2011年3月31日木曜日

公開ひとり問答

うちの母はよく、
「竹を割ったような性格だ」と親戚から言われたと言っているけど、
私も歳をとってきて随分そんな感じなってきた気がする。

「曖昧でいいじゃないか」
と思っていたと思ったんだけど、
最近全然そんなことない。
嫌いなものはとことん嫌いになって、
好きだった部分がなくなっていくし、
好きなものはとことん好きになって、
嫌な部分が消えていく。
そして時々大どんでん返しをくらう。
危険な感覚だなー、と思いつつも、
どんどんそんな風になっていく。

「過去を捨てるということが成長することだ」
みたいなことをどこかで聴いた事があるのだけど、
これって本当だろうか。

私は訳も無くつるむ感じが最近すごく嫌いだ。
昔はそんなことなかった。
ファミレスで友人と延々だらだら過ごすのが好きだったし、
「暇だわーまじ」みたいなことを、
無意味に言い合うのが大好きだった。
「駄目の典型」をやるのが私の生き甲斐だった。

ところが最近では、友達と会うことすら億劫である。
最近というか、もう随分前からだけど。
人間関係は人生に不快なものを持ち込む元凶である、
とさえ考えている。
家族の存在さえも面倒。
さっさと一人になりたいと考えたりする。

歴史上、今までどれほどの人がそんな風に自分の中に引きこもり、
心を病み、さみしい人生を送ったのだろうか、
なんてことを考えながらも、
いや、やっぱり一人きりの幸せもあったのかもしれないと思う。

結局、一人を愛している人間のほとんどが
実際に孤高に生きていく事は不可能なのある。
「孤高」にありたいと望み、「孤高」であるように見せかけて、
結局は家族がいたり、友達がいたり、
中途半端な人の温かさを欲し、曖昧なぬるま湯の中で生きている。
それで「ああ、ひとりだ、寂しいよう」
なんてニュアンスのことを日記にしたり、歌にしたりしている人間ほど、
みっともないやつはない。

ああ、書いてる側から腹が立ってきた。
そう、私がいつも腹をたてているのは、
そういう中途半端なやつが世の中ごまんといて、
何かに憧れて、何かの真似をして、何かのフリをしてはいるのだけど、
骨の髄までそれにはなりきていないというその中途半端さ加減に腹が立つのだ。
中途半端なやつといると、中途半端がうつる。


そんな感じで、最近の私はいつも何かに腹を立てている。
そんな私はどんどん孤立していくんだろう。
腫れ物でも触るように、扱われるんだろう。
いや、しかし、そんな事を言っていても、
結局他人が親しげに話しかけてきたら、私だって和やかに返してしまうし、
私の方こそ、嘘の仮面を被ったニセモノ野郎なのである。
その苦悩たるやない。
私が持って産まれた親密性ははたして仮面なのか?
それとも真実なのか?
その時々に応じて変化する。
結局人間という生き物は矛盾に満ちた人間で、
だったら他人の矛盾に目ざとく気がついて腹を立てる筋合いはないし、
私だって矛盾だらけで中途半端な人間であることに、
いち早く気がつかなければならないということだ。
そうすれば、他人も自分も寛容な態度で接することができるし、
自然と愛は産まれてくるはずなのである。

■まとめ。
結局私がここのところかかっていた病の原因は、
他人の矛盾が許せないことで、
「許せない」感情によって、どんどん自分の世界が砂漠化していくことだった。
一体何に対して不満を持ち、傷つき、
一切を遮断したくなっているのか検討がつかなかったけれど、
言葉に表していく事で見る事が出来た。
それにしても「他人の矛盾が許せない」って、
10代みたいなことを今だにしてるんだなーと、
私の精神成熟度の遅さが伺えるし、
むしろどんどん退化していってないかと不安になってきた。
いつまでたっても心が狭くて嫌になる。

2011年3月30日水曜日

天才柳沢教授の生活


こないだ星野源さんと山口一郎さんのユーストリームで、
星野源さんがオススメと言っていた漫画がツタヤでレンタルできたので、
借りてみた。

山下和美さんの「天才柳沢教授の生活」は、
大学生活を送っていた身としては、
かなりリアルに響いてくるものがある。
と同時に、所属していたゼミの教授を思い出して、
元気かなーと懐かしく思った。

昨日はサッカーでカズがゴールしたらしいけど、
(リアルタイムでみてない)
その話でも大学時代の友人を思い出した。
その人は当時からカズを尊敬していて、
カズがいかにすごいかよく語っていた。
野球の松坂大輔と同じ高校で、しかも同級生で、
サッカー部に所属していたという、
なかなかおもしろい経歴を持つ人だったけど、
元気にしてるかなーと久しぶりに思い出した。
昨日のカズのゴールにさぞかし喜んでいることだろう。

2月にひとりで観に行った立川談春の落語が良すぎて、
帰りに道を歩いていると前の方を、
歳をとった夫婦が寄り添ってとぼとぼと歩いているのを見て、
「ああ、すごくいいなぁ」と思った。
私もいつかあんな風に歳をとって、
旦那と落語を観に行ったりしたいなぁ、と、
ものすごく平凡な夢を素直に持った。
で、旦那に言うのだ。
「いつかこんな風に落語を観に行くのが夢だったんですよ」
って。
この夢はずっと心の隅っこに持ち続けていようとおもう。

車輪の下


ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」読了。
確か小学か中学の教科書に一部が載っていたのだけど、
「こんな話しだったけ?」
と思いながら読んでいた。
これは不朽の名作になるのもうなずける。
今も昔も変わらない普遍が美しい言葉できちんと書かれている。

3月24日、秋葉原無差別殺傷事件の犯人が死刑判決を受けた。
私は「車輪の下」を読んでいてそのことを思い出していた。

結局、犯人の母親の育て方が異常だったことが解っている。
一人の人間を育てるにあたって、母親の責任がものすごく大きい。
父親もそれなりに影響はあるけれど、
どんなにアホな父親でも、母親さえしっかりしてたら、
子はそれなりにまともな人間が育つのだとおもう。

つまり「女がんばれ!」ということだ。
深い人間性が必要なのは女だ。
世の中を的確に見据える眼差しや、
人間の本質を捉える技術が必要なのは女である。
学校が車輪の役割をしていて、
どんどん人間を開拓してく機能があるのだから、
また別の部分からアプローチして、開拓しなくてはいけない。
それが母親の役割なのだろう。

秋葉原の犯人は、母親が訳のわからない車輪となって、
犯人の人格を破壊し続けていたのだと思う。
それを見て見ぬ振りした父親も壊れていたのだと思うし、
そんな母親を産み出した家庭もどこかおかしかったのだろう。
そんな風に、負は負を呼び、連鎖を続ける。
最終的に「無差別殺人犯」を産み出す。
その危険性は日本中、至る所にある。
中途半端な人間が、中途半端な結婚をし、中途半端な子どもをつくる。
そして、家庭がめちゃくちゃになって離婚。
そのパターンが多すぎる気がする。
精一杯幸せに手を伸ばしていたはずなのに、
どうしてもうまくいかない。
そこにあるのは自己分析不足だし、
無知や、傲慢さ、そしてただただ垂れ流され続ける欲望だ。

もはや死ぬまで同じ人と結婚生活を続ける人々は、
人間としてかなり優秀のような気がする。
もちろん、その中には嘘や、裏切りや、軽蔑や、嫌悪もあるだろうが、
そういったものにフタをしてでも、
平然と家庭を営みを続けている人間はすごい。
結局そこにあるものは、女の我慢しかないのだろうけど。
気付かないのか、気付かないフリをしているのか、
家庭を顧みない男が何もかもを駄目にしているということか。

私の感覚からいくと、夫の浮気もDVだとおもう。
嫁の精神が不安定になる→フラストレーションたまる
→そのはけ口として子どもに暴力
女は自力で自分の機嫌をよくする装置を自分なりに開発していかないとまずい。
物事を冷静にながめたり、全体の事を考えたり、
そういう判断がいつだって必要なのだ。

あー、生きるって大変だなぁ。

2011年3月29日火曜日

人生なりゆき


ブログ名また変えました。
春なので。春になるとソワソワするので。
ほんとは背景とかも変えたりしたいのだけど、
いい素材が見つかってないのでやめておきます。
ちなみに今回の「人生なりゆき。」、立川談志の名言です。
もちろん上の「立川流鎖国論」を読んで影響されたからです。
。を付けたのはそっちのほうが収まりがよい気がしたので。
モーニング娘。みたいなもんです。
ちなみに七尾旅人氏のブログ名は「人生おかわり」です。
おかわりできるなんてすげーなー。

立川志らくの「立川流鎖国論」めちゃくちゃよかった。
やっぱり、これから日本は国も、個人も鎖国した方がいい気がしてきた。
いや、むしろ鎖国している人はすでにしている。
「自分の国の文明・文化こそ最高であり、
外の国の力なぞ不要と信じ込んでいるからこその鎖国であろう。」
この思い込みや、驕りも甚だしい感覚を信じているからこそ、
神懸かった何かが産まれてくる。

縄文土器が創られた時代。
他国との交流などはなく、文化という概念さえなかったはずだ。
その時代に産み出された創造物からは、
シンプルで力強い人間の魂のエネルギーが立ち上っている。
混じりけのない世界。
ひたすら心のうちに向き合っているだけで、
あれだけのものが出来るということだ。
人間が本来持っている魂の豊穣さを物語っている。

つまり、今日は鎖国宣言します。
プチ鎖国。プチ家出の逆みたいなものです。
なりゆきで鎖国。

鎖国したいというか、鎖国せざるを得ない心境というか。
そもそも鎖国気味なところはあったけれど、
いよいよ本格的に鎖国する時期がきたというかんじ。
私は幼い頃から「馴染まなきゃ!」という強迫観念があった。
つまり常に「浮いている」感があり、それが恐怖だった。
いつも怯えていた。
だから他人を読む。自分を殺して場に溶け込む。
ほとんど忍術みたいなものだ。
その術を習得した結果、対人関係はそれなりにこなせるようになったし、
社会にもそれなりに溶け込めるようになった。(と思う。)
でも、正直なところ、それがものすごく息苦しく感じる瞬間がある。
私は出会う人間に失望し、傷ついている。
それは、私だけではない。
全ての人間が歳を重ねるごとにどんどん傷を負っているのだろう。
それにしても、この他者に対する「がっかり」な感じはなんだろう。
というか、私が他人にそこまで期待していることはなんだろう。
一体どんな世界がみたいんだろう。
私が住んでる世界ってどんな世界だろう。
そんなことを思うようになってきた。

色々なことを受け入れてきたつもりである。
家族の事、出会ってきた人々の事、仕事の事。
そして私はヘラヘラと随分調子良く生きてきた。
他人を傷つけまいとし、精一杯とりつくろってきた。
もちろんきちんと傷つけてしまった人もいる。
しかし、なにやらもう限界なのである。
そろそろ、この傷の正体を突き止めなくてはいけない。
自分に正直に生きるということは、
誰かを傷つけることだ。
その代わりに何かに手を伸ばそうとする行為の事だ。
一体何に手を伸ばそうとしているのかは皆目検討が付かないけれど、
私は、私の国が最高だと思い込みたいのだと思う。
そう思い込む事で見える景色をみたいのだ。
技術を得たいとおもう。
どこまで出来るかはわからない。
ただ、何かを得る事で何かを失う。
そのことは覚悟のうえだ。

私は今までの人生の大半を就職とか、結婚とか、
そういった普通の人生を望んでいた。
でも、就職ができない。そして、結婚もできない。
だったら何があるというんだろうか、
と途方に暮れていたのだけど、ぼんやりと見えてきたものはある。
随分と心の在り方が変化してきたし、
そしてそれはとても素晴らしい気分だし、
これからますます良くなるだろうという妙な確信がある。

全ての人に「物語」がある。
そして、人々は自然とその物語の上を歩いている。
つまり、音楽を奏でている。通低音。
私が発したい音の周波数は高い。それを感じれる人は少ない。
だからこちらが他者が発している周波数にチューニングする。
他者は自分と同じだと思い安心する。
同じだと感じる事が一番の安心なのだ。
でも、私はもうなるべくその周波数の合わせることをしたくないのだと思う。
面倒だし、つまらない。
目の前にいる他者よりも、
どこかに居る誰かに向けてチューニングを合わせたい。
そのことに集中したいのだと思う。

自分の周りに、自分と同じ周波数の人々が居る人たちがうらやましい。
私もいずれそんな風にしたい。
多くじゃなくていい。
田舎にいてそんなことできるかどうか解らないけど、
そんな風に生きていきたい。
他人の主義主張に埋もれていきそう中で、
精一杯顔を出すようにしたい。
なぜなら、私の国の文明、文化こそ最高であり、外の国の力なぞ不要だから。

2011年3月28日月曜日

やっぱりサカナ


いやー、今日のドミューンのフィッシュマンズ+、
ほんとすごかった。キャンドルジュンといとうせいこうを始め、
フィッシュマンズの歌い手に原田郁子と七尾旅人をもってくるなんて、
反則技でしょう。
しかもバイオリンに勝井裕二、エンジニアZAKなんて!
完璧すぎてもはや他に誰か入る隙がない。
まだまだ観たい、神懸かり的な組み合わせはいくらでもあるんだろうな。
やっぱりあたしまだ死ねない!

これはフィッシュマンズひとりオールナイトやりますかー。






酒もってこーい!

リアル

2011年3月27日日曜日

asa-chang and junray

つんくによるモーニング娘。、秋元康によるAKB48など、
アイドル業界の遍歴についてふと考えた。
やっぱり大人の事情が大きいんだろうなー、
なんてことをモヤモヤおもい。
あとJ-pop界におけるYMOの圧倒的存在感とか。
彼らに気に入られたアーティストはいつの間にか取り込まれていって、
ファミリーみたいになっている。
そして大抵、坂本派か、細野派に分別される。

坂本龍一もお気に入りであることを公言している、
ASA-CHANG&巡礼。
久々に改めて聴いてみたところ、やっぱり音楽玄人好みの曲である。
ある程度いろいろな音楽を聴き込んできた人、
またジャンルを問わず音楽を聴き込みたいという、
明確な意思を持った人間が聴く音楽だ。
これぐらい音楽素人を寄せつけようとしない音楽も珍しい。
いや、もしかしたらこの音楽はむしろ、どんなジャンルにもカブれていない、
音楽素人にこそ響くのかもしれない。
そこには確実に、他には無い世界観と圧倒的な美しさがある。
思い切って踏み込んで、創り込まないと見えない世界。
この美しさと共鳴できるかどうかは、
それぞれ人間の心の在り様を試されていると言ってもいい。
音楽の聴き方のひとつの指針であり、
また人生に対する姿勢だ。

ふと「日本人とはなんぞや。」
というようなことをおもう。
やはり苔のような、湯気のような、アメーバのような、
暗闇からずるりと這い出してくるような、
そんな世界からやってきた人々の集まりなのかもしれないとおもう。

↓2009年6月のASA-CHANGのインタビュー。
初めて読んだのだけどおもしろかった。
誰かに見捨てられた魂、想い。
そういったものを丁寧に拾い集め、
改めて構築して、世に提示しているような気がした。
世界はそんな風にして均衡を保っている。

音楽を創る側の意思、狙い、追い求めるもの。
それは音楽家によってほんとうにばらばらだ。
しかしASA-CHANG&巡礼の音楽を聴いていると、
やはり他者なんてものはどうでもよく、
ただただ一人の人間の中に込み上げてくる純粋な世界があり、
それを正直に提示していくことの中にしか、
新しい世界は切り開いていけないのかもしれないと思う。
それは細野晴臣さんの「トロピカル三部作」を聴いていても思う事だ。

日々、人間の深いところを観察し、
世界の暗闇にメスを入れる作業をし続けている人間にしか、
ぐさりと染み入る音楽、そして言葉を創りだす事はできない。
みたいものだけみる、という偏った姿勢だといけないのだ。
世の中に対する公平な視線が、世界を安定させる。

というわけで、
このASA-CHANG&巡礼のASA-CHANGが、
今週末マクサに塚本功トリオのドラマーとしてやってきます!
この機会をお見逃しなく!

4月1日(金)松阪マクサ
open 18:30/start 19:30  adv/2,500yen door/3,000yen
reserve&info/ M'AXA 0598-56-4825 maxa@maxa.jp

人間はもう終わりだ

今まで真心ブラザーズと言えば、
「拝啓ジョン・レノン」だったのだけど、
今日から「人間はもう終わりだ」になりそう。
大根仁監督がツイッターでたまにあげてくる動画にはずれなしである。
震災直後にラジオでビートルズかけたりしてたし、
その瞬間に呼応してなにかをチョイスする才能があるのだろう。

真心ブラザーズってしょっちゅう聴きたいわけじゃないんだけど、
ふとした時に、偶然聴くと、
尋常じゃなく伝わってくる何かがある。
理屈じゃなく、身悶えするほどかっこいいのだ。
この感じは実はなかなか味わえない。
かれこれ6年前ぐらいに行った朝霧ジャムのトリが真心ブラザーズで、
そこで聴いた「拝啓ジョン・レノン」が衝撃で、
帰ってきたらずっと「拝啓ジョン・レノン」聴きまくってた。
そういう妙な麻薬性がある人たちだ。

「平和なんかひとりの馬鹿がぶっ壊す」

まさしくそれである。
コツコツと自分の世界を積み重ねたとしても、
核兵器のボタンを誰かがポチッと押せば、
一瞬にして地獄になる。
なんでだかこの世はそういう仕組みになっていて、
時々大どんでん返しをくらう。
でもそういう不安定な世界を知っているからこそ、
見える真理というか、
美しい世界があるんだと思う。

「追いつめられろよ人間」

ということだろうか。
走って走って、とっとと自分の底に行ってみろよ、
と、誰かに急き立てられているようだ。

サカナブーム

私はやたらと魚に反応してしまうことに気がつく。
これは父が漁師だからだろう。
「サカナ」という言葉そのものに敏感に反応してしまうし、
「魚が好き」と言われただけで親しみを持ってしまう。
「フィッシュマンズ」にはじまり、
魚好きを公言している「サカナクション」の山口一郎さん、
ちなみに「アナログフィッシュ」は聴いたことない。
そんな風にもやもやしていると、
決定的なバンドが世にいることを発見した。
その名も「漁港」である。
(↓インタビュー記事)
http://ototoy.jp/feature/index.php/20110326
音楽性についてはノーコメントだけど、
魚というか、もはや水産業界に全般に対する
熱いコメントを読むだけでも感動した。
漁獲量と音楽業界の売り上げ減少に対する意見を求めるインタビュアーにも脱帽。
私も漁業を営む父の娘として、
たまに水産業の行く末を本気で考えることがあるのだけど、
いい知恵を絞る必要性があることは確かである。
というか、これはどうも「サカナ」がキてるのではないだろうか。
山口一郎さんの「音楽も釣りと同じ」という言葉を思い出す。
魚をたくさん捕まえたいのなら、魅力的なエサが必要なのである。
その為には魚の生態を知らなくてはいけない。
一体どんなエサを求めているのか。
どんなタイミングでなげれば良いのか。
潮の流れを読み、魚の生態を学び、魚を釣る。
それは音楽を創る上でも同じだと、
不謹慎ともとれる言葉を平然と言ってのける。
山口一郎さんはそんな風に音楽が売れない時代に、
きちんと音楽を売ることを前提として創っている。
それを釣りを楽しむ要領でやっているのがすごいと思った。

魚と音楽。
この二つの関係性はなかなか奥が深い。
いつかサカナフェスとかあればいいのに。

「アナログフィッシュ」初めてちゃんと聴いた。意外とよかった。

2011年3月26日土曜日

まだ死ねない理由

2ちゃんに立ってたスレッドに不覚にもほろっとした。
いろいろな人たちの「死にたくない理由」がたくさんあった。
くだらないことや真剣なこと、
いろいろな人たちが、いろいろな気持ちを抱いて生きている。
みんな家族から祝福されて、ふんわりとあたたかくて、
なんだかくすぐったいものを全身で感じて、
産まれてきたのだとおもった。

4月1日(金)の塚本功トリオのライブ、
何が一番楽しみかというと、ASA-CHANGには、
今までASA-CHANG&巡礼やタブラボンゴナイトで、
何度か三重に来てもらっているのですが、
ドラマーとしてのASA-CHANGを観るのは今回が初めてなので、
個人的にはそこにとても注目しています。
皆さんも是非ドラマーASA-CHANGを観にきて頂けたらと思います。
もちろん、塚本功さんのギターさばきや、
長山さんのウッドベースも要チェックですよ!

4月1日(金)松阪マクサ
open 18:30/start 19:30  adv/2,500yen door/3,000yen
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↓サケロックオールスターズのメンバーとして、
高田蓮さんと参加しているASA-CHANG。
なんともたのしそうでよい映像。
そしてよい音楽。

※音小さいので注意



お揃いで赤いセーターを着たり、
サケロック定番の白いスーツがいい。

四畳半


「四畳半神話体系」のDVDをみた。
話の内容もおもしろいし小気味よいテンポ。
言葉のリズムがここちよい。
森見登美彦さんが書いた原作を読んでみたい。
オープニングのアジカンや、
エンディングのやくしまるえつこの音楽もあっている。
神無月に神様が出雲の国に集まって何をしているかというと、
男女の縁を考えているという発想はおもしろかった。
本当かもしれないとおもった。
確かにこの世の物語は誰かと誰かが出会うことで動き出すのだから。
作者は1979年生まれの京都大学農学部出身のようだから、
京都に住んだ事のある人は、
あの空気感はかなり楽しめるのではないかとおもう。

うーん。なにかおもしろいことが発明できたらよいのになー。
一人になると頭の中に色々なことが駆け巡ってたのしい。

2011年3月25日金曜日

時をかける少女


DVD「時をかける少女」のアニメをみる。
なんどもリメイクされているけれど、
どんな話しなのか知らなかったので。
キャラクターデザインが貞本義行だったし、
終始映像も美しかったので楽しめた。

ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を途中まで読む。
図書館でなんとなく目に留まったので借りてみた。
「ヘルマン・ヘッセって確か水木しげるが好きな詩人だよなー」
と思ったらゲーテだった。
ゲーテも今後読んでみたい。
「車輪の下」を読んでみるとヘッセがかなりタイプであることに気付く。
なんとなくカポーティが頭の中でちらつく。
カポーティのことは時々思い出す。
他人を無償になじりたい気分になると、
「カポーティみたいに友達なくして病むのかな。」とおもう。
カポーティもヘッセも田舎出身で、
どちらも田舎で抜きん出た才能を持つものの、
特有の悩みや、楽しみ方が正直に書かれていてとてもよい。
そして、ふたりとも都会にでるが、
結局田舎に帰りたいとおもう心の流れが好きだし、同感する。


「車輪の下」で今のところぐっときた部分抜粋。

少年の中には、ある粗暴なもの、乱暴なもの、野蛮なものがある。それがまず打ち砕かれねばならない。また少年の中にある危険な炎がまず消されねば、踏み消されねばならない。自然に造られたままの人間は、計ることのできない、見通しのきかない、不穏なものである。それは、未知の山から流れ落ちて来る奔流であり、道も秩序もない原始林である。原始林が切り透かされ、整理され、力でもって制御されねばならないように、学校も生まれたままの人間を打ち砕き負かし、力でもって制御しなければならない。学校の使命は、お上によって是とされた原則に従って、自然のままの人間を、社会の有用な一員とし、やがて兵営の周到な訓練によってりっぱに最後の仕上げをされるはずのいろいろな性質を呼びさますことである。


学校に随分めちゃくちゃにされたと思っていたけど、
そもそも学校は人間をめちゃくちゃにしてなんぼのところだった。
その辺は、今も昔も変わらないのだろう。

そうだ、ライブにいこう




というわけで、
塚本功トリオのライブまでついにあと1週間!
盛り上げていくために毎日ブログにアップしていきます。
どうぞよろしくお願いします。

ツアーの初日、姫路のハルモニアというところで、
行われたライブについてのブログなど。
http://harmoniania.blog109.fc2.com/blog-entry-79.html

3月17日から行われている今回の塚本功トリオのツアー。
地震の影響で至る所でイベントの自粛が相次ぐ中、
延期にも中止にもせずに、
予定通りライブをすることに決めた塚本功トリオの3人と、
オーガナイザーの心意気には胸を打たれました。

地震以降、何度かユーストリームで色々なアーティストのライブを観ました。
(七尾旅人、バンバンバザール、吾妻光良、星野源、山口一郎、サケロック)
音楽の必要性をひしひしと感じ、やっぱりパソコンの前ではなく、
早く街に出掛けて生のライブを楽しみたい!と思いました。
私にとって地震後、初のライブは塚本功トリオになります。
本当にとても楽しみです。
三重の音楽好きの人たちも是非街に出掛けて、ライブを堪能してください。
4月1日の塚本功トリオのライブを、
多くの人たちに地震以降初のライブにしてもらえたら嬉しいです。
めちゃくちゃかっこいいですし、エネルギーももらえて、
絶対損はさせないない内容なので是非!
↓↓↓下の映像要チェック!↓↓↓

4月1日(金)松阪マクサ
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reserve&info/ M'AXA 0598-56-4825 maxa@maxa.jp

2011年3月24日木曜日

コロス夢


昨日は父親を殺す夢を見てしまった。
ほんとうに生々しくて、おそろしくて、
最低の目覚めだったのだけど、
念のため夢占いをしてみたところ、
誰かを殺す夢はどうやらいい夢のようだった。
ちなみに以前は夢の中で母を殺した事もある。
私は夢で両親を殺している。
それは、両親からのしがらみから逃れる為の夢だ。
両親が私に抱いていた思い込み、
それに無意識にしたがってしまう子の苛立ち。
情けないけど、
私はずっとそういうものと闘っていたのだと思う。

包丁を持って刺す。首を絞める。
それを実際に行動に移してしまったら犯罪だけど、
何かに対するそういう気持ちは、
どこかで昇華するべきなのだと思う。
「死ね」というとき、
一体なにを殺したいのかはっきりさせるべきだ。
そしてきちんと出していくこと。
人間はキレイな部分だけで生きられない。

私はまるで宗教的な意味合いの持つ神聖な儀式のひとつのように、
夢の中で母を殺し、父を殺した。
そういうのを表した絵があってもいいと思う。
子どもが包丁を持って、大人を刺す。
わたしが親を殺したように、
いずれ自分の子どもにも刺されるだろう。
そしたら「大きくなったね」と頭をなでてやるのだ。

若者地方分散論

東京はいよいよ水道水がなんだか気持ち悪いことになってきたことだし、
これをきっかけに地方に人が分散したらいいとおもう。
よっぽど東京で居ないといけない理由がある人を除いて、
田舎がある人は田舎に帰って、
捨ててきた両親と共に過ごせば良いのではないかと。
今はネットがあるから情報は求めればあるし、
そこまで東京に固執して生きていく必要はないのではないだろうか。

私は一生この地で暮らしていこう、
と、なんとなく思っている。
家もあるし、両親も居る。
気候も穏やかだし、猫も外で飼える。
この地で何かしたいとおもっている。

田舎の若者は「つまらない」と言ってすぐに都会に逃げ出す。
都会に行けばなんとかなると思っている。
でもそれが田舎をますますつまらなくしている要因になっている。
もちろん仕事は限られてくるし、
おもしろいイベントもない。

でも、だったら作れば良いのだ。
せっせと身を削って、頭をひねって、なんとかすればいい。
もちろんそんなことは容易ではない。
でも誰かがなんとかしようと思わなければ、
なんにもできない。

めんどくさい事は他人に任せて、
美味しい部分だけ舐めて生きていこうという姿勢の若者が、
多すぎやしないか?
そんなことを思っている。

もちろん田舎には「なにかしたい」と
思っている若者がわんさかいて、
でもその多くは、結婚して生活に埋没したり、
そもそも諦めていたり、
わけのわからない人間関係に悩んでいたり、
的外れの見解ばかり主張したり、
あまりあてに出来ない人が多かったので、
誰かをあてにすることがそもそも間違っていると思い直し、
改めてなにかできないものか、と私は思っている。

なぜなら全ては「つまらない」からだ。
「つまらない」とは人間を窒息死させてしまう恐ろしいものだ。
つまらない人間からはつまらないものしか産まれない。
つまり私がつまらないと感じるということは、
私自身がつまらない人間だということだ。
それだけは避けたい。

無理矢理でも日々なんとか「おもしろい」を発掘したい。
ただそれだけなのだ。

2011年3月23日水曜日

28の春



N'夙川ボーイズというバンドの「物語はちと?不安定」という曲。
ツイッターで流れてきたのだけど、女の子(リンダ)がめちゃくちゃかわいい!
久々にぐっときたわー。
「17歳のカルテ」のウィナノ・ライダーもかわいかったけど。
この曲を聴いたらなんとなく遠藤ミチロウを聴きたくなった。

今日はお風呂で「涼宮ハルヒの憂鬱」と
「新世紀エヴァンゲリオン」について考察した。
私が中学生の頃はエヴァが流行っていたし、
ハルヒも今の中学生にとってそういう存在なのだろう。
きっとかなりの人数の中学生がハルヒの世界の影響受けていて、
一番敏感な時代にがっつり染み込んで、そして大人になる。
私はなにやらそれがとても楽しみだとおもう。

「東京で一人暮らしを続けていたらどうしていただろう」
と、時々思う事がある。
きっと、よくわからない恋愛を繰り返して、
お酒をたらふく飲んで、ライブもたくさんいって、
とんでもない空洞を抱えて、
街をふらふら彷徨っていたのではないかとおもう。
地元に戻ってきて、色々な人たちと出会って、
色々な影響を受けて、ぐちゃぐちゃの人間になった。
私は常に混乱し、苛立った。
学校も、会社も、趣味趣向が似ているグループも、
何かを知り、何かを学び取り、
それなりに楽しめたけど、それだけだった。
私が追い求めるもの“そのもの”はいつもどこにもなくて、
結局、私自身を追い詰めることの中にしかない、
ということを知る。
どこに居ても、私は一人にならざるを得なかっただろう。

私は「おもしろい人」と出会いたい、といつも思っている。
私が変化すればするほど、
おもしろいと思ってい人が、おもしろくなくなる。
同じ場所をループし続ける人間はつまらない、
と思ってしまう。
だから近くに居られなくなる。
「冷たいやつだ」と言われようが、
私の本音はいつだってそうなのだ。
変化し続ける人間と出会いたい、
風通しのいい人間でありたいと、
「涼宮ハルヒ」に出会って本気で思った、28歳の春。

2011年3月22日火曜日

涼宮ハルヒの憂鬱


かなり今更感のあるネタになろうかとは思うのだけど、
「涼宮ハルヒの憂鬱」の漫画を読みました。
(ネットで調べたところ漫画は酷評されているので、
改めてアニメかライトノベルを観た方が良さそう。)
少し前、バナナマンの設楽さんが、
涼宮ハルヒがおもしろいとラジオで語っていたのを聞いてから、
ずっと読んでみたいなーと思っていたのだけどやっと読めた。
そして確かにおもしろかった。
なんか「日本すげーな!」と興奮して鳥肌が立つものがあった。
これは外人に是非読んでもらいたいと思ったのだけど、
やはり外国でもかなり人気があるらしい。
今度は漫画ではなくてライトノベルを読もうとおもう。
ライトノベルを制覇したら感想でも書こう。
ほんと騙されたと思って、アニメ観るか読んだほうがいい。
「らんま1/2」程度の軽いエロもあるし。
世界の最先端は日本のオタクの頭脳に託されているような気がした。

鳥取の女


昨日は寝る前に境界性人格障害について色々と調べてみた。

こんな風に「なんとか障害」と勝手にカテゴライズされると、
病気みたいだけど、そんなに深刻に考える必要も無いのではないか、
という結論にいたる。
そもそもフロイトだかユングだかの外国の心理学者が、
勝手に人間を分別しだしたのであって、
結局のところ、日本は開国以降、外国の思想や感覚が紛れ込んできて、
どんどん病んできているのではないだろうか。
アメリカの精神医学会による境界性人格障害のチェック項目をあげてみる。


1、現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする、
気違じみた努力。


2、理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって
特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式。


3、同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像または自己感。


4、自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも二つの領域にわたるもの
(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)。


5、自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰返し。


6、顕著な気分反応性による感情不安定性
(例:通常は二三時間持続し、二三日以上持続することはまれな、
エピソード的に起こる強い不快気分、いらいら、または不安)。


7、慢性的な空虚感


8、不適切で激しい怒り、または怒りの制御困難
(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、
取っ組み合いのケンカを繰り返す)。


9、一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状

5の自殺はないけど、それ以外は身に覚えがある。
ていうか、ひとつも当てはまらない人なんているのだろうか。
結局、子育ての段階で親が子に適切な愛情を注いでいないのが原因らしいが、
一概にそれだけとは言えないだろう。
問題はもっと複雑だ。
物事を良い風に捉えることがいくらでも出来るように、
悪い風に捉えることもいくらでも出来るけれど、
自己を冷静に分析する事で得る「自己認識」は必要なので、
ひとつのきっかけにはなるのかもしれない。

そしてやっぱり改めて思ったのは自分の人生で起きた一番の失敗は、
「自分で自分を捨てた」ことだ。
これによってかなり人生がややこしくなり、
息苦しいものになった。
親がどうこうという前に自分の感覚がやっぱりどこかおかしい。
平気で自分を捨てたことのある経験がある人間は、
他人も平気で他者を捨てる事を知っているので、
常にある種の絶望のようなものがあるとも言えるし、
逆にすがすがしいほどの孤独も耐えうるということだ。
そして夢を見続けている。
一生私を捨てずに居てくれる人間がどこかにいるのではないかということを。
人生これだけ頭でっかちになっていたら、
それは生きにくいだろう、という気もしてきたが、
まぁこの辺は歳をとればとるほど、
ほっといても緩くなっていく部分だと思うので、
あまりいじくり回さないようにしようと思う。

朝起きて、夏目漱石のことを思った。
「近代的自我の目覚め」とかいうやつだ。
これによって日本人は個々に分断され、
孤独感に悩まされ、暗く苦しく重く病んでいく。
文学のエネルギー源のようなものだ。
病んでいないと、人は何かを創って残そうとはしない。
しかし、病まない文学者が颯爽と登場する。
今の時代病みながら小説を書いている人なんていない。
孤独を乗り越え、孤独を利用し、むしろ孤独を謳歌し、
私たちは生きていく事ができるようになった。
そんな風に人間の精神の在りようが発明されていく。
岡本太郎が縄文人の精神性を発見し、
水木しげるは土人や妖怪の世界を見せてくれる。
そこには孤独なんてものは消えてなくなり、
ただ何ものかがそこにあり、人間は夢中になってその夢を貪っている。
その世界を生き抜く事だって可能である事を身をもって証明している。
どれを選ぶかは個人に委ねられている。
しかし個人とは脈々と受け継がれてきた血によって支配されている。
なので自由はない。
自己を分析し続ける事の中で自由を発見していく。
心の旅や冒険はこれからも続く。
前人未到の領域を発見したら大声で知らさなくてはいけない。
なぜならそれは人類の共通財産だからだ。
そして歴史に名を刻むのだ。

いつも枕もとに置いていた尾崎翠の作品集を手にとる。
実は全部読み切れていない。
彼女の文体は私に馴染まない。
でも無理矢理読む。
なぜなら彼女の観ていた世界を体感しなくてはならないからだ。
「こおろぎ嬢」、「第七官界彷徨」。
彼女もまた精神を煩っていると見なされていたし、
自分自身もそう思い込んでいたのだろう。
そこに表されるのは、苔の恋。二人の自分。家族への献身。
いつも湯気が漂い、ジメジメしている。
精神がアメーバのように動き回る。
いや、きっとアメーバなのだ。
人の皮をまとい、彼、彼女は苔になり、分裂し、愛にナル。
彼女の生き様に私はひとつの道筋をみる。
このままでいいのだと。

私は現代に産まれ、子に依存する母をもち、
それゆえ「境界性人格障害」と呼ばれるものを発症し、
また平気で自分を自分で捨て、自ら混乱し、
しかし足りない頭脳をなんとかフル稼働させ、
自己分析を繰り返すいきモノ。
そしてその様をインターネットというものにのせ続け、
他人に表し、なにかになろうとしているモノ。
そういう泥臭くて、みっともなくて、情けない部分を、
これからも全て、包み隠さず出してゆこうと、おもっている。

2011年3月21日月曜日

ボーダーライン・ディスオーダー


近頃キャベツもレタスも大きくてみずみずしい。
そんなところでも、もうすぐ春なんだなーということを実感する。

昨日はBSで「17歳のカルテ」をやっていて、
母親と一緒に観ていたのだけど、
母親的に随分共感を覚える内容だったようで、
「これは深い映画だわ」なんてことを言っていた。
私は昔、一度観た事がある映画なのだけど、
今回改めて色々考えさせられた。
ウィナノ・ライダーが演じる主人公のスザンナは、
境界性人格障害。
この病気を調べてみた。

対人関係、自己像、感情の不安定および著しい衝動性。成人期早期に始まる。
患者の母親自身が境界症候群的障害を内蔵していることが多い。

とある。
まさしく私たち母娘の病気だった。
なんとなく、この映画をふたりで観てよかったと思う。
べつに問題は解決しないけれど、関係性を客観視したり分析できる。

私はもう28歳なので「成人期早期」には当てはまらない。
しかし精神的自立を果たした一人暮らしを終えて、
実家に戻った22歳から私の精神は明らかに変調をきたしていた。
人生の暗黒期に入ったのもあるし、母の側にいると不安定になった。
それは母の不安定さに嫌でも同調してしまうからだ。
今でも母の側にいると気持ちが乱れる。
はっきりいって、近くに居ないほうが絶対にいい。
しかし母は無意識のうちに子どもを側に置こうとする。
離れて欲しくないのだ。
なにかしら正当な理由を作って側に居させる。
それが息苦しい。息苦しいけど側に居るしかない。
はっきり言って母の存在は私にとって愛ではなく、
呪いであって、拘束するものだ。
女とは、母とはそういう生き物だ。
愛という名目の「欲望」「洗脳」「執着」「束縛」
そういったドロドロした生き物なのだ。
男には到底理解できない。
なぜなら完全に洗脳されているからだ。
それを愛だと思い込まされている。
きっと男からは「愛を理解できない可哀想なやつだ」と思われるだろう。
しかし私は母と同じ女という生き物だからわかる。
すべての女は母になりうる。つまり創造主だ。
簡単に神のような存在になれるのだ。
そして全ての女は暴力的なまでにその権限を主張する。
女が無神経で、横柄なのはそのせいだ。
その姿は醜くみえたり、美しくみえたりするが、
最近はどうも醜い女が多いように感じる。
きっと巧い見せ方を知らないのだと思う。

私はなるべく母親と過ごす時間を少なくするようにしている。
同じ家には住んでいるけれど、多くの時間は共有しない。
そのほうがお互いが楽だし、平静でいられる。
平和な時間を過ごす為には、そのように意識的な工夫が必要なのだと思う。

母と娘の関係は底なし沼のように深く、暗く、重い。
そのことをこれからも研究できたらと思う。

突っ走ったもの勝ち


「人生は突っ走ったもの勝ちである。」
と、誰が言ったか言わないか、
対象はなんでもいい、
なにかに情熱を一途に燃やし続けることが出来る人間は勝ちである。
と、私はおもう。
そういうエネルギーが人を動かし、
世の中はまわっている。

昨日のサカナクション山口一郎さんとサケロックの星野源さんの、
ユーストリームについて朝から考えていたのだけど、
二人ともいろいろなジャンルを飛び越えたいという意思があって、
それがなんとなくいいなーと改めて思った。
お互い持っていないところを持っているというのもあるし、
(いい意味でのメジャー感とマイナー感とか。)
二人の関係がとてもいい時期で、いいエネルギーを発していて、
それを私たちがユーストリームで共有できる、
というのがおもしろい。

星野源さんが好きなもので、
「京都アニメーション」というのがあって、
ちょっと調べてみたところ、
「けいおん」、「涼宮ハルヒの憂鬱」とかをアニメにしてる会社なのだけど、
「ああ、アニメってこういう感じの空気感もできるのね」
とちょっと発見というか、自分の中で広がっていく何かがある。
東京の秋葉原や、名古屋の大須にはない、
京都ならではの空気感で作られたアニメ。
色はパステルカラー。どこまでも甘い。
そこはまた世間から隔離された密閉された世界なのだけど、
他のオタク文化と比べて入りやすい空気がある。
地震以降なんとなく、
「誰も傷つかない王国はどこにあるのか」
というのがあって、そこは私が求めている王国の空気があった。

でもやっぱり何がすごいって、
それを星野源さん経由で知るというのがすごいのだ。
きっとそういう風にして新しい情報が色々な人たちに広まって、
再認識されて、文化というものは、
ますます活性化されていくのではないかと思う。

閉じこもって密閉して、
汚いものが入ってこれないような世界を、
入ってきたとしても消えてなくなってしまうか、
逃げ出してしまうような、
ぞっとするぐらい潔癖な世界を、
いつかみてみたいなーとおもう。

2011年3月20日日曜日

ゆ〜すとり〜む


今日突発的にやっていた、
山口一郎さんと星野源さんのユーストリームが最強によかった。
いいコンビだわ、やっぱり。
しかも二人で音楽作る話にもなっていた。
いやーたのしみだわー。
近い年齢で、抜きん出た才能を発揮しているのは、
やっぱりこの二人だな。
30歳ぐらいになってようやく、
お互い表立ってきたかんじかー。なんとなく。

揺れていたり、無防備になっていた部分が、
やっとじょじょに戻っていくかんじ。
でもまだ奥のほうでふつふつと燃えているような。
結局地震がきっかけで、上のふたりとかも近くなって、
一緒になにかをやったりして、
世の中そういうのが結構多いんじゃないかと思う。
もともとチャンスを狙っていたけど、
地震のおかげで対象と急接近できたりとか、
思いがけないつながりができたりとか。
ますます楽しみが増えていくような。
人間には悲しみをそのまま悲しみで終わらせないような、
そういう逆転させる力が備わっているんだろう。

おはぎ


カレーを食べて、おはぎを食べる。
おはぎにはコーヒーが合う。

心が凪ぐ。
とくに想う事はない。

さてこれから人生どう転ぶか。

まっすぐ

ラクダ柄のブラウス
サカナクションのトップランナーを観る。
「ネイティブダンサー」で気になっていた、
山口一郎さんを確認するためだ。

山口一郎さんがなんでこんなに気になるのかというと、
まぁ、簡単に言えば真っすぐなところが気になるのだろう。
そしたら「音楽と結婚した」と惜しげも無く言えるほど真っすぐだった。
「音楽になりたい」とも。
歌詞がおもしろいのは、
やっぱり文学に傾倒してた時期があったからだった。
きっとそのうちソロで活動していくんではないかと思った。
いや、わかんないけど。
でもやっぱり「ネイティブダンサー」は気に入ってるんだけど、
他の曲は「うーん」なんだよな。
すごく「惜しい」感があるのはなんだろう。
でも「惜しい」からここまで売れているのかもしれない。
もしかしたら世の中の事をすごく知っていて、
その中で売れそうなやつを作ってるのかも。
いつか世の中とか無視して作ってみてもらいたいけど、
多分それは出来ないのかもしれないなぁ。
日本のポップミュージックシーンにおける、
星野源と山口一郎の対比はおもしろい。
どちらも言葉を重視した音楽を作っている点において。
歌詞のタイプは違うけど、どちらの創り方も好きだわ。

そして今まで山口一郎さんをみるたびに、
劇団ひとりを思い出していたのだけど、
そこにさかなクンも足す結果になった。

キッチン


地震以降、台所に居る時間がぐっと増えた。
野菜に触って、包丁もっていると安心する。
テレビを見たり、インターネットをしているとそわそわする。
だから私は台所に行って料理をつくる。
料理は精神安定剤のようなものだ。
料理は車の運転と似ている。
手を動かして頭の中の半分は料理のことだけど、
もう半分は違う所に繋がっている。

食べるものをつくる事は、命を繋げていくことだ。
生きる意思を示していく。
それがエネルギーになる。
単純に野菜を切ったりすることがしたくなるのだ。
空中に漂っている雑念のようなものを振り払い、
純粋に「料理をつくる」という部分をすくいとって、
私は台所にたっている。
堂々と、力強く、私は台所にいる。
生きることが、料理をつくることや食べることに、
直結している。
そのことが地震以降、明確にみえてきて、
私はいてもたっても居られなくなり、台所に立つ。
おばあちゃんの存在を感じていることも、
要因となっている気がする。
「食べるもの」をつくり、
「おもうこと」をつくる。
そんな風に、自分がいいと思えることを、
ずっとつくり続けていれたら幸せなのに。

久しぶりによしもとばななの「キッチン」でも読もうかな。

2011年3月19日土曜日

あかちゃん



今日、友達が赤ちゃんを産みました。
二週間はやく産まれてきたらしいのだけど、
写真をみた限りとてもしっかりしてた。
とてもうれしかった。
地震でぐらぐら揺れてた気持ちが、
ぴたっと止まって、
ぐんぐん喜びで満ちていくようだった。
友達も、赤ちゃんもすごい。
命ってなんて力強いんだろう。
これからも続く世界。続く命。
けして終わらない世界。
そういうことを思った。

地震が起きて、たくさんの命が亡くなっても、
新しい命は今日もどこかで産まれている。
それが今、一番の希望じゃないかとおもう。
命がたくさん亡くなってしまったのなら、
またたくさん産めばいい。
女の人の力強さはそういうところだ。
だって、私たちは増殖している。

壊れてしまった部分は、黙って治せばいい。
この世はその繰り返しなのだ。

2011年3月18日金曜日

おばあちゃん

今日は糸井重里さんの嫁が樋口可南子さんであること知ったり、
いつもホームページをのぞいているショップのモデル兼デザイナーの子が、
タムくんの嫁であったり、なんか色々びっくりしたり、腑に落ちたりした。

昼間、急に風呂場とトイレを掃除したくなって、
1時間ばかり無心で掃除した。
掃除している最中ずっとおばあちゃんのことを思っていて、
といっても、私が産まれる前に死んだおばあちゃんだから、
会ったことはないのだけど、
おばあちゃんだったらこんな風に掃除するんだろうとか、
おばあちゃんはこんな気持ちで暮らしていたに違いないとか、
そんなことを思っていた。
そういえばお彼岸だし、おばあちゃんが来てるのかもしれないな、
と思って、掃除が終わったら続けて、
冷蔵庫の余り物で簡単な料理を作ってみたりした。
じゃがいもをすりおろして、もちもちのチヂミを焼いたり、
キャベツを味噌とにんにくであえたり、
ごはんも余っていたから、チャーハンにしたりした。
お母さんと一緒に食べていたら、お母さんが夢の話をしてきた。
おじいちゃんとおばあちゃんとキノコを取りにいく夢を見たんだそうだ。
私もおばあちゃんの事を考えながら掃除したことを言った。
そしたらなぜか涙が溢れ出てきた。
私はおばあちゃんに会った事がない。
お母さんの口からおばあちゃんの話を聞いた事があるから、
おばあちゃんはきっとこういうことを考えていたに違いないって想像する。
会った事が無いのに、なぜかよく知っている気になっている。
おばあちゃんは理想のおばあちゃんだ。
働き者で、愚痴も言わないで、いつも体を動かしている。
動いていないと居られない。
おばあちゃんみたいに色々なことを当たり前のこととして、
受け入れて、きちんと家を回していけたらいいと思う。
おばあちゃんの孫だからきっと大丈夫ってそう思える。
おばあちゃんを思うとすごく安心する。
私はたくさんの先祖の思いが折り重なってここに居るんだなー、
ってことを実感する。
会ったことのないおばあちゃんを、
心の支えにして、これからも私は生きていくんだと思う。

露出狂

世界がむきだしになる。
空気に触れてひりひりする。
敏感になる。
感じる。
みんなが隠し持っているものが露出する。
守るものがなくなって無防備だ。
でも、なにもできない。
手出しが出来ないぐらいにエネルギーに溢れていて、
ただ、じっと見つめることしかできない。
いや、見つめれば見つめるほど、
こちらの汚さがあぶり出される。
そういうもの。
浄化された静電気のようなものが辺り一面に漂う。
それが少し動くたびに空気が動く。
息をのむ。
背中にじんわりと汗をかく。

そういうものを見続けていたらどうなってしまうんだろう。
気が狂うか、何も無くなってしまうか、
わたしはどちらかの選択を迫られている。

へまんと


インドに修行に行ってるユザーンさんが、
ボロボロの日本に素敵なインド音楽を届けてくれたよ!
「へまんと」
ジャケは本秀康さん、ミックスはレイハラカミさんの、
ゴールデントリオだよ!
お金は投げ銭制で、全額寄付だよ!すげーな、おい。
30分間みっちりインド。
これでもかというぐらいインドだよ。
みんなさくさくダウンロードして、
いったんインドの空気吸ってみたらいいんではないかしら。

やっぱり、ある人の文章がどこまでも美しいなとおもう。
それは全部をバランスよく知っていて、
全部のことを認めて、許していて、
その中で自分はこういうスタンスを取るよ、
こういうスタンスもあるんだよ、
いいと思う人は真似してみたらいいよ、
と、人間の新しいスタンスをいつも発明し続けているだからだと思った。
それは自分の好みとか、タイプとかを越えた、
諦めずにぐっと踏み込んだものにしか観る事の出来ない境地だ。
その境地を惜しげも無く提供し続けているのだと思った。
それは常に冷静な視点を持ち続けなくてはいけない。
何事にも流されてはいけない。
それは孤独になるということだ。
でもそんな孤独な作業を続けている人が世の中には結構いるのだ。
そしてその中でしか人は何かを見つける事はできない。

むにゃむにゃ

千葉の友達から電話がかかってきた。
今日はじめて停電になったらしい。
トイレが使えなくなったり、
お風呂も銭湯に行ったそうだ。
電話している間にも二回余震があった。
たった二週間前、
あんなに無邪気に笑い合っていたのにね。
そんなことを話した。

毎日緊張して、
頑張んなきゃって余計なところに力が入っていて、
人々は疲れている。
そろそろ不安が心の隙間に入り込む。

まだまだ先は長い。
むしろ始まったばかりだろう。

あああああああああああああああ。

ああ。

あいしている。

つまらなくて、汚くて、卑しくて、冷めてて、
はっきり言って、中の下、以下の人間だけど、

あいしている。

心の底から人にそうやって言えるだろうか。

明日が見えなくて、
平穏無事じゃいられないことを知った今、
そんなことを考えている。

人生は長い。
けど、短い。
そして必ず終わる。

日々は、そして時間は、
いつだって甘い砂糖水のようなものでなくてはならない。
最上の夢。

世界はうすい黄色。
もしくはうすい水色。

他の世界はどうだろう。

私のこうしたい、
はそのままカタチにしてもいいのかな。

ぼくはどうやったらぼくになれる。

もう世界はギリギリのところにきているから、
もうぼくもギリギリのところにいかなくちゃ。

思い込みが、呪いが、とけないよ。
鎖がからまって身動きとれない。

少しずつ少しずつ、
こんがらがった糸をほぐすように、
謎を解くのよ。

私が欲しいのはただひとつ。

からまった糸をほぐす呪文なの。

それは、音楽でも言葉でもいい。

少しずつ自由になりたいの。

それを必死にさがしているの。

ほんとうを知りたいの。

ほんとうを知ったら、ほんとうになれるから。

ただそれだけを信じているのよ。

君の力が必要だから。

お願いだから君が持ってる秘密を今すぐ私に教えて。

そうしたら次の世界にいけるのよ。

そうしたら私たちはもっと自由になれるのよ。

ねぇ、お願い。

キレイな世界がみたいの。

私が生きているのはただそれだけなの。

キレイな世界がみれなくなったら死んでしまうの。

どんどん真っ黒いやつに吞み込まれてしまうの。

どうか、わたしを助けて。

おねがい。

2011年3月16日水曜日

へっぽこ



なんだかずっと気になっていた『ネイティブダンサー』を、
なんとレイハラカミさんがリミックスしていたことが判明し、
久々にいつもの感じで興奮していて、
それがやけに嬉しいのです。

「ネイティブダンサー reiharakmi へっぽこre-arrange」という曲。
残念ながらアレンジバージョンの動画はアップされてなかったのだけど、
さっそくitunesでダウンロードした。
なにやら山口一郎さんがレイハラカミさんをすげー尊敬しているらしい。
意外だったけど山口一郎さんのイメージはますますアップした。
(テンテレテー)←レベルアップした音。

なんかほんと久しぶりに普通に戻れた感じがよかった。

ウランちゃん2


二月に、ふとウランちゃんが頭に浮かび、
ウランちゃんをググったのだけど、
まさか一ヶ月もたたないうちに再びウランちゃんについて、
考える日がやってくるとは。

山岸凉子さんの「パエトーン」によると、
核分裂を起こしてエネルギーを産み出しているウランという物質は、
地球が宇宙に誕生するのに必要なものだったそうだ。
太陽ではいつも核融合が起きている。
だから昼間は明るくて暖かい。
その仕組みを人間が利用しようというわけなのだけど、
やっぱりひとつの星が誕生に使われるほどのエネルギーなので、
一度暴走すると人間の力では手に負えない。
手に負えないものをエネルギーとして使っているという事実。

一体どんな権力でそんなものを創っているのかしらないけれど、
全力で食い止めていくべきだろう。
でも膨大なエネルギーを創ることの出来る技術がある。
人類が先に進んだのに、後退しなくてはならない。
でも捨てるしかない。だから封印するとする。
でもいつか誰かがこじ開けてしまうだろう。
反対派と肯定派が対立して、核を巡る争いがさらに激化するかもしれない。
これは地球に住んでいる以上逃れられない。

どんどん傲慢になっている。
謙虚に生きていきたいのに。
生きていることの謎を解きたいだけなのに。

「生物学的に“好適”で満足せず“最適”を望む生物は
滅びる運命にあるそうです。
人類はこれ以上便利を追求してはいけませんよ。」
山岸凉子著 『パエトーン』より抜粋

日々のゆらぎ

今日は風がつよい。
ゴーゴーという風の音が不安感を煽ってくる。
ここのところずっとイライラしていて、
自分の至らない部分がやたらと目につき、
そしてだだ漏れになっている。


そんなことをちんたらとブログに綴っていると、
タムくんのツイッターが目にとまる。

安全なところにいるのに心が揺れたらやってみてください
http://bit.ly/hVt44d

まさしくどんぴしゃな内容でびっくりした。
やっぱりすごいわ、この人。
地震発生以降ツイッター上で一番すごいと思った。

何を思えば、そして行動すれば一番いいのか、
ちっともわからない。
でもそれは産まれてこのかたずっとそうだ。
地球の未来も、自分の未来も全部がよくわからなくて、
このままでいいのか、それとも何かを変えるべきなのか、
いつも思っていた。
「こうあるべきだ」と思ってやってみたことが、
まるで検討違いのこともいっぱいあった。
失敗とか、間違いとかを何度も繰り返して、
違う選択をするしかなくなって、
私は今ここにいて、こんな風に言葉を綴っている。

みんながそうなんだろう。
色んな失敗をして、いっぱい痛い思いをして、恥ずかしい思いもして、
次へ進む。
原発問題だってそうだ。

「原発なくせばいいじゃない」
と、簡単に発言したら、
「お前は非現実的な人間だ」
と、兄に言われる。

「原発をなくす」ということがなぜ非現実的なのか。
ということを兄に聞かなかったのだけど、(ケンカになりそうで)
きっと色々な知識や情報をもとにして言ってるのだろうと思う。
これだけ電気を使う人間が、電気を使わなくなる生活になるのが
非現実的だと言っているのかもしれない。

「原発に変わるクリーンなエネルギーを」
ということなのだろうけど、きっとそれも簡単にはいかないのだろう。
そもそも私に原発の知識がまったくない。
今までそんなに深く考えた事もない。
ただ思い出すのは、
黒澤明監督の『生きものの記録』や『赤富士』だ。
『生きものの記録』は放射能に怯えてブラジルに移住すると言い出す
おじいさんの話し、
『赤富士』は、富士山が噴火して原発も爆発して日本中が被曝するという話し。
監督はやはり天性の生き物としての根源的な感覚で感知して、
人類の未来をきちんと見据えていたと言える。
それと山岸凉子さんの『パエトーン』。
原発の恐ろしさを神話に例えて漫画で丁寧に説明してくださっている。
さっきもう一度読み返したところ、驚いたのが、
「日本のエネルギーは原発を使わなくても間に合う」
ということ。
ただ原発を建設する事で一部の人間が多大な利益を得る。
本当にそれだけの為に原発が至る所にあるのだとしたら、
ばかばかしすぎて、脳みそがとけてしまいそうだ。

今まで原発問題をほったらかしてきた、
人類のひとりとして切実に原発の事実を知ろうとしなくては
ならない気がする。
しかし事実を知るのは難しい問題のような気もする。

やっぱり人類は大惨事を経験しなくてはならないのだ。
未然に防ぐ事はできない。

いくら宮崎駿が『風の谷のナウシカ』を描いても、
環境破壊も原発もなくならない。

ほんとうに人間という生き物は不思議というか、
多様性に満ちているというか、愚かだ。

原発つくるのも、戦争するのも、音楽つくるもの、
絵を書くのも、祈りを捧げるのも、全部人間。
色んな人間が住む世界。

いよいよ現実逃避だろうか。
近頃ここは仮の世界なんじゃないかって気がしてくる。
私が住むべき本当の世界ってどこにあるんだろう。

“どうやったら誰も傷つかなくて済むんだろう。
誰も傷つかなくて済む世界はどこにあるんだろう。
そんなところ、この世界にはないのかもしれないけど、
私はいつもどこかにあるんじゃなかって、
じっと我慢強く探し続けているんだと思う。
(3月7日のつぶやき)”

2011年3月15日火曜日

深くもぐったらこんなのが出てきた2

世の中にはどうにもならない事が起こる。

戦争だって、テロだって、震災だって、原発事故だって、

全部どうにもならないことだ。

そして、いきなり多くの命がなくなる。

ごそっと根こそぎもってかれる。

そんなとき残された側の人間はうろたえる。

たくさん悲しんで、傷ついて、どうにもならなくなる。

戻ってこない命について考える。

またたくさんの命が犠牲になるかもしれない。

生活を豊かで便利してくれた電気が、

私たちを恐怖のどん底におとしめるものになっている。

この恐怖を私たちは学べるだろうか。

結局多くの命を犠牲にすることでしか私たちは学べないのだ。

残された人間が後世に伝えるべきこと。

私たちは今確実に地球に住む人類として何かを学び取らなくてはいけない。

地球をひとつの生命体だと想定する。

私たちの意識は地球のひとつの細胞。

私たちは傷を負った。

痛くて痛くてたまらない。

傷を治そうと細胞のひとつひとつが喚起して総動員で頑張っている。

精一杯治そうとしている。

傷はいずれ治癒されるだろう。

地球はそういう力を持っている。

ただ悪い細胞が創った原子力発電所の影響で、

傷が深くなって、痕が残るかもしれない。

残された人間は改めて地球を考える。

正しい方向に進む力をもつ。

深い傷を負って、それでも私たちは前に進もうとするだろう。

人間というのはそういう生き物だし、

地球とはそういう生命体だ。

すべての思想が、感情が、地球の尊い一部分だ。

多様性の海を泳ぎ、私たちはどこかへ向かう。

鳥のような羽と、魚のような鱗と、獣のような毛並みで

世界を柔軟に行き来しよう。

私たちはどこへでも行けるし、なんにでもなれる。

深くもぐったらこんなのが出てきた1

僕らに流れる運命をとめることはできないんだよ。

この世界は激流。

どこまでも流れていく。

その先はあるの?

あるかもしれないし、ないかもしれない。

でも、みんなでいくんだよ。

今生きてる人も、死んでしまった人も。

草も、木も、花も、犬も、猫も、雲も、水も、全部。

行き着く先は、ぽっかりと空いた穴かもしれないな。

地球で暮らす人々は、危機に直面してやっと気がつくんだ。

本当の平穏がやってくるまで動き続ける。それが使命。

本当の平穏なんてやってくるの?

やってくるかもしれないし、やってこないかもしれない。

目の前の地獄から目を逸らして逃げているだけかもしれない。

逃げて、逃げて、逃げた先に、本当の世界があるかもしれないし、

そんなものはどこにもないかもしれない。

ただ、逃げている最中は夢中だということ。

人々は夢中になりたいだけなんだ。

世の中の煩わしいこと、つまらないこと、全てから逃げたいんだ。

それは、生がどんなに退屈かということだ。

生は膨大な時間を消費する。

覚醒しなければ、生なんてものは苦痛でしかないね。

だって余計な事を考えるからね。

年金のことや、人間関係のこと。

その多くが背負わなくてもいい余計なものばかりさ。

でも人間は自ら進んで好んで背負うんだよ。

なぜって退屈だからさ。

いつだって人間は退屈に押しつぶされそうな生き物なんだ。

だから地震を起こして混乱を起こしてやったというわけさ。

絶望やら、希望やら、人間は好き勝手に食い散らかして、

みたいものをみるからね。

とにかく汚いやつらなんだよ。

それでいて急に自分達を正当化して正義の皮をかぶっていやがる。

昨日まで「セックスしたい」か「腹へった」ぐらいしか考えてないやつらがさ。

みんなヒーローになりたいんだよ。

ここぞとばかりにもっともらしいことを言って、みんなから尊敬されたい。

自己を満たしたい。

他人から必要だって言われたい。

人間が命をつないでいる理由なんてそんなものさ。

地震は断層がちょっと動いた事で地面が揺れる事だ。

そんなことでわーわーきゃーきゃーうろたえる。

人が何万人と津波に吞み込まれて死んだ。

「ご冥福をお祈りします」

ご冥福?なんだそりゃ?

死んだんだよ。とにかく。

子どもが笑いながら蟻の巣に水を流し込んで殺すのと何が違う。

とにかく、人という奴はいざ自分達の事になると大騒ぎする。

感情があって、感覚があって、思考がある。

ただそれだけだ。

感情があって、感覚があって、思考がある人間は、

感情と、感覚と、思考に訴えてくる。暴力的なまでにね。

渦になって襲いかかってる。それは津波と同じなんだ。

根こそぎ持っていこうとする。

波に呑まれて流れていない奴がまるで悪みたいにしてね。

つまり、今ここで書いているこんな女の精神は袋だたきにあう。

人間に同調せずに、全く孤立しているから。

はぁ。まったく理不尽な世界だ。

色んな世界があるってことをもっと知ったほうがいい。

いや人間は色んな世界なんて知りたくないんだ。

ただ自分が知りたいことだけを知りたいだけだ。

大きな波に流されることは楽なのは解るけど、

出られるものなら、一度波からあがってみたほうがいい。

また新しい方向からの世界が観られる。

観られるからってどうなるわけではないけれど、

この世界は、国は、結局今回の地震を武器にさらに強くなるのは確かだ。

意地とか、プライドだけはやたら強い生き物だからね。

そして武勇伝として語られていくのさ。

ちょっと乱暴だけど、そんな風にして、ひとつの物語を与えたというわけ。

人間は感動とか、涙とか、逆境とか、試練の話しが大好物だろう?

全ては退屈から解放してやるためのおもちゃなんだ。

これで人間達はしばらく遊んでいるだろう。

2011年3月14日月曜日

blood

呪われた血。
逃れられない血。
体中を駆け巡る血。
血によって動かされる運命。
全ての鍵は血が持っている。
未来も過去も全部。

血の前では理性は働かない。
支配されている。
どうにもならない。
だから逃げる。
頭で考える。
一生懸命違う場所を夢見る。
それも全部血が見せてる。
結局ぼくは血に踊らされている。
頭の中から、指の先から、足の先まで、
全部に血は行き届いている。

血がぼくに命令する。
ぼくは血の言いなりだ。
血はものをいう。
口を持つこの肉体を通じて、
喋らそうとする。
何を夢見させて、何を語らす?
頭で考える、というよりも、血が細胞が饒舌になる。
おしゃべりが止まらない。

覚醒を待っている。
全てを話したがっている。
血が持ってる世界の秘密を全部吐き出すために生きて、
それが終われば用なしだ。
ぼくはいずれ血に捨てられて死ぬんだろう。

pain

http://www.youtube.com/watch?v=P6vd-nYAKkE
(↑埋め込みできなかったのでリンク貼った。)

新しい何かが産まれるときは必ず痛みを伴う。
痛みを伴なわない出産はない。
痛みは新しい世界が産まれる証拠。

日本中の人たちが今痛いんだと思う。
それぞれが受けた痛みをなにかに変えようとしている。
痛みを痛みのまま出すのもいいし、
痛みを和らげる何かを発明するのもいい。
全部が、ちゃんと私たちで、
生きている証拠だ。

こわい、いたい、つらい、くるしい、きがくるいそう。

うわーって絶叫して、
ぐるぐるまわって、
のたうちまわって、
わんわん泣いて、
ぼうぜんとして、
全部をちゃんとしたら、
次にいける。

ぼくらの世界は生れ変わる。

2011年3月13日日曜日

つくること



高木正勝さんがyoutubeにアップした曲が良すぎる。
人の悲しみとか祈りってこんなに透明で美しいんだ。
ぐっと緊張していた心がほぐれて、
押さえてた何かが昇華されていくのがわかる。
現地にも届いたらいいのに。
それにしてもなんて素晴らしい音楽家なんだろう。
こんな風に目の前で起きた事象ときちんと向き合って、
自分が出来る方法で的確にレスポンスして、
世界に還元できるのがすごい。
私たちも私たちなりに世界を受け止めて、
回答してゆくことの中にしか次に進めないのだろう。

地震発生直前、1時間前に借りたDVD3枚を消化。
「告白」「悪人」「川の底からこんにちわ」
一番最後にみた「川の底からこんにちわ」が一番良かった。
満島ひかりの魅力が存分に味わえる作品。
この作品の監督と結婚しただけあって、何もかもがぴったり合ってる。
内容も個人的にシンパシーを感じる部分が多々。
ちなみに「悪人」にも満島ひかりが出ているのだけど、
どっちもどこにでも居そうで居ない女で、
そういう役がぴったりハマるのだと思った。
「告白」は「嫌われ松子の一生」と同じ監督で、
友達との会話で出てきたので観てみたのだけど、
私は「嫌われ松子」のほうがおもしろかった。
でも「告白」のほうがヒットしたらしい。
途中で流れていたレディオヘッドはよかった。

やっぱりどん底から這い上がる姿はかっこいい。
そして私たちはその力を備えている。

そろそろ私たちは私たちがそれぞれできることに集中すべきなのだろう。
限られた命、そして突然なくなるかもしれない命、
そのことを自覚して、本当に大切なことと、
そうでないことを、全員が見極めるべき、
神様から与えられた最後のチャンスなのだ。

多様性

今日は母親が連れていてけとうるさかったので、
「ナルニア国物語」を観にいった。
ずっと地震のテレビばっかり観て、
精神的によくなさそうだと思ったので。
でもナルニアも結局緊迫した戦闘シーンが満載で、
アドレナリンがばーっと出てしまい、
そんなに意味は無かったような気がする。

人間の多様性について考える。
結局私がこういう時に思考停止に陥るのは、
人は色々な行動を取るという、
多様な可能性に溢れているからだと思う。
悲しむ人、怒る人、あおる人、分析する人、励ます人、何もできない人、
キリがないほど、人間の様々な面が放出して、
どれも正解でも不正解でもないということだ。
それが人間ということなのだ。
とにかく感情は放出させていくしかない。
冷静になれる人は冷静になるしかない。
色々な考えと感情があってこそ人間なのだということを、
ひしひしと思う。

もし今回と同じ規模の津波がこの地域にきたら、
と、試しに考えてみたら、とても危ないだろう、
という結論にいたる。
高台も無く、海岸が近く(10キロぐらい)にある平地だからだ。
前に「津波がきたら危ないだろう」という話しは知人としたことがあるけど、
実際に来たらあんな風になるということがわかった。
とはいえ、引っ越しすることはしないだろう。
逃げる場所は決めておかないと、と改めて思った。

2011年3月12日土曜日

祈りの効用

とにかく今は祈るしかない。
日本中の人たちの精神が今、被災地に集中しているのがわかる。
きっと戦時中もこんな感じだったんだろうとおもう。
自分の全部が喚起される感じ。

やっぱり国ってすごく大切なんだって思った。
普段はそんなに意識しない国。
でもこういう時に一丸となって直接的なエネルギーが働くのって、
すごいことだとおもう。

日本人の本質を今世界中に見せるときなんだろう。
しつこいようだけど、戦争の時だってそうだったんだ。
これが「日本人なんだよ」って、
一番いいと思う事を、感じる事をやる続けよう。

とりあえず、節電と献血かな。

助かれ!多くの命!

にじみでる

地震にかなり動揺しまくり、
死者の数を聞くたびに涙目になっていたけれど、
なんとなく落ち着きを取り戻してきた。

それにしも、ああいう緊急時にこそ、
他人がどういう対応をするかによって、
その人の本質が浮き彫りになるなーと、
ツイッターを眺めながら思いました。
普段の発言に信頼を置いていて、
それなりの影響力を及ぼす人で、
でも時々「おや?」っていう違和感を感じるような著名人は、
今回の地震のツイッターでモロにその性質が現れて、
「うわあ」ってなった。
「あーやっぱそういう人なんだー」と。
それとミュージシャンは比較的共感できるスマートな対応をしていて、
感覚的に洗練されていると思った。
漫画家とか、コピーライターとか、
もちろん全員ではないけど、一部の人にちょっと我の強さが見えて、
ミュージシャンと比べて洗練さに欠けているなーと思った。
まぁこれは、極めて個人的な感覚による感想だけど。

ゆれる

先週末ツイッターで地震予告がツイートされていて、
こわいなーと思っていたら、ほんとにやってきました地震。
しかも前代未聞の大地震。
お父さんの定置網も一部が津波にさらわれた。
東北地方の津波の様子をテレビでみると、
ぼうぜんとなり、思考停止状態。
死亡者の数もぐんぐん増える。
海が真っ黒いお化けになって街を飲み込む様子が、
ずっと流れている。
明日になったらもっと残酷な現状を突きつけられる。
今、現地で助けを求めている人、
助かって避難できたとしても眠れない不安な夜を過ごしている人、
家族の安否が確認できない人、
深い深い闇が多くの人の心を支配しているのだと思うと、
私はなんにも言えなくなる。
まだまだ夜は長くて、そして例え夜が明けたとしても、
むごたらしい世界が待っている。
ずっと救助活動を続けている人たちもいる。
波が色々なものと一緒に、たくさんの人たちをあちら側に連れていった。
連れ去られた人はどこにいったんだろう。
突然この世界から消え去った多くの命の前に、
私たちは立ち尽くす。
正直なところ、一体なにを思えばいいのか、検討もつかないのだ。

2011年3月11日金曜日

川の流れのように(byひばり)

最近ひきこもり願望がひどい。
週末に色んな人にたくさんあったからだろうか。
どうしてこうも他人の感触が変になってきたんだろう。
前はこんなに強く変に感じる事は無かった。
多少、気持ち悪い部分はあったけど、
別に我慢できたし、むしろ他人だって我慢していたはずだ。
それを一方的に「変」とか「気持ち悪い」とか、
偉そうにもほどがあると自分でも思うのだけど、
やっぱり「変」なんだなー。
お互いの何かが響き合って「たのしい」瞬間がないわけでもない。
だけど後でよくよく思い返してみると、
「変」な部分をより強調して思い出してしまう。
「ああ、あそこズレてたなー」とか、
「あの感じ嫌だったな」とか。
よくわからないけど、そんな近頃。

その事自体は、そんなに嫌なことでもないのだと思う。
ただほじくり返していちいち嫌な部分を強調させている、
私の気持ちに問題があるのだ。
どうしてそんな風になってしまうのか?
どんどん他者と距離を持とうとしているのだろう。
距離を広げる。近づかない。
自分自身を孤立化させようとしている。
そこになんの意味があるのか。
孤立化させる事で、周囲の流れに巻き込まれないようにできる。
もちろん人生は社会や他人の人生に巻き込まれることが生きるということ
なのかもしれないけれど、そうではない生き方もあるわけで。
私は巻き込まれたくない。
巻き込まれがいのある流れだったら巻き込まれてもいいけど、
つまらないイザコザやいさかいにはまっぴらごめんだ。
私は私の流れをつくる。
いや、もともと持っているので、それをより強化する。
そして、他人を巻き込む。
そんな生き方をしたいと思うのだ。

他人の悪い部分ばかりが目に付いて酷評するのは、
自分自身の立ち位置を確認するためだ。
その人にはその人の人生の流れがあって、
ただ私がその流れに全部乗れないだけだ。
流れは他人に変えることはできない。
特にその人にそのことを言葉にして伝えても、
全く無駄な事だ。より頑にその流れに執着するだろう。
ただ、私は私の流れを無言のうちに強固にして、
その姿勢を保ち続ける事しかできない。
それに気がついて、いいと思ってもらえれば、
その人は変わるし、思わなければ何も変わらない。
生きているとは、流れの中にいる、ということだ。
知らず知らずのうちに私たちは流されていて、
その中でどんなポジションを取るのかは個人の判断にゆだねられている。

強い人になりたい。
父のように、母のように。

2011年3月8日火曜日

ぐうぜんはひつぜん

富士山

東京から帰ってきた。
今回も色々と収穫のある上京だった。

土曜と日曜は河口湖の付近でバーベキューをして、
音楽を聴いてみんなでわいわいする。
6年ぶりの再会などもありのんびりすごす。
帰りに温泉に寄って、ほうとうを食べて、近くにあった
久保田一竹美術館に寄って感動する。
久保田一竹さんが創った尋常じゃない美しさの着物と、
収集されていたトンボ玉が展示しているのだけど、
建造物もいちいちこだわり抜かれていて、
私は今まであんなにすごい美術館に行った事はない。
騙されたと思ってみんな行ったほうがいい。
絶対に損はしない内容なので。
東京に戻ってくると友達と高円寺に行って
コーヒーを飲んだりご飯を食べたりする。
ものすごくたくさんのことを聴いたり喋ったりして、
なんだか不思議な気分だった。
きっと彼女と縁があるのだろうと思った。
実際色々なことを考えた。
頭が良くて、姿もかわいくて、いいエネルギーを持っている。
単純にそんな女の子が好きで、
そんな女の子が見てきた地獄とか、抱えているものについて、
私はこれからも考えていきたいと思った。

日曜日はなぜか雪が降り、行動しずらかったので、
地下の薄暗い喫茶店で4時間ぐらいずっと本を読んだ。
本を選ぶために本屋さんに行って二冊チョイスした。
バナナマン特集の「クイックジャパン」と
細野晴臣さんの「分福茶釜」。
その前に原節子特集の雑誌と、
能町みね子の「くすぶれ!モテない系」を立ち読みしたのだけど、
この女の格差はなんだろうか、と思った。
私は原節子や、浅川マキなどの昭和にいたどっしりしたタイプの女が
すごく好きなのだけど、近頃ではそんな女はどこを探してもいない。
「くすぶれ!モテない系」の内容、特に巻末にあった、
「モテキ」の作者、久保ミツロウ氏との対談には寒気がするほどだった。
「そこまで計算して、男に相手してほしいわけ!?」と。
モテるとか、モテないとか、この現代に蔓延している、
安っぽい感覚ってなんなんだろうか。
これが全部を台無しにしているような気さえする。
とにかく、つまらなくて、いじけていて、みっともない女たちがいる。
しかも、それがウケるということは、相当数いる。
そのことが、かなりやばいと思う。
容姿に対するコンプレックスと、妙な頭の良さにより、
誰も言葉にできなかった曖昧な世界を
見事に言語化にしているという点で、確かに評価すべき点もあるだろう。
女の開き直りはまじで怖い。というか、やっぱりみっともない。
でもそれをきっちりと自覚した上で、彼女はそれをし続けるだろう。
それが仕事だし、それによって何かを発散できる人々がいるのだから。
しかし、それにしてもこの不快感はなんなんだろうか。
この、感覚に全てが覆われてしまう前に、
カウンターで違う夢を打ち出さなければ、女に明るい未来はない気がする。
世の中の全ての創作は、世の中の流れに対抗するために創る。
そんな風にして世界はどんどん豊かになるのだろう。

と、話が脱線したけれど、
細野さんの本がほんとに良くて、これについてはまた後日書くつもり。

夜は新宿で友人達とご飯&飲み。
ラーメンの話で盛り上がりそのまま歌舞伎町の天下一品行って、
こってりラーメンを食べる。

今日は東京近代美術館で催されている「岡本太郎展」の初日に行った。
これがすばらしかった。
全体の流れも解りやすく紹介されていたし、作品も充実した内容だったと思う。
太陽の塔の制作の過程を紹介するコーナーでは、
私は思わず涙ぐんでしまった。
岡本太郎の人間としての大きさが、
目の前にぐいっと迫ってきて、心の底から感激したのだ。
自分がいかにちっぽけな世界を創って、
その中で安住しているか思い知らされた。
過去を知ることで、自分が今何をすべきかを知る。
それは、岡本太郎も、水木しげるも、細野晴臣も、同じだと思った。
自分なりの感覚で歴史の掘り下げていく作業がとても大切なのだ。
美術館の外にはガチャガチャもあって、
海洋堂の岡本太郎作品のフィギュアもゲットできる。

新幹線で帰って夕方には三重に戻ってきたのだけど、
私には私がやるべきことがある、とじんわりと確信した。
拙い言葉で具体的に言うと、
「女の解明」「芸術への愛」「正しい歴史認識」
のようなこと。
その辺を辛抱強く深めていくことで、
自分の中で世界がより明確に浮き彫りになるのではないかと。
そういった点で、河口湖で見た久保田一竹の着物や、
岡本太郎の世界は今の私にとって必要なエネルギーの形だったといえる。

2011年3月4日金曜日

4月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて

昨日はヨシダダイキチさんというシタール奏者による、
スルバハール(シタールとよく似た形の大きい楽器)の演奏会に
行ってきました。
演奏の前に楽器の説明があったのですが、
海の底、もしくは真っ暗な洞窟の奥でおじさんがお経をあげているような、
そんな音色を醸し出す楽器で、「寝てください」と言われたので、
とりあえず目をつぶって聴いてみました。
目をつぶって音に集中すると音の流れが形で見えて、
それがとても美しいというか心が凪いでいく感じがしました。
前半はゆっくりと穏やかでほんとに寝そうだったのですが、
後半はわりと気持ちが高揚するような音でした。
セミが鳴いているような音が心地よかったです。
「宇宙の音だわ」となんとなく思いました。
音を言葉で説明するのは難しく、
やっぱり音楽でしか開かれない世界というのがあるなぁ、
とひしひしと思いました。
それぞれが、それぞれの得意を使って一番前に行こうとしてるんだなぁ、
と改めて思いました。
そしてミュージシャンってすごく楽しそうで羨ましいです。
私が楽しくないわけでもないのだけど、
もっと、ごちゃごちゃ汚い事を考えているような気がします。

私が読みたかった村上春樹作品は、
「カンガルー日和」ではなくて「風の詩を聴け」だったのですが、
それでもカンガルー日和はおもしろかったです。
短編が抜群に巧くておもしろい。
落語と通ずるものを感じます。
「4月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて」
は村上春樹の短編の中でも一番好きな話かもしれません。
自分にとって100%の異性がいるわけないと思っていても、
どこかでこの物語のようなドラマティックな出会いに憧れているのかもしれません。
そして世の中にはその夢をハナから見てない人か、もしくは諦めている人か、
諦めていない人に分類されるのだと思いました。

2011年3月3日木曜日

くだらないの中に



星野源のファーストシングル「くだらないの中に」聴きました。
めさめさよいですよ、これは。
ミーハー心をくすぐられます。
最近の星野源の活躍には目を見張るものがあり、
GINZAという女性誌でエッセイがスタートすると昨晩のラジオで本人が言っていたのですが、
(これはananで宮崎吐夢と篠崎真紀が連載してたのと繋がってるような気がする。)
「てかGINZAかい!」とツッコミを入れたい気持ちがあるものの、
新しいファン層を獲得しようとがんばっているんだと思うと素直に応援したくなります。
去年の今頃はこれほどまでの盛り上がりはなかったはずなのですが、
1年足らずでどんどん上り詰めていく彼を遠くから眺めていると、
どこまでいくのか見物だな、という好奇心が出てきます。
多分もうライブに行く事はないと思うのだけど、
これからも遠目から見続けていこうと思います。
てか言葉のセンスがあるね。やっぱ。
シンガーソングライターっていいなぁ。
特典のDVDがたのしみです。

昨日、坂井真紀さんがツイートしていた、
立川志らくの「立川流鎖国論」が読みたいので図書館いってきます。
あとなぜか村上春樹の「カンガルー日和」も読みたいので読もうとおもいます。

2011年3月1日火曜日

採用!

U-zhaanさんのホームページで展開されているQ&Aコーナーに採用されました!
しかもピンチヒッターのレイハラカミさんに答えてもらえました!
なんか想像してたより嬉しいので、
ツイッターでのつぶやきだけでは満足できず、
ブログにアップします。

わりと切実な悩みを、
レイハラカミさんがすごい真面目に答えてくれております。
ありがたし。

http://u-zhaan.com/q_and_a/

ぐらり、よろめき、たちくらみ



「海月姫」めちゃくちゃおもしろかったー!
ひさしぶりに、きゅんきゅんした!
てか、作者の実話に基づくあとがきがおもしろすぎる。
東村アキコさんの他の漫画もよみたいなぁ。
アニメにもなってるみたいでして、
今度みてみようー。オープニング曲チャットモンチーだし。
てか、ブロス買ってちゃんと読もうー。

突如、ぐっとなって、涙があふれそうになる瞬間がある。
すごく綺麗なことしか心に浮かばない時間.
そんな時は、神様がやってきてるのだと思っている。
目には見えないけどすぐ近くにいて、
「よしよし」してくれているのだろうと想像する。
そんな風に色んな人のところに行って、
突然人を感動的な気分にさせたりするのが神様の役目なんだろう。
最近そんな気持ちになることがよくあるので、
たぶん私はこれでいいんだという結論に至る。
人間が誰でも持っているであろう、
綺麗な綺麗な部分をいつか私なりに形にしたい。