードうちのひとつだ。

そこにある親からの連鎖的なものに引っ掛かるのだと思う。
どうしても無意識のうちにやってしまい苦しめるもの。
忌々しい呪縛。拭っても拭っても拭え切れないもの。
足かせ、息苦しさ、泥沼。
それは「虐待」に限らず、どの家庭にも必ずあるものだと思う。

私が発する言葉のすべてに、
私の家庭で吸収してきた思想であり、
空気感が少なからず帯びているのだと思う。
いくら拭おうとしてもできない。
一種の電流のようにビリビリと静かに流れている。

私はもしかしらたら「虐待」をしてしまうかもしれない、
という恐れを抱いている。
まず誰かと関係を築いていくという作業が苦手だ。
会社に留まって他人と馴れ合っていくのも、
恋人といつも一緒にいて思い出が増えていくのも抵抗がある。
突然現状ひっくり返して全部なかったことにしたくなる。
日々に疲弊して関係を壊しにかかる。

男は虫だとおもう。
よく親が娘に「悪い虫がつかないか心配だ」と言うが、
男はほんとに虫なのだ。
悪い虫がつくと、食い散らかされてぼろぼろになって捨てられて終わる。
虫が近寄ってきてもあまり相手にしないことが大事だ。
こちらはいい夢ばかり見ているから、
近寄ってくるのは当たり前である。
そこで近寄ってきた虫に適当にかまってしまうと、
虫は土足でどんどんこちら側につけ込んできて、
変な病気まで持ってきて駄目にする。
虫のそこの見極めが肝心だ。
女はいい匂いを発して居続けることだけが生き甲斐なので、
虫が寄ってきたとしても、知らん顔をするスキルが重要だ。
おもしろいと思うことだけを考え続けていこう。

2011年5月15日日曜日

すばらしきMUDAの世界


どうしようもなく駄目のまま、
私はこのまま生きるんだろうと思う。
というのも、出来ないものは出来ない。
「これをしなさい」とか
「これをしたらいい」と言われても、
結局できない。
する必要のないことはしたくない。
今まで随分無駄な事をしてきたな、
と思っているのだけど、
きっとこれからもいくつもの無駄をするんだろう。
まず幼稚園に行ったのが無駄。
学校に行ったのも無駄。
私立の高校に行ったのも無駄。
東京の大学に行ったのも無駄。
友達に出会ったのも無駄。
たくさんの映画や本を読んだのも無駄。
音楽を聴くのも無駄。
誰かを好きになったりなられたりしたのも無駄。
結婚も無駄だし、子どもも無駄。
命が無駄。地球が無駄。
お金という概念が無駄。経済が無駄。文化が無駄。
そもそも私がこの世に産まれてきたのが一番の無駄である。
死ぬ間際には「全部無駄だったな〜」と思うことだろう。
むだむだむだむだむだむだむだむだむだむだむだむだむだむだ。
の、この世界で、
「おお」と思ったり、
「これは」と夢中になる時間のありがたさよ。
誤摩化してくれてありがとうと思う。
無駄の泥沼からはい出せる瞬間が一番の幸せである。
何もかもに「つまんね」となった時の最終的な拠り所が子供だろう。
しかし子供にはお金がかかる。
お金を稼ぐ為にはさらにたくさんの無駄をこなさなくてはいけない。
そんなエネルギーが私のどこにあるというんだ。
ない。まったくない。
働かなくては餓死をする、というどん詰まりになって初めて、
私は働くだろう。
この世に野望も目的もない。
誰かの期待に答えたいわけでもないし、
誰かを執着しているわけでもない。
執着を求められるから執着をしているフリをしているだけだ。
私がやりたいことは、
いかにこの世が無駄であるか、無駄で構成されているか、
を暴くことだ。
無駄に一喜一憂して、人が生きている。
愛もないし、慈しみもない。
美しくもないかわりに、汚くもない。
ただ私の周りにいる人たちを観察して、
彼らの観る世界を通して、人というものを調べ考える。
それも大きな無駄の中の一部分で、
無駄を必死に誤摩化そうとする作業である。
命がけで無駄と闘う。
無駄はいつも私の周りを取り囲んでいて、
吞み込もうとしている。

2011年5月14日土曜日

モンスター召還

こないだドミューンで観たレイハラカミさんのライブが、
めちゃくちゃよくて、ずーんときたので、
ツタヤに行って全部借りてみた。
以前パソコンの中に入っていた曲が全部消えたので
ひとつも持ってなかったのだ。
なのでここのところレイハラカミずくめ。
傷を負った猫も心なしか気持ちよさそう。

友達が岩手へ農業研修をしに行ってる。
ちなみに来月は私のお父さんの所に2、3日漁業体験をしにくる。
今日、岩手の遠野に到着して、花巻に向ったそう。
柳田國男と宮沢賢治だ。
岩手はなかなか優秀な人材を輩出している。

それぞれの世界を眺めている。
そして「人生たのしいなーおもしろい人がいるもんだなー」
とおもう。

私が見ている世界は私が見たい世界。
私はいつだって誰かを呼んでいて、誰かが現れる。
人間は磁石のようなものである。

ヒップホップの詩人たち

正直なところ、私は産まれも育ちも秘宝館と共にあったと思っている。
とはいえ、実は一度も足を踏み入れた事はない。
なんだか得体の知れない施設が、
お母さんと毎日行くジャスコの隣にいつもあったというだけだ。
つまりあの得体の知れない不気味な気配を常に吸収しながら育ったと言える。
時は経ち、秘宝館は2年前ぐらいになくなってしまった。
結局一度も行った事がないまま、秘宝館の伝説だけを耳にして、
そして未だに捕われている。
きっと生涯にわたって、秘宝館は度々私の思考に顔をのぞかせるだろう。
この秘宝館パワーとは一体なんなんだろうか。

現代日本においてそういった疑問に真っ向から立ち向かっている方が、
都築響一氏だろう。
村上春樹氏と繋がりがあるようだけど、
多いにそういった精神性の繋がり感じるものがある。
日本の文化の根源、捨てられていく世界、
しかし確実にじわりとあちらこちらで息づいている世界。
そういったものを研ぎすまされた感覚と愛の力でキャッチし、
表現として見事に昇華されている。
そんな都築氏が最近着目されているのが、
「夜露死苦現代詩2.0 ヒップホップの詩人たち」
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/4649/
ここにある言葉がすごくいい。

いちばん意欲的な現代美術の展覧会は、
東京ではなく地方の美術館で開かれている。
いちばん新しいファッションは、田舎の不良が生み出している。
いちばん刺激的な音楽もまた、東京ではなく地方からやってくる。


とある。
THE BLUE HERBを取り上げているんだけど、
彼らのライブは2回ほどみている。
1回目は下北沢のライブハウスで大学生の時に。
大麻の煙でもうもうと立ちこめ、近くにいる人々は完全にキマっていて、
当時は私はそんな状況もイマイチ理解できていない、
ひよこのような子供だったけれど、
ラップに乗せられて紡ぎだされる言葉には切実に訴えかけてくるものがあった。
「未来は俺らの手の中」
この曲の凄さを当時付き合っていた彼氏に熱く語られたりした記憶がある。
2回目は3年前に行ったタイコクラブ。
本当によかった。どうよかったのかいまいち覚えていないのだけど、
友達が酔いつぶれて気がついたら地面で寝てたぐらいだから
よっぽど良かったのだろう。
そしてまた都築氏を通じてTHE BULE HERBと出会った。

ラップと言ったら、スチャダラパーかいとうせいこうか、ぐらいで、
それもそんなにがっつり聞き込むというほどでもない。
「ああ、おもしろい人たちがいるなー」ぐらいだ。
それから映画の「サイタマノラッパー」がすごくいい映画だった。

結局「うまいこと言ってんな〜」というものが好きなのだろう。
それは落語が好きなことと同じだ。
そもそも「韻を踏む」とか結構好きである。

路上。

私も永遠に路上に生きるし、路上を見つめ続けるんだろう。
そういうところがシンクロして、
時々THE BLUE HERBは私の人生に現れる。
忘れんなよ、って言ってるみたいに。

次元が違う


暇なので猫を観察している。
ゲージから出して廊下や階段や玄関付近を歩き回らせる。
傷口を舐めないようにはめているアレがすごく邪魔そうだ。
かつかつと音をたてて色んなところにぶつかりながら歩いている。
私が玄関のところに腰掛けると、その周囲をぐるぐるまわりながら、
時々「にゃーにゃー」と悲しげな声を出す。
柱や私の体にすりすりしたがるのだけどやっぱりアレが邪魔をして
うまくすりすりできない。
それに苛立ち、でもどうしようも出来ない自分の不甲斐なさに、
少し腹を立てているようだ。
興奮気味にウロウロ徘徊した後、突然動きが止まり、
暗闇の中の一点を凝視している。
私も思わず振り返ってみてみる。
なにもない。
あまりにも真剣で鬼気迫る表情で暗闇を見つめているので、
こちらがどきどきする。
そして私は猫が暗闇にある何かを見つめる姿にとても惹かれている事に気がつく。
私もこうでありたいと思う。
暗闇を凝視する。一点だけを見続ける。
その姿勢に同じ生き物としての誇り高さや気高さを感じる。
危機を事前に察知して、とっさの判断で動くこと。
全ては自分の判断にかかっている。

側にいる人が、ものすごく不安で不安定になっているとき、
それに吞み込まれることなく、優しい眼差しで眺めること。
精一杯の安定感を自分の中に保持すること。
そのことが大事なのだとおもう。
側にいる人が、不安であればあるほど私の中は安心になろうとする。
そして私の中の安心に気がつく。
こんな安心があったことに驚く。
命の奥深さに触れる。
私は少しずつそういうことを学んでいって、
実践させてゆきたいと思う。
私の小さな世界で確実にひとつひとつをこなしていくこと。
その中にしか人としての成長や力強さは得る事が出来ない。
地味で静かで目には見えない作業だけど、
そんな風にして世界は確実に変化してゆく。
改めて今後とも普通で当たり前の話しをしていきたいと思う。

2011年5月13日金曜日

目がきれい


今夜はBGMがフィッシュマンズの「ナイトクルージング」の中お送りします。

上原美優というアイドルが自殺したということで、
私にとって「あーあの人ね」程度の人なのだけど、
やっぱり気持ちが、もやん、とする。
特有の人間の精神の有り様、脆さ、敏感さ、
死にひっぱられてゆく世界。
不安定で、不幸で、不吉な匂い。
「ほんとに死んじゃうんだ」という、ガランとした空気が漂う。
「死にたい」という願望から、
実際に死ぬまでにだいぶと飛躍すると思うんだけど、
彼女は軽々と飛び越えていった。さらりとあちら側にいった。
人生をドロップアウトした。
「生きるなんて無理無理。やーめた。」
あ、ほんとに行っちゃうんだ。
そんな人たちは意外とたくさん居るんだろう。
アイドルの自殺は中学生がいじめで自殺するのと似てる。
会社員がリストラにあって自殺するのも似てる。
会社が倒産して一家心中するのにも似てる。
自殺はとにかく世界の狭さからやってくる。
人生、考え方に幅を持たせないと逞しくなれない。
ほとほどに適当にやってないとやってられない。
たくさんの人の生き方を観て、たくさんの人の考え方を知ること。
こうじゃなきゃいけない事なんて何ひとつない。
でも、そうなると漫然と生き延びるだけなんだけど。
アイドルとして成功しなきゃいけないんだとしたら、
恋愛がうまくいかなきゃいけないんだとしたら、
そうじゃないと生きてる価値がないと思い込んだとしたら、
それは死んじゃうよなぁ。

私のようにゴキブリのような図太い神経を持ってしまうと、
一生独身だったとしてもそれほどなんとも思わない。
いや、ちょっとは色々と思いめぐらすだろうけど、
それはそれで楽しい生き方があるんだろうと思っている。
一瞬でもいいから、世界中の全ての人間が同時に幸せが来たらいいなぁ。
そんな日は120%この世にはやってこないんだろうけど。

この世は恒久的に天国と地獄が共存しているのであって、
常に実験的な世界を繰り広げている。
つまりダイナミックなうねりの中に居るのであり、飽きる事がない。
命はうねりだ。
世界はうねりだ。
一瞬の地獄に足を取られ、簡単にあちら側に引き込まれる。
それは津波のようなものだ。
精神的な津波に襲われたら人は流されないように耐えるしかない。
そして耐える力のない人や精神的に弱っている人は波に吞み込まれていく。
波は感じる人にしか感じないという特性がある。
波を強く感じてしまう体質というのが生まれながらにしてある。
一生波を感じない人だっている。
波を感じない工夫をしているのか、もともとそういう体質なのかはわからない。
とにかく、そういう違いが人間にはある。

2011年5月12日木曜日

相対的に変わる


世界はいつだって流動的だ。
一瞬だって同じ世界はない。
そんなことを思うと、
いちいち全部言葉にしてみたくなる。

色々な世界をみて、
「やっぱりこれだった」と思ったとしても、
もう遅いのかもしれない。
物事はすでに新しい世界に進んでいる。
でも、新しい世界に進んでしまうぐらいなら、
私が思う「これ」とは、いわゆる「ほんとう」ではないのかもしれない。
だとしたら、早いところ「違う」と理解したいのだけど、
いかんせん「違う」という確信も掴めない。
だから夢を見続ける。
願望を持ち続ける。
決定的な断絶を思い知らされない限り、
私はひとつの世界に捕われたままだ。
早いところ決定的な断絶を通達されたい気もするけれど、
やっぱりもうすこし夢をみていたい気もする。
こんな私でも、中身は徐々に固まってきていて、
形になってきている。

色々な「夢」や「願望」や「欲望」が、
湧いては消えていくけれど、
どれが私の「ほんとう」なのか。
そろそろ見極めていなければマズいだろうに。

2011年5月11日水曜日

不安が安心にかわるとき


ここのところ怪我をしている猫の世話に意識が集中している。
母親の病気に加えて新たな心配どころである。
結局私は家族の世話をするためにある命なんだろうとおもう。
もちろんそれが全てではないけど、
かなり大きな部分を占めている。
そして、そのようなことは生きている意味を漠然と感じて、
ひとつの世界を見続ける事が出来て精神が安定する。
嫌だと思っていた他人の世話は、
私をそこに留めておくことのできる唯一の方法だ。

猫も母も若くない。年寄りである。
きっとどちらも私が看取るだろう。
そんな風にして必ずやってくる自分の未来を凝視する。
人間の死に際というか、死に様のようなもの。
佐野洋子さんや、池田晶子さんは、
私の理想の歳の取り方であり死に方をされている。
言葉のひとつひとつ、観ている世界、感じている世界、
その全てが最上だとおもう。
産まれてくるのも一人、死んでゆくのも一人、
この事実をここのところ凝視している。
母親という生き物も勝手なものである。
ぽろっと股の間から一人の人間を産み落として、
かわいがり大切に育てるけれど、
結局のところ自分の楽しみの為に育てるのである。
そして大きくなったら自分の世話をしてもらう。
そんな風にして身の回りに置くのだ。
完全なる孤独にならないように。
そして死んでゆく。
しばらく母親に触っていないけれど、
死に際、手をさすってみたりするのだろう。
猫を触って、たくさん撫でているとよくわかる。
触れられると気持ちがよくて、安心する。
猫は触られたがっている。
たくさん愛されたがっている。
それは私が思っている以上だった。
不安な時の人の手は想像以上に安心する。
私はどれだけの人の不安を安心に変えることが出来るだろう。
不安だらけの世の中で、ただエネルギーを交換するだけで、
私たちは、ふっと心が軽くなって生き伸びることができる。
そんなことができたら、と思う。
そんなことができたら、素晴らしいなぁ。
安定した世界観を持つこと。強く。
ただそれだけで、それは可能なことのようにおもう。

ひねくれ者の私がいやに本当に素直にそんな風に思う事が時々ある。
そんなときうまくのれているのだと思う。
命のリズム、のようなものに。

2011年5月9日月曜日

精神的マゾ


自分で自分を窮地に追い込むのが好きなふしがあると思う。
追い込む、追い詰める、悪人に仕立て上げる。
こればっかりはやめられないし、とまらない。
ぐっと込み上げてくる衝動があり、
頭がぼーっとなって、真っ白になる。

ぐらぐらと世界が荒れ狂って、
私が私でなくなることがある。

世界はよくわからない衝動に支配されている。

時々そのことが恐ろしくなり、
しかしどうしようもできないことでもある。

その先になにがみえるんだろう。
怖くても、よくわからなくても、
このまま進むしかない。

2011年5月8日日曜日

きらわれもの


めらめらもえる。
もえるほのお。
いつまでもきえない。
それはいのち。
びゅうびゅうとふくかぜ。
どこからともなくふくかぜ。
それはいのち。
どこからやってくるの。
どこにいくの。
いみがあるの。
いみはないね。
たどりつかないね。
ここなのかもね。
ここしかないのかもね。

2011年5月7日土曜日

人生の立て直し


八丈島に行く前から様子がおかしかった家の猫が、
やっぱり様子が変、というか明らかに怪我をしていたので病院に連れていった。
膿がたまっていたので皮膚に穴をあけて取る大きな治療をしたので、
月曜日まで病院に入院することになった。
もしかしたらもう外で飼えないかもしれない。
私は今でも猫は外で飼うものだと思っている。
怪我をしようが、ノミだらけになろうが、
猫は外でのびのびと暮らすのがいい。
私は「猫かわいがり」というのが苦手だ。
べったりとした人間の欲望が丸出しで嫌だ。
猫をまるでおもちゃみたいに扱っていて嫌だ。
でも最近ではそういった愛情表現がスタンダードになっていて、
私みたいな人間は生きづらい。
猫はどこへでも自由に行けるからいいと思う。
本来動物とはそういう生き物だ。
自分の意志で自分の好きな所へ行く。
でもそうできなくしたのは人間達だ。
ペットショップに売られている犬猫をみるたびに心を痛めている自分がいる。
人間達の手によって世界がどんどんねじ曲げられていく。
欲望をかたちにするために世界はどんどん醜くなる。
そういった気付かないねじれがあちこちにあるんだと思う。
私たちは知らずにねじれていって、
そしてそのねじれが当たり前になってどんどん気持ちが悪くなる。
人間は気持ちが悪い生き物。近頃本当にそう思う。

テレビを見ていても、人間と話しをしていても、
パソコンの前で情報を得ても、まっすぐで正しいものはなにもない。
それか私がとことん間違っているのかもしれない。
間違っているのかもしれないけれど、私は「ノー」だと言う。
だったら私の「イエス」とはなんなのか。
それを見つけなくてはいけない。

人生のマンネリに陥った人間にもたれかかられることがある。
私の中に何かを見出して勝手に盛り上がる。
私が観たいのは、その人が観ているものではない。
私の世界に勝手に入り込んでくるなと思うし、邪魔しないで欲しい。
男の妄想にはうんざりだ。
既存の世界だし、なにもかも生き詰まっているし、引きずり下ろさないで欲しい。
ただ、つまらない。
私はこの世の全てから耳を塞ぎ、目を閉じる。
そうなれば世界はどこまでも自由だ。
どこまでもゆける。

自分は間違っていないし、否定しない。
そう信じる事でしか私は私の世界を守る事はできない。
それはズルくて、人として発展性のないように思えるけど、
実はその中でしか、新しい新鮮な世界は産まれないように思う。

すこーんと突き抜ける。
世界はそんな風にして産まれ変わる。どんなときも。

2011年5月6日金曜日

おじゃりやれ


八丈島に行ってきました!
一日目は雨だったけど二日目は快晴。
こまごまとした旅の思い出はあるけれど、
言葉にするのが億劫なので辞めておきます。

私がどこかに誰かと出掛けること、
誰かがどこかに私と出掛けること。
そんなことをずっと考えていたように思う。
意味なんてない。
いい景色やおいしいものを誰かと共有するということのありがたさを思う。
くだらないことを誰かが言ってそれを笑ったり、
何かについて語り合ったり、普段話さないようなことを話してみたり、
そういう極めて普通なこと、なんでもないこと、
社会的に目立った事をしないけれど、
堅実に働いている人たちの休日のこと。
そこにある極めて純粋なきらめきのようなもの。
そういうものを観ていたような気がする。
歳をとって、結婚して、こんな風に遊べなくなることを心配して、
そこにある馬鹿笑いを何よりも大事にしていて、
起伏の無い人生を歩いている。
人が人として生きるということはすごく地味で堅実なことで、
でもそういった世界は誰も言わないけれど、
すごく美しいことだと思ったりする。
際立った才能を持った人間が中心になって世界が動いているように思うけど、
そうではない。
際立った才能を持っているからといって心が美しいとは限らない。
荒れ狂う邪悪な世界を感知することなく、
この世で普通で居続けるということは人として強いし、
とても恵まれているし、そういう人々こそこの世に必要な人間だと思ったりする。
私はありとあらゆる種類の世界を感知してしまうけれど、
それはある意味とても弱い証拠なのだと思う。
人は色々な形で澄むことができる。
澄んでいる人間はそれだけで美しいし、頼もしい事だ。
私はそういう人たちに出会う事が出来て嬉しいと思う。
私のほんとうはそういう自然な人々と出会い学ぶ事だと思う。
「はっ」として、また新しい世界が見えた事が何よりも嬉しい。




2011年5月2日月曜日

くさや

八丈島に行く為に明日東京に向います。
夜フェリーに乗って朝到着するようです。
昨日「サケノサカナ」というユーストリームを観ていたら、
UNOを始めてきたのでいい予習になりました。
中学生や高校生のとき休憩時間にしょっちゅうやっていましたが、
忘れているルールがたくさんありました。
船の上でUNOをする元気があることを祈るばかりです。
ちなみに「サケノサカナ」は、
サカナクションの山口一郎さんと、
サケロックの星野源さんが月いちペースで始めた、
ユーストリーム番組です。
来月もやるらしいので楽しみです。

昨日は「どうでもいい」→「どうでもよくない」
という人生観の変化について少し語ったけれど、
これと同じパターンで「好き」→「嫌い」の変化もあるようにおもう。
ほわんとした恋心を抱いて近寄ってみてしばらくすると、
些細な事でばちーんと一気に嫌いに急降下する現象がよくある。
これってなんだろう、とおもう。
他人に近寄りすぎた自分が嫌になったりする。
しかし盲目になる魔法にかからない限り、何も始まらない。
人は何かを始めたいのかもしれない。
新しい物語を求めている。
画期的で革新的な世界を。
でもいつまでたっても始まらない。
地続きのまま現状が続き、ただ互いの微かな接点を見出していくだけである。
「君しかいない」という気持ちで結婚した人は、
いずれ「別に君じゃなくてもよかった」という気持ちに気がつく。
でも、目の前には君がいる。君しかいない。
得体の知れない、未知なる生き物がそこに佇む。
なぜ君が私の目の前にいるのだろう。
そこから世界は深遠なほんとうの世界の扉がひらくのだろう。

八丈島はくさやが有名らしいので、
人生初くさやを体験してきたいと思います。
ほとんどそれがメインです。

2011年5月1日日曜日

エゾクロテン




図書館で見つけた瞬間、一気に鼓動が高鳴り身悶えした。
体温も心拍数もあがりっぱなし。
北海道在住のエゾクロテン。
私の中で地球上で一番かわいい生き物に認定。
でもエゾクロテンは肉食で獰猛。ネズミを捕まえて食べたりする。
そのギャップがまたたまらない。
エゾクロテンを忠実に再現したぬいぐるみがほしい。
かわいすぎて、息が苦しくなったので、
20体ぐらいエゾクロテンを描いてなんとか発作を抑えました。
あー、エゾクロテン。愛しすぎる。

私の根本的な人生観のサイクルとして、
「どうでもいい」→「どうでもよくない」→「どうでもいい」
というリズムがあるように思う。
「どうでもよくない」を経験した精神のあとの、
「どうでもいい」精神というのは、
さらに深い「どうでもいい」世界が広がっている。
自分の半径3mのことに集中すること。
その中で宇宙の果てを感じるのだ。