2011年1月30日日曜日

モザイク

29日(土)
フジテレビの
「サイエンスミステリー2011見えざる禁断の世界〜極限の運命と闘う人々SP〜」
を全部観る。
夕方はTBSでやってた「報道特集」で
全盲ろう人々を観て涙したところだったので、
過酷な運命に立ち向かう人々に意識がいった一日だった。

サッカーを観る。
前半戦集中しすぎて、後半戦からだらける。
延長戦のゴールに「うおー」となる。

30日(日)
兄が参加している雅楽の奉納演奏を観にいく。
兄は衣装と仮面を身につけ『蘭陵王』という舞を踊っていた。
龍笛や篳篥など色々な楽器があるけれど、
笙の音色はぐっとくるものがある。
細野晴臣トリビュートアルバムの中で
坂本龍一が編曲した「風の谷のナウシカ」を思い出す。

帰り、とんでもなく寂れている商店街の中にある、
台湾料理屋に寄って台湾ラーメンとチャーハンのセットを食べる。
電車だったのでビールも飲む。
やはりもの珍しそうにおじさんに見られる。
気にしなきゃいいけどやっぱり気になる。

「全ての犯罪者は病気である」
脈々と受け継いできたもの、環境、性格、
そんなものが重なって犯罪がおきる。

今年のタイコクラブのチケットは早割ですでに購入してあるのだけど、
昨日出演者第一弾が発表された。
石野卓球、七尾旅人、在日ファンク、mumが出演決定。
たのしみだ。

浅川マキのCDに収録されている「少年」がyoutubeにアップされているものと
違っていたのですごくがっかりした。
紙ジャケバージョンに入ってるのかな。

キセルがカバーしてた高田渡の曲なんて曲なんだろう、
ほんとにとてもよかったんだよね。
これは「生活の柄」

2011年1月29日土曜日

音楽温泉

昨日は名古屋のクラブクアトロにて、
キセルとトクマルシューゴのライブを観てきた。
「たのむから“ベガ”やってほしい!」
という密かな願いも虚しく“ベガ”は聴けなかったけど、
“ギンヤンマ”と“ハナレバナレ”が聴けました。
めちゃくちゃ好きな曲ってイントロかかっただけて鳥肌たって泣ける。
高田渡のカバーも素晴らしかった。
全体のアレンジもめちゃくちゃよくて、
「ライブっていいなぁ」と心から実感したライブだった。
キーボードのエマーソン北村さんが最高。
続いてトクマルシューゴのライブもとてもよかった。
彼が創りだす音は「気持ちがいいに決まっている」
という安定感がある。
安心して音に身をまかせていられた。
ベースがサケロックの田中磬で、なんかすごくぴったりだった。
相変わらず髪型も丸っこくてかわいかった。
最後にキセルとトクマルシューゴの3人で創ったという曲を披露していた。
なんだかんだで似た者同士なんだろうなぁ。
物販では本秀康さんデザインのタオルと、
恐竜の描かれたポップな色彩のタオルを買ってしまった。
気がついたら角張社長が呼び込みしてた。

キセルとトクマルシューゴのライブに続いて、
アポロシアターでのTHE SUZANのライブに行こうかと
思っていたのだけど、体力的に無理だった。
そしてキセルとトクマルシューゴの余韻を
消すのが惜しくなってしまったので。
それにしてもアルコールって結構体力消耗する。

カフェでホットワインを飲みながら、
お店に入ってくるカップルを観察したり、
冬の真夜中の名古屋の街中を散策したりして、
結局インターネットカフェに立寄り、
始発まで寝て家に帰った。
夜中の名古屋を歩いたのは楽しかった。
パトカーとか見るとリアル警察24時の気分になったりして。

駅から自宅に帰る途中ものすごく寒くて、
ずっと「寒い寒い寒い寒い」て思ってて、
もはやその単語しか頭の中に出てこない状況だったので、
こういう場合はあえて他のこと考えたほうがよさそうだ、
と思って、とりあえず天気がよかったので青い空などを眺めて、
なんかこう、ぼんやりとしていたら、
犬の散歩している女の人とすれ違ったりして、
みんな精一杯生きてるなぁと、思えてきて、
色んな命が色んな形でこの世にあって、
そのなかのひとつが私で、
ぐちゃぐちゃぐるぐる感じて考えても、
私には何も出来なくて、ほんとうに無力で、
だったらささやかな私の世界を守ることからやればいいんではないかと思い、
とはいえ、ネガティブな感情や、グロテスクな世界を、
私の中から排除したり、何やら過剰に反応するんではなくて、
もっと当たり前に、普通に受け入れて、そこに居て、
それでもいいじゃない、って思えるぐらいに、
大きく大きくなれたらいいなぁ、と思って、
脈々と繋がっている血の流れのことや、
そういうものとは無関係の、
でも確実にリアリティに満ち溢れている世界のことや、
そういうのをひっくるめてなんとかかんとかやっていけるといいなと、
そんな風にゆるくゆるくなっていく感覚がふと湧いてきたのだった。

どうしても許せないことや、排他的なこと、
こだわっていたことや、こうでなくちゃいけないという思い込み、
そんなのを乗り切ってすこしずつ私は私になっていくんだと思う。

駄目なところはきっとずっと駄目なままだろう。
でもだからといって嫌いになることはないだろう。

一旦おもいきり突き放してみて、
はじめてわかる世界というのがある。

残酷すぎるぐらい残酷で、
優しすぎるぐらい優しい。

そろそろ、ゆるゆるといけるといいとおもう。

2011年1月28日金曜日

むきだしの感情

「ハチはあとあと後悔しないように、
むきだしに感情を発散させていた。
今の悲しみを今だけで終わらせるための、
生きたテクニックだった。」


ツイッターのよしもとばななbotがとても好きだ。
よしもとばななの言葉の技術はやはり抜き差しならぬものがある。


増田セバスチャンの「家系図カッター」を読んだ。
すごかった。
彼の世界はリアリティに溢れすぎていた。
そして残酷と愛がきちんと共存していた。
つまり信用できる大人の文章だった。


色んなことが崩壊しているのだ。
ガラガラと音をたてて崩れている。
家庭も、学校も、国も、今までの思い込みじゃ通用しなくなっている。
つまり人間は変化している。
価値観は常に流動的だ。
当たり前は当たり前でなくなる。
新しい当たり前に塗り替えられる。
若者の無差別殺人も、若い母親の育児放棄も、
命の価値がどんどん薄まっていく。
そして今も鶏が何十万羽と殺されている。
犬や猫は捨てられる。
年寄りは家族に疎まれる。
そういうもの全部を覆い隠して、抱腹して、
人間は今日もへいぜんと笑う。


私ももちろん笑う。
楽しいことを、気持ちがいいことを、安心を、求める。
しかし、それが一体なんだというんだろう。
いや、この長い人生を乗り切るにはそういう時間が必要なのも解っている。
きちんと楽しむ。
色々なことを忘れて、私は私であることを楽しむだろう。
しかし、それがなんだというのだろう。
私と他者の境目が無くなることがある。
ぐちゃぐちゃになり、頭の中が混乱し、
私がわからなくなる。
そして透明になる。


言葉はいい。
ゾロゾロと内側から這い出てくる言葉に集中するだけで、
色々なことが昇華していく気がする。
どんな形でもいい。
それが世の中から求められるものでなくても、
とりあえず吐き出す術を持っているだけでも、
その人は恵まれているのだ。
いい音、いい言葉、とにかく創ることに集中できる人間、
そしてそれを求められる人間はそれだけで幸運だといえるだろう。


私は人間のできるだけ多くのパターンを収集する。
どれだけ人間が思い込みで生きているかを知るために。


人がそこに存在しているには必ずバックボーンがある。
脈々と続いている血の流れがある。
色々な人々が色々な思惑で繋いできた血の表現。
血には全ての情報が詰まっていて、
何も語らなくてもその人はその人としてそこに居る。
そして誰かを惹きつけたり、誰かを不快にさせたりしながら、
一生を過ごす。
この血を次に繋げるべきかどうか。
それは血が語りかけてくる。
血が反応していてもたってもいなくなる。
そして繋がった人々は結婚して子を授かるのだ。


自分の血を理解していれば迷うことも突然苦しむこともない。
徹底的に深化させていくことでしか人は救われない。


血が「きみはもうこの血を次ぎに繋げなくてもいいよ」
と語りかけてきたら繋げないだろう。
結構そこがギリギリのような気がする。
まだ不完全な部分や、目覚めていない部分があるから、
それをこの世に表すために次を遺そうとするかもしれないし。


人間の理性では到底追いつかない世界が、
いつだってどうどうと流れていて、
ここぞという瞬間に、ぐっ、とこの世に現れるのだろう。


世界はパラレルワールド。
ひとつじゃない。

2011年1月26日水曜日

人生の入口と出口

今週の金曜日に急遽キセルとトクマルシューゴのライブに
行くことにしました。
チケットがまだ発売中だったので。
その日はTHE SUZANも夜中に名古屋の別の会場でライブするらしくて、
それも行こうかなー、と思っています。
今年初ライブ。しかも2本続けて。久々オールナイト。
始発で帰る予定です。
そういうの久しぶりなのでたのしみです。

兄が葬儀をしたりする仕事をしているので、
今日葬儀した人はどんな死に方だったか、
という話はよくするのだけどやっぱりガンが一番多いらしい。
その次は、心筋梗塞等の心臓系。あと生活習慣病の糖尿病など。
でもやっぱり時々よくわからない死に方をする人がいる。
朝ご飯をいつも通りに食べながら、いつも通り話をして、
「ふー」っと随分大きな溜め息をついたなぁ、
と思って振り返ったら、
茶碗とお箸を持ったまま死んでいた、とか。
カラオケの練習中に死んだ、とか。
朝起きてこないと思ったら布団の中で死んでた、とか。
「いいなぁ」と羨ましくなる死に方が世の中にはある。
心不全と診断されるのはだいたい原因不明の場合に、
つけられるらしい。
浅川マキは昨年、ライブの為訪れていた滞在先のホテルで、
浴槽の中で亡くなっていたのだった。
死因は心不全。
きっとよくわからなかったんだろう。

ちなみに私は人生の入口に居る人たちを眺める仕事をしている。
今日も生まれたての赤ちゃんを写真でたくさんみた。
あと幼稚園や小学生が通う塾に行ったりした。
何の因果かわからないけれど、仕事を通して、
兄は人生の出口付近ばかりを眺めていて、
私は人生の入口付近ばかりを眺めている。

とにかく、全ての人生には入口と出口があって、
いつだって出口に向かっているのだ。
どれだけまだ入り口付近立っているのだとしても、
出口に向かっていつも走っている。
心臓の音は確実に回数を重ねている。
人生から抜け出す時は、すんなり抜け出せるといいなぁ、と思う。
やっぱり痛かったり、苦しかったりは、あんまりしたくない。

巷で話題騒然のジム・オルークが演歌のレッスンを受けている映像↓
恥ずかしそうでなんかかわいい。
これ、自分で応募したんかな。

2011年1月25日火曜日

家系図カッター

今日はひとりで気になっていたラーメン屋に行ってみた。
そしたら女の人がひとりでお店に来たのはよっぽど珍しかったのか、
おじさんに「おねえさん度胸あるねぇ」と言われた。
そして年齢を言ったらものすごく驚かれた。
おじさんには18、9に見えたらしい。
まぁ、そんな身なりはしていたので仕方がない。
でもそういうのあんまり気にしないで、
これからも行きたい場所には行こうと思う。
そういうのを気にして行きたいところに行けないなんて、
なんかすごく嫌だから。
世の女の人がひとりで行動しなさ過ぎなんだろう。きっと。
昨年出会って数時間の人に「おじさんだね!」と言われたのが頭をよぎる。
そう中身はかなりおじさんなのだ。
だからおじさんばかりの職場の方が馴染むのだ。

そういえばこないだ職場で電話をとったら共同通信社の記者だった。
一体なんだろう?と話を聞いてみると、
昨年、育児放棄して2児の子を死なせて逮捕された、
下村早苗容疑者についてだった。
彼女は三重県の四日市出身で、
私がアルバイトしている子育て情報誌に過去にモデルとして
出ていたという情報があるという話だった。
そんな話は一切聞いたことなかったのでその通りに答えた。
電話を切ってからモデル登録を検索したけど、
下村早苗さんはやっぱり居なかった。
こんな電話もかかってくるんだなぁ、と驚いて、
同僚の間でちょっとした話のネタになって、
その話題は通り過ぎていった、ように見えた。

今日、何気なしにインターネットを観ていると、
あるページにたどり着いた。
辛酸なめ子が増田セバスチャンという人に、
インタビューしている記事だった。
http://hari2.booklog.jp/?eid=17
増田セバスチャンという人が『家系図カッター』という本を
出すらしい。しかも明日発売だ。
どんな本だろうとインタビューを読んでみるととてもおもしろい。

90年代文化のリアルなドキュメントであり、
崩壊家庭の当事者のための新しい家族論でもある

と、ある。
しかも第一章が無料で読めたので読んでみた。
http://p.booklog.jp/book/18780
読み進めていくと、どきっ、とした。

「ああ、また会った」

そう下村早苗容疑者と再び遭遇したのだ。
無意識が呼んでいる。
なぜだろう。
でも、なぜかはわかっている気もする。

この増田セバスチャンという人は、
下村早苗容疑者の行動をものすごく冷静に分析している。
それは実際に母親からネグレクト(育児放棄)された者の、
人間に対する深い洞察力だ。
下村早苗容疑者に対する世間一般の嵐のような非難、罵倒、中傷の声が渦巻く中で、
彼のような意見の存在はとても重要であると思う。
第3者の立場で「鬼畜だ」と声高にただ叫ぶのは簡単だ。
しかしそんなことで問題はなんの解決もしない。
その言葉に恐れをなして、
心の闇の問題がもっと隅の方へ隠れいってしまうのではないかと思う。
ひとりの人間の人格が形成されていくには、
様々な外的要因があるのだ。
幼い頃に無意識のうちに受けた心の傷はしっかりと刻み込まれ、
大人になってから意味も解らないままに本人を苦しませる。

人はどうしてもやってしまう何かを背負って生きている。
それをしなくてはいけないような何か。
ある種の使命感と罪悪感が一緒になって、
それを遂行するのだ。

ネグレクトすることと、偉大ななにかを成し遂げることは、
全く違うけれど、実は同じエネルギーでやっている、
という気がする。
人々は常につき動かされている。

増田セバスチャンが書いた『家系図カッター』は、
きっとすごく重要なことが書かれている。
「子どもは作らない」
同じ過ちを繰り返さないためには、
まず家庭を作らないことだ。
脈々と受け継がれてきた何かを断ち切ることで、世界を守る。
そんな世界平和があるだなんて思ってもみなかった。

母親はどこかの宗教の尼になっていて実際に会いにいく映像。
あとがきにかえた動画。お墓に置いた『家系図カッター』の本が生々しい。


ほんとうに色々なことを考えさせられる。

コーリング

「そうか、全部自分が引き寄せてるんだ」
と、思ったら、昔の事などを思い返してみたくなった。

欲しいものはすぐに目の前に現れた。
そしてそれなりの満足感を私に与えてくれた。
そんなことを繰り返して生きている、
ということに気がついた。

一体何に不満を持ったり、
つまらないと毒づいたり、
することがあるだろう。

全てには表があり、裏がある。
光があれば、闇がある。
それで当たり前なのだ。
そんな当たり前のことを無視して、
子どもみたいにダダをこねてばかりだったんだ。

私はちゃんと大人になれるだろうか。

生きている事を受け入れて、
今まで出会ってきたことを受け入れて、
これからの人生を受け入れられるだろうか。

黙って、じっと物事を見据えて、
そっと笑っていられるだろうか。

じわじわと世界を拡大させて、
どっしりとしたひとつの宇宙になれるだろうか。

自分を許して、他人も許せるだろうか。

大きく、静かに息を吸って、
言葉をとめる。

沈黙の間に深まる世界がたしかにある。

ぐん、と濃くなる。

そんな時は言葉なんて要らない。
黙って、ただ目の前に見える景色を体に刻み付けて、
余計なことは考えないで、
ベッドにもぐるのよ。

いったん死んで、朝になったら新しく生き返るの。

2011年1月23日日曜日

ロング・グッバイ

浅川マキの本と浅川マキのDVDを観て、
浅川dayとなった日曜日。

ああ、かっこいいなぁ。

と、溜め息。

もはや松田優作や、マイケル・ジャクソンや、美空ひばり、
エルビス・プレスリー、ジョン・レノン等、
今は亡き数々のスターの一人だ。
そういう類いの人間は死んでやっとその人が完結する、
というのがあると思った。
作品として人類の歴史に刻まれる。
昨年の1月17日に亡くなった浅川マキ。
私は亡くなったときにこの人の存在を知った。
それから1年の間に何度かこの人の気配をどこかで感じて、
ちょうどまた1年経ってから、
きちんと向き合えるタイミングがやっと巡って来た。
水が流れるように私の番がやってきたのだ。
いずれ浅川マキのところを去るときが来るだろう。
そんな風にたくさんの人が浅川マキを通過するのだろう。
私もきっと誰かの通過地点にすぎないのだとおもう。
そう全ての人間は通り過ぎていくものなのだ。

浅川マキと向き合っていると、
浅川マキ越しに色んな人が頭の中に浮かんだ。
捨てきれない情念を大事にしようと思った。
逃げるんじゃなくて立ち向かっていく。
美しく創りあげる。
そういうことをするために生きているのかもしれないと思った。

それと浅川マキの日本語をすごく大事にする姿勢、
言葉のセンスも大好きだ。

ちなみに寺山修司の浅川マキに対するイメージはあまり好きではない。
が、男ってそういうものだと思った。
勝手に想像して理想の女を頭の中で創りあげる。
そして意識的にしろ、無意識にしろ押し付けてくる。
そういう出会いはもういらないなぁ、とおもう。

浅川マキが好きだったビリー・ホリディや、ベッシー・スミス。
女の人が歌うブルース好きだなぁ。
で、やっぱりビリー・ホリディのがタイプだな。









2011年1月22日土曜日

少年

花村萬月氏のエッセイで、過去の女性関係に基づき、
女という生き物を暴いている文章を読んでいたら、
ふと、私も男という生き物を暴きたくなった。
20代もそろそろ終わり、30代も目前だ。
けして多くはない異性との関係を振り返ってみると、
じつにバランスよく色んなタイプと関係していることが判明した。

①暴力男
②大麻男
③才能男
④安定男

これは女が本能的に求めている全てのタイプを網羅していると言えないか。
自分で自分の無意識がおそろしい。
簡単にそれぞれを分析してみようとおもう。

まず①暴力男だ。
この人は暴力がまれにあったが、ものすごく優しかった。
4つのタイプの中で一番優しい男と言っても過言ではない。
暴力と優しさが同時に顕在していた。
きっと暴力をふるう男はだいたい優しいのだとおもう。
そして心が弱い。まるで子どものようなのだ。
母性本能というやつを喚起されてしまい女は離れられない。
男はきっとそれを本能的に知っていて、
うまく使い分けて、離れられないようにしていたのだろう。
実際一番長くそして濃密な時間を過ごした男は暴力男だ。
楽しいことと嫌なことが同じぐらいの濃さで残っている。
一緒に居てヘトヘトになるが、
体力が有り余っている若いうちに付き合うには、
ちょうどいいタイプだった。
結局、私が三重に帰ったことで別れた。

②大麻男。
この男は歳上で妻と子どもがいた。
が、まだまだ遊び足りないような感じで、
大麻をにも手を出していた。
私以外にも遊んでいた相手はいたようで、
中身はちゃらちゃらしていたけれど、
真面目風に見せかけるのも上手かったし、
体を鍛えるなどの趣味もあったのでモテているようだった。
そして、それなりに恋愛に対しての妄想があるので、
その妄想に付き合うことが出来れば関係は簡単に成立するタイプだ。
結局、妻子持ちはモテるのだ。
そして何かを背負っている感を醸し出すのが上手い男で、
ある種の女の心にスルスルと入ってくる。
そういう才能に長けていたといえる。

③才能男。
才能男が言い放った台詞で一番印象的なのはこれだ。
今でも忘れられない。
「他の人とセックスしてもいいって言えないの?」
やはり才能を持つ男はスケールが違う。
そんな男と付き合うためには、
いつなんどき誰とセックスしてもかまわないという感覚でいなくてはならない。
岡本敏子や、オノ・ヨーコばりの寛容さを求められるのだ。
「あんたは、岡本太郎で、ジョン・レノン気取りか!」
とも思ったが、しょうがない。
結局それに見合う才能があったのだから。
しかし、私には他の女とセックスしてもいいよ、
と言ってのけるほどの器量は残念ながらない。
まったく小さい人間なのだ。
はやく岡本敏子や、オノ・ヨーコのような、
ぶっとんだタイプの女の人に出会えるといいね、
と心の底から応援している。
見つかったら私も一目みてみたい。


④安定男。
安定男はただ職業が安定しているだけでなく、趣味がよかった。
話が合う。そしてなんかインテリジェンス(な雰囲気)。
しかも安定している。
完璧だ。不満はない。
本気で結婚とか考えた。
が、しかしなにかが物足りない。
物足りないのが不満だ。
しかも友達がおもしろくない。
どうしてこんなにおもしろくない人たちと付き合えるのか
不思議なほどだ。
私は彼のもとを去った。

と、大雑把に分析したところ、
すごく敵をつくる内容となった。
これは破壊願望だ。
これまでの人間関係なんてどうでもいいと、
思ってしまっている。
まずい。どうなるんだ私。
でもやめられない。
ああ、人間ておそろしい。

とはいえ、それぞれみんなを好きでした。
今もちゃんと好きです。
私のその時の欲望を満たしてくれた人たちだった。
私の人生に現れてくれてありがとうと、
心の底から感謝している。

こんな調子でまだ誰かに出会うのかもしれないし、
もしかしたらもう誰にも出会わないのかもしれない。
どちらでもいい、と思う。

浅川マキの「少年」を聴きながら、そう思う。

夕暮れの風がほほをなぜる
いつもの店に行くのさ


仲のいい友達も少しは出来て
そう捨てたもんじゃない


さして大きな出来事もなく
あの人はいつだって優しいよ


どこで暮らしても同じだろうと
私はおもっているのさ


なのにどうしてか知らない
こんなに切なくなって


街で一番高い丘にかけてく頃は
ほんとに泣きたいぐらいだよ


真っ赤な夕日に船がでてゆく
私の心になにがある

〈おもふ〉こと

花村萬月の「愛は、むずかしい」を読む。
花村萬月という人は、色々解っている人だと思う。
ほんとうにいろいろ。
実際に色々な人に巡り会い、
色々な経験をして、色々感じた実感から産まれた言葉だらけだ。
ただ本を読み、人の経験を自分の経験みたいに感じて、
考えることとはまるで違うことだ。

自分が表面的に取り繕いたい世界と、
自分がほんとうに求めていることは、おもいきり違う、
というようなことを思う。
自分よりも他人のほうがわかっていたりする。
色んなことが混濁して世界はいつまでたっても謎のままだけど、
それでも少しずつ剥がれていくものがある。

生きれば生きるほどに人生の核心に迫る。

そうであってほしい、と思う。

愛はおもうこと。
おもうことは愛だ。
おもうことからしか何も産まれないし始まらない。

そんなことを滔々おもう。

2011年1月21日金曜日

時代と呼吸するつもりはない

不気味に近づいてくる存在といえば、
花村萬月ともう一人、
浅川マキがいる。

で、おもうのだ。
「なんだ結局ブルースなのか」と。

憂鬱にも色んな次元の憂鬱があるのだとおもう。
「明日学校いきたくないなー」とか、
「友達できないなー」とか、
「同じことの繰り返しじゃねぇかよー」とか、
私が今思いつく限りの憂鬱はそんなとこだけど、
その憂鬱の感じ方、表し方は無尽蔵にあるのだと思う。

憂鬱のカタルシス。
憂鬱の世界を押さえ込んで、
例えば何かの宗教に走って世界を固定してしまうのではなくて、
哲学的な思考回路を持ってバサバサと無味乾燥に切っていって、
安易な答えを求めるでなくて、
それそのものを味わおうではないか、という気持ちがある。
実はそんなことをするのがちょっと嫌な気持ちもある。
そんな風に間を行ったり来たりしていたのだけど、
こちらの世界を許容量をぐっ、と広げると、
どちらの世界も同時に共存できるようになる。
多分、それが成長ということで、大人になるということなんだと思っている。

憂鬱を避けるのではく、憂鬱にフタをするんではなく、
憂鬱を味わうこと。
徹底された美意識のもとで。
それを実行したのが浅川マキという人、なのではないかと思う。
そんなわけで私にとって花村萬月と、浅川マキは、
2011年前半に研究すべき対象となった。

人生とは自分では思ってもみない方向に転がる瞬間が、
一番の醍醐味だと言える。





野良猫論

ネットで拾ったネコ画像
正月に小学生女子と高校生男子とアラサー女子(わたし)
の3人で話をする機会があり、
猫の飼い方についての話になった。
私が猫を外で飼っているというと、
「かわいそう」
「ほんとに飼っているといえるのか?」
「猫は家の中で飼うものだ」
と責められ、1対2の劣勢となった。

確かに家で飼っている猫はキレイだし、
なんかふわふわしてるし、ぬいぐるみみたいにしている。
それはそれで幸せなんだろう、と思う。
交通事故にあって死ぬ心配もないし、
他の猫と喧嘩して怪我を負う恐れもない。
メリットばかりのようにも思える。

しかし、だからと言って外で暮らす猫が不幸せと言えるだろうか?
確かに事故や喧嘩、縄張り争いなど危険もたくさんあるし、
草の実を体中にくっ付けて、白い毛も汚れている。
冬は寒いし、夏は暑い。
それでも外で暮らす猫には限りない自由がある。
好きなところで日向ぼっこをして、
虫や鳥を追いかけ、木に登り、
好きな時に帰ってきて、好きな時に寝る。
猫の生き方は太古の昔からそういうものだったはずだ。
いや、本当は人間だってそういう風に生きていてはずなのだ。
(そうですよね?水木先生)

たしかに車がたくさん走る街中で猫を外で飼うのは確かに危険だと思う。
しかし、車がたくさん走る世の中にしたのは人間だ。
外で自由に暮らしにくい世界を創ったのは人間なのだ。
そのことに言及しないで「猫を外で飼うのはかわいそう」なんて、
もってのほかだ。

そもそも家で飼ってる猫は、実際に幸せだとおもっているのか?
人間に気を使って幸せそうなふりをしているのではないか?
「猫と暮らすわたし」に酔う人間に合わせてくれているのではないか?

そんなことをもんもん考えていると、
窓の外で猫が「にゃーん」と鳴いてエサをせがんでいる。

まぁ、猫を家の中で飼わないのは、
一回外に行った猫が家の中に入ってくるのは、
衛生的に問題がある、という人間側の都合だったりもするから勝手なもんだ。

2011年1月19日水曜日

レッツ退会

20歳ぐらいからやっていたmixiを退会した。
毎日のぞいて、他人の日記をチェックして、
なんかもやもやして、というのを繰り返していて、
そういうのが嫌になったので、退会することにした。
「見たくないのなら、見なければいい」
だけなのだけど、どうしてもクセみたいに覗きにいってしまう。
他人の日記を読んだら、
揚げ足取るみたいなことをしたくなってしまうし、
でも、そんなことをしたって誰も幸せになれないから、
私から去ることにした。

なるべく人に会わない生活がしたいと思う。
限られた人と限られた時間を過ごしたい。
そんな内省的な気持ちが強まっている。

そんなことを考えていたら、
こんな言葉がツイートされていた。

人間関係は自分自身を映し出す鏡である。
わたしたちが招き寄せるものは、わたしたち自身の信念を映し出している。
上司、同僚、従業員、友だち、恋人、配偶者、子どもなど、誰でもそうだ。


もし、彼らの中にあなたが好きになれない部分があるならば、 
自分に対する思い込みを、彼らの中に見出だしているからなのである。
 すべての基準は「自分」なのだ。


彼らの存在があなたの人生を補うものでなければ、
 彼らを招き寄せることもなく、
関係を持つこともなかっただろう。


なるほどなー、と。
私は他人が嫌いになることが多い。
でもそれはその人そのものと見せかけて、
実は自分の心のある部分が浮き彫りになるので、
それが不快なんだと思った。
むきーっとなる。


自分の好きなところも、嫌なところも見せてくれるのが他人だ。
私の心の有りようで全てが変化していく。
私の心が変われば、周りの世界も変化する。
そんなものなのだろう。


これまで出会った人たちに心からの感謝をしながら、
私はなるべく誰とも知り合わないで、
ひっそりと生きていきたいと思う。

2011年1月18日火曜日

収集癖について

何かを集めるという行為は、
自分の足りない部分を埋めようとする作用が大きい気がする。
大きく見せたり、強く見せたり、
そんな風に見られたいという気持ちであったり。
そういうもので武装しなくちゃいけないその気持ちが切ない。

いや、ただの嗜好であって、
そんなに深く考えることでもないのかもしれないが、
私はどうしてもそんな風にみえてしまう。
ましてや、そんなことを暴露しなくてもいいのではないかとも考えるが、
私は言いたくなる。
ものすごい苛立ちと共に。
なんでだろう。
やっぱりすごく性格が悪いという結論に至る。

というか、馬鹿なのが嫌なのだ。
しかし世の中は馬鹿な女がモテるのだ。
友好な人間関係に洞察力とか必要ないのだ。
他人を分析とかしてる人間は駄目なのだ。
それも、こっそり自分の中で終わらせればよいものを、
発表したくなるから、たちが悪い。
こんな風にして友達が減っていくんだろう。
もはや自ら友達をなくしていってる感もある。
どうしてだろう。
こんなに友達がほしいのに。

いや、これは欲しくないのかもな、本気で。
中途半端な馴れ合いとか嫌いだしな。
遠くの友達の方が仲がいいのが、
何かを物語っている気がする。

ソーシャル・ネットワーク



もともと全然観る気はなかったのですが、
4時間ぐらい外でヒマをつぶすことになり、
「ソーシャルネットワーク」を映画館で観た。

一人の人間の頭の中で革新的なアイデアが産まれたときの興奮や、
そこに人間が集まってきてどんどんエネルギーが膨らんでいく様相や
そのエネルギーの強さにやられて、
人間の弱さや醜さが露呈されていく感じが、
とてもよく描かれていた。
全ては人間の頭の中で何かと何かが繋がって、
爆発的なエネルギーが産まれ新しいものが創造される。
生きていてそんな事が自分に起きる事ほど楽しいことはないように思う。

そう考えるとアイデアが全てだ。
なにかおもしろい事はできないかと、
頭の中を開きっぱなしにしている事が重要だ。
子どもみたいに常にわくわく出来たらどんなにいいだろう。

人間関係に悩んだり、他人に嫉妬したり、憎んだり、
うすっぺらい恋愛をしている場合じゃない。
純粋におもしろい事や、可能性を追い求める人間だけが、
手に入れる事の出来る何かがあるんだと思う。
必要なのものは強さであり、真っすぐさであり、賢さだろう。

という、とても前向きな気持ちになれた。
ああいう時代を動かすほどの大きなエネルギーの前では、
ほとんどの人間は正気でいられなくなるものなのかもしれない。

ちなみに、ちょいちょい小道具で出てくる、
マウンテンデューがかなり気になり、
そんなことで主人公マーク・ザッカーバーグ役の、
ジェシー・アイゼンバーグに好感がもてた。

本物のマーク・ザッカーバーグのインタヴュー↓
映画観た人は観たほうがいい。
本物は精神がすごく真っすぐそうだし強そう。
26歳かぁ。すごいな。

疑うこと

「信じるものは救われるのは、当然である。
なぜなら救われたくて信じるからである。
したがって、信じないものが救われないのも当然である。
そのような仕方で救われることを、拒否するからである。」
と、言うのは池田晶子さん。

人の精神てやつは複雑だなぁ、とほとほと思う。
ぐちゃぐちゃの迷路。
こういう角度の視線もあれば、斜め45度ぐらいからの角度の視線もあり、
3,2㎝上からの視線もあれば、真後ろからの視線もある。
ほんとにいろんな世界が錯綜している。
そんなものをいっぺんに感知して把握しようなんてことをしたら、
頭の中で液状化現象が起きて、
「ああ、今日もいい天気だなぁ」
なんてことしか浮かばなくなるから残念な話だ。

「なんであの人はあんなに物事を斜に捉えて考えるんだろう」
と、思ったのだけど、
それはブルースを愛しているからだということに気がつく。
今までブルースのことを深く考えたこともない人間が、
ブルースについて語るなんて、
ブルース愛好家にとっては虫酸が走るほどに
腹立たしいことかもしれないけれど、まぁご勘弁を。

ブルースって言うのは、日常の幸せなことや憂鬱を歌うこと、
なんだそうで、
「なるほど、常に憂鬱ありきなんだ」
ということに気がつく。
憂鬱がなければブルースは成立しない。
つまりどれほど幸せであっても常に憂鬱を探し求める。
「はぁ、人生なんてさ」と、いつも憂鬱。
ささいな幸せと憂鬱の間を常に行ったり来たりするのが、ブルース。
つまり、そういうスタイル、そういうジャンル、
そういうひとつの思想と言える。
常に煮え切らない態度なのが当たり前。

どれだけスコーンと抜けていく思想があっても、
「いや、これはなにか疑わしい」
と、斜に捉えるのがブルース。
ブルースはある種の人間の心の落ち着きどころ。
死ぬまで、日常のささいな幸せと、憂鬱の間を行ったり来たりして、
「はぁ」
というのがスタイル。
ブルースを信仰するとはそういうことだ。

お父さんのところで働いている水夫の一人で、
どうしようもない怠け者がいる。
奥さんの手前、かろうじて家は出るが、
仕事をさぼって数時間車の中にいる。
そしてなんの変哲もない顔をして家に帰る。
こないだ、その事が奥さんにバレてしまったらしいが、
お父さんは大笑いしている。
「働くのは辛いもんなぁ」と。
ブルースでも聴かせてあげたいけれど、
多分なにがいいのかよく解らないだろう。

音楽を作るのも才能が居るが、
聴く方にも、作り手の才能をキャッチする才能が必要なのだ。

人類の補完

他人と比べる病がある。
そのためにずっと心が浮かばないという、
つまらない病。

昨日母親とテレビを観ていたら、
私と同じ年齢の女の子が出てきて、
中国で野心を持ってバリバリ働いているという映像が流れた。
母親はすかさず、
「頭が違うと随分違うね」
と、私とその女の子を比べた。
はっとした。
これまでずっと母親はそんな風にして私と他の誰かを比べて、
がっかりしてきたのだと。
そしてそれをポツリと吐露して、本人にぶつけてきた。
ましてや家族以外の人間とほとんど関わりを持たない母親は、
テレビに出てくる人間と比べるしかない。
母親の無意識の心のクセが、私にも染み付いていて、
時々どうしようもない劣等感に苦しんでいるのだと思った。

どうしたらもっと大きくなれるだろう、と考える。
俗物的な思考回路を持った人間に巻き込まれたり、
真っ向から対決したり、相手を変えようとか、
それは間違っていると言及したりするのではなくて、
「ああ、そうだね」と大きな心で受け止めて、
なにも気にしないようにする為には、
自分自身を鍛える努力をするしかない。
もちろん「ひりっ」とした感触は残るけれど、
その感触に執着するんではなくて、
受け流すことを覚えなくてはいけない。
そのためには、うやむやにごまかすのではなくて、
一度きちんと物事を整理しなくてはならない。
きっと人間は色々な情報を受け取り、
編集加工をしてどんどん処理していくのだと思うけれど、
その仕方で随分人生の質は変わってくるのだと思うから。

2011年1月16日日曜日

近づいて遠ざかっていったもの

近づいたり、近づいてきたりして、
今では遠ざかってしまったものがたくさんある。
どうして私はあの時近づいたのだろう。
ずっと仲良しでいられると思ったから近づいたのに、
全然ずっと仲良しでいられなかった。
時間がたつと私の居場所が想像できなかった。
どうしてだろう。

そんな風にして他人をざっくり傷つけて、
自分も擦り傷程度に傷ついて、
遠ざかったのは私の方なのに、
ちっとも寂しくないと思っていたのに、
今はなんだか少し寂しい。
寂しいけれど、再び近づくことはない。
どうしてだろう。

やっぱり時々会って普通に話ができる友達は、
私にとってとても貴重なのだ、ということに気がつく。
そんな存在をたくさん作ることはできない。

そして全ての人間と距離が必要だ。
昔は週3日恋人と会ってないと駄目な時期もあったのに、
今ではそんな生活想像できない。

きっとそれなりに会話が楽しくて、
体の相性がよくて、私を求めてくれる人だったら、
誰でもいいのだけど、
思いのほかそんな人はどこにもいない。
少なくとも今のところは感知していない。

恋人は居たら儲けものだけど、
居ないからといって困るものでもない。

他人に興味を持って、近づいてみて、どんな感じか試してみて、
居心地がよれば、そのままくっついたままでいたり、
居心地が悪ければ、再び離れたりする。

たとえ離れてしまってもエネルギーを交感したときの感触は、
ずっと忘れないでいつまでも体のどこかに残っている。

出会う前と出会った後では、
外見は何も変わっていないように見えても、
中身はきっと何かが決定的に変わってしまっているのだと思う。

そんな風にして私たちは次の世界へと運ばれていく。
人と人の間にも入学とか卒業があるのかもしれない。

そう考える死ぬまで他人に入学しっぱなしの結婚なんてものは、
本当に奥深い行為だとおもう。

直感知

ひさしぶりに手塚治虫の漫画を読む。
「MW」(ムウ)という漫画なのだけど、
なかなかおもしろかった。
しかも一巻の最後に書かれていたエッセイが、
花村萬月のもので、最近やたらと花村萬月の話を周囲で聴いて、
なんだか、音もなく近づいてきていて不気味。
不気味とか言いつつ、そのエッセイが秀逸でおもしろかった。
漫画そのものよりもおもしろかったかもしれない。

二元論的思考の限界について書いてあった。
善と悪、男と女、天と地、醜と美。
全てにそういった思考回路が組み込まれていて、
そしてそれは解りやすく単純で流されやすくなっている。
しかしいつまでたってもその間を右往左往しているのも、
やがて虚しくなる。
それらの垣根を超えた先の世界をみる。

全ては単なる嗜好の問題であると思う。
何かを選ぶのも、何かを捨てるのも、
私たちは嗜好を基準にしている。

こないだ引いたおみくじの内容がよかった。

人間は明らかに考えるために作られている。
それは彼の全品位であり、彼の全価値である。

社会人スキル


人に何かをお願いするために電話をかけたら、
完全にビジネスの対応で、こちらにはそのようなカードの持ち合わせも、
準備もなく、説明する際に思い切りあわあわしてしまい、
とても恥ずかしかった、という思いをした。
改めてメールをする際に、自分が持っている限りの、
社会人スキルをアピールしようと、
必死で自分なりに色々と装飾してメールを送信した。
(が、それもあんまりの出来映え。)
社会人スキルが絶望的に備わっていないことに数時間落ち込んだが、
数時間したら「ま、いいか」となった。
たぶんそれが私の最大の弱点であり、強みでもあるだろう。

久々の「お店やりたい症候群」でまず店名を考えていた。
いろいろ考えては消えていったけれど、
今のところcommune(コミューン)が有力候補。
実は下北沢にあるギャラリーの名前で、
他人の店の名前をパクるなんてどうかしているが、
意味的にもローマ字の綴り的にも声に出した感じも完璧なので。
他にいいのが思いついたらそっちにするつもり。
そういえば人から「ナラクノソコ」という店名を薦められたときもあったな。
インパクトはある。
そして「ツチノコ」とちょっと似ている。

2011年1月14日金曜日

つまんね

「神聖かまってちゃんと、Chim↑Pomは同じ匂いがする。」
と、わりかし前から思っていたことを思い出した。

私は週3日で働いている仕事をしばらくしたら辞めようと考えている。
それを紹介して頂いた同じ職場の方に伝えると、
「そっかぁ、君が居なくなったらつまらなくなるなぁ。」
と、言われる。
私はこう思った。
「あなたを楽しませるために生きているわけではない。」
本当にそう思った。

以前、職場の人を軽く飲みに誘ったらこう返ってきた。
「え、誘ってくれるの?」
なんだその返しは。
本当に苛立たしい。

傲慢だろうが、身の程知らずだろうが、
つまらないものは、つまらない。

そして、さらに畳み掛けるようにこんな情報が耳に入る。

「国道沿いに建設中の大きな施設、
あそこには、ニトリとかユニクロとかCOCO壱番屋が入るらしいよ。」

「は!!?」

ニトリもユニクロもCOCO壱番屋もすでにこの街にある。
それをさらに大きな施設をおっ建ててそこにひとつにまとめよう、
という魂胆らしいが、この街の一部の大人達は本当に死んでいると悟った瞬間。

そういう事をしたらますます若者が都会に逃げ出したくなる現実を、
彼らは知らないのだろうか。
もちろんよかれと思って実行している事だ。
きっとこの街で売り上げがいいのが、その3店舗なのだろう。

そしてこの現実に大した苛立ちも覚えず、
受け流していく多くの若者、と元若者たち。
ああ。

もちろんイライラしたってなにも始まらないのは解っているいるけど、
それでもイライラぐらいしたっていいだろう。

まさしく、「つまんね」だ。
山本直樹や浅野にいおの漫画でも読んで、
この想いをマスターベーションするしかないのか。
ああ、無力だ。無力過ぎる自分が情けな過ぎる。
つまらないのはこの街でも、この街に住んでいる人でもない。
たったひとり、自分なのだ。

2011年1月12日水曜日

風呂ロック

風呂ロックが終わってしまうらしい。
一度も行ったことはないけれど、
毎回素敵なアーティストを呼んでイベントをしていて、
かなり気になる存在ではあった。
ブログを読んだらとてもいいエネルギーがもらえた気がした。

「生の音楽を聴いてもらう場所を創るということ」

そのことにかける有意義さを教えてもらった気がした。

色んな人がいて、色んな方向を見ていて、
そんな他人が見ているものに惑わされずに、
私がこの場所で、一生懸命この方向を、
向き続ける事が大事なんだと思った。
人は人がしたいようにするだけだから、
私は私がしたいようにすればいいのだ。

と、いちいち自分で自分に呪文をかけなくちゃいけないぐらい、
意思が弱いんだろうなぁ。

http://furorock.com/index.html

根拠のない使命感

ラーメン+チャーハンセット 650円
自分がどうしようもなく無力である事を痛感している。
せっかくアーティストが、わざわざ三重県の、
しかもある意味、本州の辺境とも言える伊勢の方までやってきて、
ライブがしたいと言ってくれているのに、
この辺にはほんとうにライブが出来る場所がない。
「いや、どこかあるはずだろう」と思って考えるのだけど、
どこもかしこも、難あり。

まず場所がないとライブが出来ない。
つまりアーティストを呼ぶ事が出来ない。
というとても単純な問題がある。
もちろんライブハウスなどはあるが、
そういうところではなくて、もっと気軽に、
ライブが出来る場所、例えばカフェであったり、
空きスペースのようなところを考えるのだけど、ない。

私はときどき「お店を開きたい症候群」になることがある。
これまで3回ぐらいはかかっている。
しかしだいたい週数間でおさまる。
気がどこか違う方向に向かうのだ.
そして今また「お店を開きたい症候群」にかかっているのだけど、
前とは少し違う構想になっている。

以前は伊勢市内にお店を開きたいと考えていた。
人もそれなりに多いし、伊勢というネームバリューもある。
しかし今は私が住んでいる町、明和町で開きたいと思う。
伊勢は確かに伊勢神宮があり、それなりに知られているけれど、
まさしく伊勢には伊勢神宮しかなく、
伊勢神宮に頼りすぎているという面がある。
しかも昨今のスピリチュアルスポットブームで
かなり調子にのっていて、駐車場を有料化にしだす始末。
一方明和町はというと、なにもない。
ほとんど田んぼだ。田んぼしかないと言っても過言ではない。
しかし斎宮という場所がある。
私はこの斎宮という場所の歴史をわりと気に入っている。
伊勢神宮とも密接に関係しているのだけど、
まぁとても簡単に言うと、代々天皇家の女性がこの土地にやってきて、
毎日、儀式とお祈りをして暮らしていた場所なのだ。
その場面を想像するだけでとても清らかな気分になる。
伊勢神宮には全国から人がわんさか集まるので、
それを目当てに金儲けしたい人々も群がっていて、
実に世俗的な世界が繰り広げられている。
少しギスギス、ドロドロしたイメージがある。
一方、熊野霊山あったり、斎宮という場所は、
何百年も前から人が自然を信仰したり、国家の平和を祈ったりする精神が、
空気中に静かにたたずんでいる。
私はそういうものを感じることが好きなのだ。

なんだか話がそれたけれど、そんなわけで、
私は明和町にある空気感を利用して、
時々ライブが行えるような場所があったらいいなー
と妄想している。
そもそも明和町は、伊勢市と松阪市に挟まれた場所にあるので、
どちらの市に住む人もアクセスしやすいという利点がある。
それを利用しない手はない。
ああ、妄想がぐんぐん広がるなぁ。

結局、他の誰もそんなことはしないのである。
「お店をしたい」という人はいくらでもいるけれど、
その人はお店を開く以外のことを背負っていて、
それをきちんと遂行することに忙しく、実現には至らない。
それは仕方のない事なのだ。

「誰かやってくれないかなぁ」なんて言ってる若者が一番情けない。
だからそんなことは絶対に言いたくない。
願望というよりも、欲望というよりも、
根拠のない使命感でしか、世界は着実に動かないのだと思う。

2011年1月11日火曜日

マジックアワー

AM6:32
日の出前が美しい、1月の早朝。
はっ、とする空のグラデーション。
毎日地球上でこんな光景が繰り広げられているなんて、
宇宙ってやつはほんとに太っ腹だ。

ここのところ考えていたこと。
「他人の底」
「寛容の心」
「否定する事と感謝する事の間にある葛藤のようなもの」
「近未来の想像」
「地元の文化的向上における思考錯誤」
「それぞれが背負っている人生」
「生活に飲まれていく男達」
「言い訳ばかりする男達」
「つまり情けない男達」
「実力の不足」
「憂い、怒ることも忘れた若者」
「私をコントロールしようとする他者の意思に対する嫌悪感」
などなど。

色々な感覚が私の中に産まれて通り過ぎていった。
そいつをいちいち掴まえて出来る限り言葉で出してやりたいのだけど、
まだ形にならない、もやっとした塊のようなものなので、
掴まえることも出来ない。
「そのまま日の目も知らずに死んでいくのかしら」
と思うとたまらない気持ちにもなるが、
きっと彼らはまた私の中、もしくは他の誰かの中にやってきて、
何かを感じさせるのだろう。
その時は、きちんと掴まえて、抱きしめてやろうと思う。
世界は何度でも現れて何度でも死んでゆくのだ。
私の肉体がいずれ滅びようと。

石橋英子の新しいアルバムを聴く。
インタヴューでも答えていたように、
「自分の中にある世界を大事する気持ちが大事」
というのがとても伝わってくる作品。
他人の中にはない世界を、自分で創りだすこと。
丁寧に、クオリティにこだわって創り込んでいくことの、
そこにある精神性に私たちは感動して、心を打たれるのだ。
その事を一度味わうと、他人を頼らなくなるし、
他人に対しても、そんなに雑な対応はしなくなる。
日本人が「ものづくり」に特化しているのは、
きっと何かを追求していくことの精神性の美しさ、
そして単純に楽しさを多くの人々が共有しているからなのではないか
と思った。

2011年1月8日土曜日

幸福という能力

池田晶子という人の「残酷人生論」という本を、
いつも手に取れる場所に置いてある。
もう2冊ぐらい買って、車に一冊、鞄に一冊あってもいいぐらいだ。
今日も持て余した時間に本を手に取り、
パラパラとめくっていた。
その中でもこの一文が目に留まる。

幸福とは、要するに、なんでもいいのである


人はなんでもいいとは思わない。
だいたいあれが欲しい、ああなりたい、こうしたい、
と願望や欲望がある。
それが手に入れられないと不幸だとおもう。
その思考回路こそが不幸の源だ、という事に気がついていない。
人は「向上心」であるとか「成長」だとかいう言葉を信じて、
その上、欲望と願望を絡み合わせて物事を考える。
それが悪いとは言わない。
そういう人間が世の中ほとんどで、
ましてやそういうスタイルを軸としている人間がいなければ、
この世のほとんどが無意味なものとなってしまい、
味気ないものとなってしまうだろう。
しかし世の中には本当に色んな人が居るもので、
そういう当たり前の世界が全く通用しない人間が
稀に産まれるのだ。
そういう人間が産まれることで、
当たり前だと信じていた世界が当たり前でなくなり、
新しい世界がじわりじわりと広がっていく。
長年の違和感が文章によって解けていく。
まるで魔法みたいに。


「残酷人生論」というこの本。
残酷の反対は優しさで、優しさの反対は残酷だ。
つまり、優しさは残酷にもなりうるし、
残酷なことが優しさにもなりうる。
優しさと残酷は常に一緒にそこにある。
どこまでも孤独でどこまでも自由、
とてつもなく残酷でとてつもなく優しい。
生ていることと死んでいくこと。
この本はまさしくそういう本だ。


ところで、努力とは、必ず苦しいものである。
楽な努力、そんなものはない。
楽なことは、たんに楽なのであって、そこに努力は伴っていない。
善くなるための努力は、必ず苦しいものである。
しかし、善くなることは幸福になることなのだから、
これをつづめて言うと、
善く苦しむ
苦しみは喜びである
幸福とは、これである。
そして、これ以外の何かではあり得ない。


これを書いていて、なんと多様な精神だろう、と思う。
あちらこちらに点在して、しかも同時にたくさんそこにあって、
世界はめまぐるしく動く。
しかし、人はそんな風に存在しているのものなのだ。
大雑把に捉えようとするから、
訳の分からないことになる。
最初からひとつに定まることのない構造なのだと知っていれば、
より自由になるし、自己矛盾に苦しむこともない。
ほどほどの適当さと寛容さが世界を救うのだ。
もちろん世界というのはworldではない。
一人一人の内側にある世界のこと。
つまりをworldを形成している元素のようなものだ。

のびのび組の黒ひょう

ふと「動物占いしたいな」と思ったので、
(そんな瞬間が人生であと何回あるだろう。)
グーグルで検索をしてみた。
色々な動物占いがあったので、
色々試してみたところ、
これはまぁ当たってるかなと思えるやつを抜粋。

「のびのび組の黒ひょう」
■自然と人が集まる世話好きな人


外見のスマートさとは異なり、ゆったりとした話し方をする人。
無理をしない、のんびりとした人生を送るタイプ。
内面には情熱が秘められていて、じぶんの心を偽らず、
ありのままに進んでいく純粋さが魅力となっている。


「無理をしない」、「のんびりとした人生を送る」
とかは当たっていると思う。
あと「自然と人が集まる世話好きな人」
というのも確かに、というかんじ。
やはりこれからも気まぐれにどこかでだれかの世話をしながら、
自由気ままに生きていくんだと思った。
興味がある人はどうぞ。
http://www.magical-index.com/public/check/index.php

その次に「エジプト守護動物占い」
これがかなり「あー」という部分があり納得。
特に短所がズバリ。

あなたの守護動物は「ネコ」です。


【長所】
このタイプの長所は、思いやりがあって、
さり気ない気遣いがてきるということ。
ヒョウのように華やかではありませんが、
出しゃばったり目立とうとするようなことがなく控えめで、
誰からも好感が持たれる存在です。
 元々ネコは、直感力があり、感受性が強い動物。
この性質を受け継いだあなたも、鋭い直感力を持っていることでしょう。
人々の気持ちを敏感に察知することができ、
その場にあった楽しい雰囲気を作り出したり、
人々を楽しませたりすることが得意なはず。
 また、大勢の人の中でも、うまくやっていくネコですが、
群れることはなく孤独を愛するようなところもあります。
ひとりぼっちの時でも、寂しいなんて思ったりしないで、
自分のペースで時を過ごしていけるのがネコの習性です。


【短所】
多産の神ということもあって、母性が強いのもこのタイプならでは。
あなたは人に対して、守ってあげようとか、サポートしてあげよう、
という気持ちがあります。
してもらうことを求めるのではなく、人になにかをしてあげたい、
尽くしてあげたいと思うのがネコらしさ。
 そして、誰にでも優しく接してあげます。
ただし、自分の気持ちが乱れてしまうと態度が一変することも。
感受性が豊かでデリケートなネコは、なにかの拍子に、
傷つきそうだ な、と察知すると、
それを避けるために途端に離れていってしまうことがあります。
 自分なりの訳はあるけれど、
自分の気持ちを人にぶつけたりしないので周囲の人は理解できずに惑わされて、
きまぐれ、と思われることもしばしばです。
 また、控えめで遠慮がちなあなたは、
どうしても一歩引いた存在になりがち。
ここぞというときに押しが足りなくて、
幸運をつかみ損ねるなんて事もあります。
時には、自分を主張することも忘れずに。


http://www.geocities.jp/egypt417/
誰にでも優しくしたい気持ちが強いのとか絶対そう。
自分の心が乱れると態度が一変するのも当たってる。
「これからいつもこんな気持ちなって傷つくんだ」
と思ったらすぐに逃げだしたくなる。
確かに常に守りに入っているなー。
誰かのサポートをしながら守りの人生かー、
まぁ、それも悪くないな。


目標を持って突き進む人間をみて、
焦ったり、悩んだり、くよくよしたり、
自分はどうしてどこかに強く行かないのかと思ったりもしたけど、
そういう人間なのだということがよくわかった。近頃。
今年はどんどん内側の世界を強化する事を目標にしよう。
いい意味での引きこもりでありたい。

2011年1月7日金曜日

男子になりたい

小学校2年生の女の子のクラスでは、
男の子になりたい子が5人ぐらいいるらしい。

びっくりした反面ああやっぱなーという気持ちもある。
とはいえ、女の子という生き物の魅力も捨て難いものがあるのも、
よく知っている。
やっぱり私は女の子であるので、
女の子の楽しみもあるのも事実だ。
でも、魅力的な女の子をよくよく見ていくと、
嫌な部分が目につき、うんざりしてしまう事がある。
そしてその嫌な部分は男の子には解らないようになっているのが、
腹立たしい。
私だって男の子だったら好きになれるだろうなー
と思える女の子はたくさんいる。
でも、残念ながら私は同じ女の子なので、
どうしても見えてしまう感じてしまう世界があるのだ。

はーめんどくさい。

ま、私は私なりの世界を追求していくだけども。
「そうはなりたくない」
を感じ取って反面教師にするだけだ。

星野源×エロ

星野源が毎週水曜日にラジオを始めた。
テーマはエロだ。
エロ×星野源という、
星野源ファンの妄想系女子達にはたまらない番組内容だ。
わかってるなー大人計画。
今週のテーマは、
「エロい妄想しちゃだめですか?」で、
来週のテーマが、
「男と女どっちがエロい?」だ。
しかし不思議なことに、星野源がエロについて語っても、
まったくエロくない。
実にさわやかなのだ。
男子独特のいやらしさのようなものが全くない。
なんだあの魔法は。
多分ああいうのに女子達はやられてしまうんだろう。
星野源の天然のさわかやさを前にすると、
すべての女が本能的に持つ汚さに嫌気がさす。
ほんと女は汚れてるよ。
変な女に惑わされることなく、
ピカピカのまま突っ走って欲しい。
がんばれ星野源。

断捨離と寛容

「断捨離」という言葉が流行っているようで。
身の回りにあるヒト・モノ・コトで自分に必要なものと
そうでないものを判断して人生の新陳代謝を促すというもの、らしい。

「寛容」という言葉も気になっている。
私はわりと寛容な方だと思っていたのだけど、
そうではない瞬間が多々ある。
自分の心の拒絶反応が出て、全面的に嫌になるのだ。
アレルギーかのように側に寄れない、
声を聞いただけで虫酸が走る、等、
人間と人間同士はなかなか難しい。

この宇宙という仕組みがどうなっているか知らないけど、
人と人は出会う。
何かを思ったり、何かを感じたりする。
私たちはずっと手を伸ばしていて、
どこかに繋がる。

言葉は所詮言葉だな、と思う.
ぐっと一点を凝視し続けると他が見えなくなる。
必死になって探していると見つからないのに、
ふっ、と力を抜くとちょっと浮いて、
また違う世界が見えて、探していたものも簡単に見つけることができる。
何事もリラックスした気持ちというのは大事なのだと思う。

とても客観的に見える。
ああ、真っ最中の時、一方的に思ってる時って、
こういう風になっちゃうんだな、と。
本人は見えているように思っていているのだけど、
全然相手のことを見ていない。
完全にその人の中で作り上げた人間だ。
でも、そんな風に、その人の中で作り上げた私、
が色んな人の中に居て、そうやって、
私はこの世界に存在しているんだと思った。
全員がそうなんだ。
つまり、私が思う私というのも、
私が勝手に作り出しているということ。

だとしたらそこにあるのはなんだろう。
単なるエネルギー。発光するそれ。
何かを妄想し続ける生命体。

私が死ぬまで妄想し続けたい世界はどんなだろう。
他人の妄想のいいところをかいつまんで、
私なりに加工、編集して、世界をつくろう。
その世界の住人になろう。
そのことだけに集中しよう。

酒がうまい

昨日はひさびさに飲んだ。
やはり外で飲む酒はうまいし楽しい。
どこかの国のビールを一番最初に飲んだのだけどそれがとにかくうまい。
あのビールをもう一度味わいに行きたいぐらいだ。
その次に赤ワインをデキャンタで頂き、
その次はグラスワインの白を、
そして最後にホットワインで締め。
食事は、前菜の盛り合わせと、アンチョビのガーリックトースト、
それから、キスのなんとか(なんか酸っぱいやつ)を食べた。
まぁ、お互いそんなにお腹がすいてなかったので、
飲みがメインだった。
「焼きカマンベールチーズのスパゲッティ」が気になるところ。
また行きたいとおもう。

私は三重県に戻ってきてからそんなに飲むことがなくなった。
車社会である事がかなりの弊害になっている。
そしてみんなそんなに「飲もうぜ!」的なテンションにはならない。
しかし私は隙あらば飲みたい。
なぜなら酒はたのしい。
食事もおいしいし、酒もうまいなんて、
それだけで天国だ。

東京で暮らした大学4年間はたくさん飲んだ。
新宿とか、渋谷とか、神保町とか、
みんなで集まってとにかく飲んだ。
バイトの帰りに、近くの洒落たバーで、
ギネスと生ハムとかを食べて終電で帰ったりしていた。
ギネスというのがおっさん臭いが、
ギネスは今でもわりと好きだ。
そういえば職場の近くにギネスバーがあるらしいので、
一度お邪魔しておきたいところだ。

今年は食と酒を極めよう。
そうしよう。

ある日のランチ

食事と喫茶「寿 KOTOBUKI」外観
飲食業界においてファミリースナックというジャンルはご存知だろうか。
私は28年間生きてきて昨日はじめて知った。
世の中にはまだまだ知らないことがあるものだと、
自分の無知さを身に染みて感じさせて頂いたのだけど、
昨日お昼ご飯に行った「寿」というお店は、
ファミリースナックというジャンルらしい。
そもそも会社近くの「まめや」といううどん屋に行こうとしたのだけど、
残念ながら臨時休業だったので、
それならば少し足を伸ばして行った事の無い店に行こうと考えた所、
この店が引っかかったのだ。

高校時代からこの付近はよくウロウロしていたけれど、
この店は完全にスルーしていた。
流行ばかりを追う健全な女子高校生のアンテナには引っかかってこない外観だ。
しかし、歳を重ね幾度となく恋愛を繰り返し、
捨てたり捨てられたり、人生の酸いも甘いもある程度経験した、
独身のアラサー女子になって初めて感知できる世界がある。
それが、ファミリースナック「寿」だ。

おそるおそる近づいてみるとかなり入りづらい雰囲気だし、
営業しているのかどうかさえよくわからない。
店の前を少しうろついて、勇気を出して扉に手をかけて店内に入ると、
そこにはなんとも言えない昭和の世界があった。
いや、昭和という言葉では片付けられない何かがあった。
「いらっしゃいませ」とおばちゃんの声。
窓際のテーブル席に腰をかける。
大きく「ファミリースナック 寿」と書かれたメニューを手にとり選ぶ。
かなりたくさんのメニューがあったけれど、
おばちゃんが水を持ってきてくれたときに、
一番上の「日替わり定食」について聞いてみた。
「京風のきつねうどんです」というのでそれをオーダー。
食事が運ばれてくるあいだ、店内をしばし観察。
なんとも形容しがたいデザインの椅子とガラスのテーブル。
壁には大きな油絵かなにかの洋画がかけられており、
天井には赤い花の絵が二つ直接描かれている。
漫画コーナーには「美味しんぼ」や「金田一少年の事件簿」
などが並べられている。
私は最近「ドカベン」が読みたいなぁ、と思っていたので、
もし「ドカベン」が置いてあったら毎日来てもいいかも、
と思っていたが残念ながら置いていなかった。
そうこうしていると、おばちゃんが「日替わり定食」を、
持ってきてくれた。
うどんはうどんでも、だし汁がトロっとした“あん状”になっており、
甘辛く煮た揚げと、すりおろしたショウガ、そしてネギが乗っていた。
これは初体験である。
ひとくち食べたところ、めちゃくちゃおいしい。
うどんは太くて全くコシがないのが特徴の伊勢うどんを使っていて、
それにショウガの風味とトロトロのあんが絡まって、
すごく体にいい感じがした。
揚げもポイントになっていたし、ネギの存在ももちろん完璧だ。
京都ではよくある食べ物らしいが、
もっと全国的に普及してもいいのではないかと思う。
定食だけあって、他には小鉢とご飯とデザートまで付いていた。
デザートがかなり渋く、大きな豆を寒天で固めたような、
いかにもお年寄りが好きそうな類いの、シンプルなデザートだった。
ぺろりと平らげ、お会計の時に、
「うどんおいしかったです。」と告げると、
厨房で作っていた旦那さんが恥ずかしそうに笑っていた。

帰りに横にあるたいやき屋でたいやきを購入し、
食べながら会社に戻った。
ちょっと食べ過ぎた感はあったけれど、
思いがけずおいしいものと出会えたのでとてもよかった。

2011年1月5日水曜日

文章について

言葉というのは不思議なもので、
ちらっとみた瞬間に全体的な印象が伝わってくる。
「ああ、この文章は魅力的で、
意味のある事が書かれているな」
というのが解る。
スラスラと淀みなく言葉が入ってくる。
まるで体の中に染み込んでいくかんじ。
そういう文章を美しい文章と言うんだろう。
書いてる内容がどんなにくだらなくても、
美しい文章であれば読むに値すると思う。
落語に関心があるのは落語の言葉は美しいからだ。
声に出した時に流れ出る感じがたまらない。

私は人の日記はあまり読まない。
読んだとしても途中で詰まってしまったり、
飽きてしまう事が多いからだ。
書いている人が言いたい事を言うだけの文章は
読んでいて苦しいものがある。
言葉の言い回しもその人自身の独特のものがあり、
考え方のクセや、その人そのものの何かが見える。
それが個性というものであり、
時には「いいな」と思える事もあったりするのだろう。

それは私の日記にも言える。
同じような言い方、同じような考え方、
それが延々にループしているのだろう、というのが解る。
単調で単純。
どんどん思いついた事を垂れ流しているので節操がない。
分かりやすい言葉しか使いたくないし、
人の目を気にしてわざと自分を大きく見せたり、
大げさな言葉も使いたくない。
というかそういう文章がすごく苦手だ。
逆に自分を卑下するような言い回しも嫌い。
でも、いつの間にか本人が気が付かないうちに、
そんな言い回しになっていることが多々ある。

私はこれまであまり本を読んでいるとは言えないけれど、
よしもとばなな、さくらももこ、村上春樹、糸井重里、
あたりの言葉の使い方がすごく好きである。
多分みんな好きだろう。
なんというか、肉がある。
そして骨もある。
ふわっとしていて、うすい黄色のあたたかい世界なのだ。
そういう生き物だったりするのかもしれない。
田口ランディあたりの言い方や感じ方も前は好きだったけど、
なにかがめつさというか、品のなさというか、
自信が無いことの裏返しの大げさな言い回し具合が気になり、
最近はそれほどでもないのだけど、
それでも「おっ」と思う事はときどきある。

やはりプロは違うなーと思うのだけど、
それは持ち合わせた資質と、日々の訓練の賜物なのだろうと思う。
憧れてちょっと真似ぐらいはできるのかもしれないけど、
そこには重みが全くない。
いくら真似たところでそれはニセモノなのであり、
ペラペラの文章なのだ。
どうやったらそんな文章が書けるのか、
なんて考えている時点で、なにか違う気もする。

ま、こんな風にざらっとした部分を地道に掬い取っていくことの中にしか、
道はないのだろう。

2011年1月4日火曜日

自己治癒力

さっきまでブラマヨが司会の番組を観ていたのだけど、
被害者意識というのはほんとにこわいな、と思った。
全ての犯罪は被害者意識から産まれているのではないだろうか。

自分だけ苦しい、
自分だけ辛い、
自分だけ寂しい、
自分だけ不幸、
どうして自分だけ…。

そういう気持ちがどんどん積もっていくと、
世の中の全てが悪にみえてきて、
突然憎しみや怒りに変わることがあり、
そういう時に犯罪が起きてしまうように思う。
この気持ちは油断するとすぐに心に広がってしまう。
ぐるぐると渦を巻き取り囲み身動きできなくなり、
外界から隔離させられ全然違う所に連れて行ってしまう。
なるべくそのような気持ちにならないようにしたいものだけど、
心が弱っていたり、疲れていたりすると、
するりと隙間から入ってくるのだ。

「しっかりしたいなぁ」となんとなく思う。
何事にも動じない人間でいたいと思う。
些細な事に惑わされない人間でありたいと思う。
まったく動かない石でありたいと思う。

人の気持ちの吐露を受けて、それに巻き込まれないようにする事に、
とてもエネルギーを使う。
色んな人に会うということは色んなエネルギーが通過していくという事で、
それに動じない為の訓練が必要なのではないかと思う。
その為にはやはり一人の時間は欠かせない。
ぐっと内側に向かって集中していく感じ。
それは人によって乱された気を補正していく作業だ。
いつの間にか人から過剰にエネルギーを受けたり、
奪われたりしていることに気付き、それを整える。
ちょっとした切り傷ぐらいならほっとけば自然と治るように、
人間には自己治癒力が備わっている。
自己治癒力を高めていけば、きっと誰にも頼らずにすむ。
心の空洞も自分で埋められる。
そういう能力をもっと高めていきたいと思う。

自分の意志で働こうと思ってたくさん働く人間もいれば、
ほんとはそんなに働きたくないのに働かなくてはならない状況に、
追い込まれている人も居る。
人には様々な状況があるけれど、
「鬱病になりたい」とか「死んでも別に後悔はない」
と言わせるその心の現状はなにか切ないものがある。
そういうどうしようもない感じを抱えながら人は、
生きていかなくてはならないのだろうか。
どうして私はそのような心の吐露を聞いているんだろうか。
結論は出ないけれど、なにか滔々と考えてしまうものがある。
もちろん言った本人はそんな風に他人が気に留めて考えているとは思っていない。
しかしそんな風に自分が発したさ些細な発言でさえ、
何かしらの影響を人に与えて生きていることは、
それなりに自覚したほうがいい。
もちろんまたすぐに別の事を考えだすのだとしても。

そんなことを考えていたらゴミ屋敷でゴミと暮らすおばあさんを思い出した。
ゴミ屋敷のおばあさんは、捨てられたゴミを拾って、
捨てられたゴミと暮らすことを生業としている。
「捨てられたゴミ」はおばあさんの立派な表現の手段なのだ。
きっとおばあさんは何十年も生きてきて、
人生の最後の結論として「捨てられたゴミ」を愛し、
一体化することになったのだ。
そこにある人間のどうしようもなく抜け出せずにいる気持ちのループは、
たくさんいる人間の形態でもそんなに珍しくはないパターンなのではないか、
と思う。

どうしようもない気持ちの収まりどころが、
結局のところ人間をどこかに連れていくのだと思う。

onomatope



新年ということでブログのタイトル変えました。
まったくコロコロと変わる人間です。
自分のブログタイトルの変遷を。

ヒマでもいいじゃない

工場日記

ひとりごとのようなにっきのようなそんなもの

monologe

まんじゅうはこわくない

HEVEN HELL

ちょっと自分が見えてくるものはあるな。
てことで今回はonomatopeです。
擬音語、擬態語、のオノマトペです。
たんに言葉の響きが好きなので。
バンドするならオノマトペってバンドしたいなぁ。
まぁしないけどね。

追記

松山にオノマトペというバンドが存在してました。
1988年生まれ男子4人組の若いバンド。
若さ全開で大学生の感じが丸出しでさわやかなバンドでした。

天才の気まぐれ



こないだBSでやってたタブラ奏者U-zhaanさんがタブラの魅力を語るコーナーが
youtubeにアップされてました。
何回みてもおもしろい。
そして誰も触れないのだけどナレーションが星野源であることが、
自分的に楽し過ぎる!NHK-BSナイスジョブです!

人生には色んな出会いがあると思うのだけど、
私にとってユザーンさんとの出会いほど特殊な出会いは後にも先にも無いだろう。
当時ずっと思ったし、今も思っている事がある。
「神様は一体なにをしたいんだろう」
そんなに大げさに考えることはないのかもしれないけれど、
私にはどうしても不可解だったのだ。
彼と出会った事で私はこの世のありとあらゆる秘密や
美しい物語ような世界も知ったかのような気持ちになったりもしたし、
その代わりものすごく苦しくて辛くてみっともなくて汚い気持ちも味わった。
自分の全部をかけて何かを解ろうと思ったし、
ときに解った気持ちにもなったし、
でも全く解らないままなのではないかと思ったりもする。
そういう不思議な存在なのだ。
きっと彼は自分の欲しい物をきちんと理解している人だし、
その方法も知っているので、着実に手に入れていくんだろう。
そういう人はそのままに生きていくだけだ。
私のような凡人は遠目で眺めつつ、彼だけに限らず、
彼のような偉大な欲望を持つ人間に調子を合わせながら生きていくだけなのだろう。
そんなことを思った。

今考えれば私の周りには欲望を持つ人間ばかりだ。
私は何もない。
何かあるかと思って多少試行錯誤したけどホントに何も無い、
というのが20代の結論。

2011年1月3日月曜日

ぶをわきまえること

赤福ぜんざい
人っていうのはもともと持って産まれた資質が強いのであり、
そうそう根本的な何かが変わるというのはないのだろう、
というようなことをここのところ考えていた。
「ぶをわきまえる、ということ」
自分は自分の分というものを理解できているだろうか、
とふと心配になったのだった。

最近世界の成り立ちを自分なりにうまく掴まえたな、
と思える瞬間がわりとある。
世界がじわっと広がる感じ。
そういう瞬間は地味に、そして単純に嬉しいものだ。

結局私の生き方というのは、
自分の身を立てるというよりも、
隙間隙間に赴いて、その場をうまく循環させることができたとき、
充実感というか、やりがいのようなものを感じる。
もしかしたら何かから逃げているんじゃないかと思う事もあったけど、
近頃はもうそんなことも考えなくなった。
きっと生涯そんな風にして誰かのどこかの隙間を埋めようとするのだろう。
仕事も恋愛も結婚もきっとそんな風な世界を求めている。
それは考え方というよりも思想というよりも、
もともとの性質なんだと思う。
とにかく自分なりに明るい方へ地道に手を伸ばしていくしかない。

一人の時間は私にとって確実に必要だ。
一人の時間になると世界は単純になる。
まかり通らないことも、まかり通る。
世の中のあれこれを考えたりイマジネーションを膨らませることは
単純に楽しい。

体や脳はどうしようもなく疲れているのに、
とても楽観的な気分だ。
これはどうしたことだろう。

2011年1月1日土曜日

小2のテンション

なんだこれ

小2のテンションてわりと好き。
ほんとにどうでもいいことで
延々と腹がよじれるぐらいにゲラゲラ笑う感じがとてもいい。
毎日そんな調子でやられたら、
うんざりしてしまうかもしれないけど、
盆正月ぐらいならそういうノリでも全然平気。
私も小2ぐらいに戻った気分になれる。
ほんと日々くだらないことで笑ってたよなー、
とあの頃を思い出す。
何が面白かったというよりも、
笑ったときにすごく楽しくてずっと楽しい気持ちになれる、
あの感覚を味わう為に何度も何度も笑い転げてた気がする。
子どものその生きていることへの素直さや正直さがとても愛しい。
いつの間に忘れたちゃうのかなぁ。
あんなにすぐに簡単に幸せになれる方法。