2011年2月28日月曜日

海月と水母はどちらもくらげと読む



くらげって「海月」とも「水母」とも書くらしい。
海の月のような、
水の母のような。
どっちもぴったりだな。日本語ってすごいな。

今日は小雨が降る中、スーパーや書店を回って、
バイトしている育児情報誌の販売状況をチェックしてきたのだけど、
途中で寄ったスーパーで、すてーんと派手に転んでしまった。
転んだ時の気まずさと恥ずかしさは大人になっても慣れないな。
というか、大人だからますます恥ずかしい。
「私ってドジでしょ?テヘ☆」
みたいなブログになってしまって心外だけど、
事実だからしょうがない。
そもそもドジって全然かわいくない。
他者にどんくさい奴であることを証明してしまい、
ひたすら自己嫌悪に陥る。
ドジはイラつく。
そんな書店回りの途中で立ち読みしたテレビブロスが特集してる漫画が、
とてもおもしろそうで気になったので、仕事の帰りに、
ヴィレバンに寄って買ってみた。
それが「海月姫」という漫画。
絵がすごいタイプ。いいなーこういうの。
別冊spoonですでに特集済み。はやいな〜。
寝る前の楽しみにとっておくことにしよう。

ファンション業界も音楽業界も一部の人たちが、
アニメオタクであることを公言するのが流行っているけれど、
それに便乗させて頂いて私もそろそろオタク文化を、
取り入れていってみようかと思ったり。
そもそも、中学生まで「アニメージュ」という雑誌を買ったりして、
かなりのオタクぶりを発揮していたのだけど、
やはり当時はオタクへの偏見は激しく、
周囲からの風当たりの悪さを事前に察知して、
それほどのめり込む事はなかった。
その代わり弟がかなりのオタクぶりを発揮していた。
色々知ってるんだろうな。
ああ、弟に会いたいなぁ。

世界が終わる夜に



「嫌われ松子の一生」と「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を観た。

「嫌われ松子の一生」は「自虐の詩」に続いて号泣。
なんなんだよー。中谷美紀主演の映画はどっちも泣けた。
てか、主人公に自分を投影しすぎてしまうんだろうな。
ちなみに今後の人生の過ごし方によっては、
1割ぐらいの確率でゴミ屋敷に住むゴミおばさんになる可能性がある気がする。
捨てられるゴミが可哀想で、ゴミを拾ってくる人。
でも、そんなに純粋じゃないかもしれないな。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は、
佐藤江梨子のぶっ壊れた姉加減が素敵でした。
スタイルのよさが異常。
ああいう、気違いの寄せ集めみたいな家族模様は、
観ててぞくぞくする。
誰だったか、「歪みが美しい」って言ってたけど、
まさしくそう。
どこか歪んでないと逆に人として安心できない、
というのはあると思う。

チャットモンチーの「世界が終わる夜に」は、
「腑抜けども」のエンディングテーマ。
これがまたいい。
映画ぴったり。
歌詞もいいなー。

なんとなく思い出した清竜人の「ヘルプミーヘルプミーヘルプミー」
これ、ラジオで聴いた時歌詞に衝撃受けた。
てか、やっぱ歌詞かい。


これもいいなー。



サカナクションの「ネイティブダンサー」。なんとなく。

2011年2月27日日曜日

東京で起こる事は全国で起こる

今日は立川談春独演会を観に鈴鹿まで行ってきました。
ちなみに先週は古今亭菊六さんの落語を観ました。
落語づいております。
立川談春の落語は非常に素晴らしかった。
口上での日本の伝統芸能のスキャンダル問題について言及して、
きっちり毒を吐いていたのがよかった。
談志の毒に影響されているんだろうけど、
談春の毒としてちゃんと確立されていて、それも感じがよかった。
落語がなんで好きなんだろうと、思ったけど、
やっぱり「死」をすごく軽く扱っているのが好きな要因として大きい。
弟子が師匠を簡単に殺したり(桂歌丸がいつも殺されてるかんじ)、
落語家の葬式の話もなんか楽しそうだ。
そんな風に「死」を軽く扱うことはとても救われるのだ。
ちなみに、落語が流行るのは、世の中が不景気だからだそうだ。
不景気な世の中の落語は、
日本人にとって本当にとても重要な役割があるんだろうな。
それにしても落語のおもしろさって外国人にも伝わるんだろうか?
流れるような言葉、日本語の美しさ、言葉のリズム、
やっぱり日本人じゃないと解らないのかもしれない。
さくらももこの「神のちからっこ新聞」もそんな感じ。
また観に行きたいなー。東京で落語みたいけど、
チケット取るのがむずかしそうで、そうなると、
地方でよかったなぁ、なんておもう。

小倉千加子の「結婚の条件」がおもしろすぎる。
こないだ高校時代の同級生が6人集まった時、
ひとり以外は全員未婚だったんだけど、
(ちなみに、みんなを招集したがるのは既婚の子)
間違いなく未婚5人のうち何人かが一生独身になりそうだった。
お互いの近況を順番に話したり、
今付き合っている人がいるかとか、
探りを入れ合っているのがまるわかりで居心地が悪かったのを覚えている。
みんな色々抱えているんだろうなと思う。

女の人には二通りの生き方があるんだそうだ。
「女」になりきるか、「人間」になるか。
残念ながら「女」になりたくてもなれない女の人がいる。
そんな女の人は人間になる道を歩むことになる。
「女」になるには、「男」が必要で、
つまり「男」を得るために「女」になることを、
普通にやれる女の人がいる。
そんな女の人は大学生の頃に「JJ」を読んでいるらしいけど、
確かに、私が大学生の頃「JJ」を購読読していた子がいて、
その子は早々に結婚している。
私はもちろん「JJ」なんて読んでいなかった。
てか「JJ」すごいな。
つまり私に関して言えば、「女」ではなく、
「人間」にならざるを得ないということだ。
「楽して専業主婦」になる道は確実に閉ざされたということになる。
ま、そんなことは昨年わかっていたけれど、
色々整理が出来ておもしろいのが、「結婚の条件」という本。

2011年2月25日金曜日

リア充とDQN

「リア充」と「DQN」の意味を今日知りました。
なるほど。
ちなみに親が子どもに付ける珍妙な名前をDQNネームと呼ぶそうだけど、
ほんとに最近、普通に子どもの名前が変だ。
育児情報誌に産まれたばかりの赤ちゃんを、
載せるページがあるのだけど読めないことが多い。

酒井若菜については健全に日々を送っているようで安心しました。
過去に人気を博していて、最近テレビでみなくなったらアイドルのその後が、
やたら気になってしまうのは前に、
「アキハバラ@DEEP」に出ていた小阪由佳の病的な激変ぶりを
見てしまったからだ。
それからは、モーニング娘やAKB48など、
大人に消費されていくアイドルが心配になった。

まぁ、どんな状況化でも人は狂う時は狂うのだろうけど。

真夜中の映画館

とりあえず借りてきたDVD2本のうち
「恋の門」と「自虐の詩」を観る。

どちらも松尾スズキが出ていた。
そして「恋の門」は松尾スズキが監督&脚本。

「恋の門」は、随分昔に漫画で読んだ事があり、
「そういえばこんな内容だったなぁ。」と、
懐かしく思い出したりした。
酒井若菜を久しぶりに観て、今なにしてるんだろう?
と、思ったのであとでネットで調べてみるつもり。
漫画自体がおもしろいのか、おもしろくないのか、
曖昧なところだったのだけど、映画もそんなかんじだった。
今は亡き忌野清志郎の元気な姿が観れたのがよかった。
あと、さり気なく出てた安野モヨコと庵野秀明とかよかった。
星みっつぐらい。

「自虐の詩」は、半分ぐらいギャグなのかと思って借りたら、
3分の2以上が泣ける話で、ティッシュの消費量が半端なかった。
予想してなかったので、ほんと、びっくりした。
そして中谷美紀の演技がすごい。
あんなに美人なのに、あんなに貧乏臭い風になるのって、
実は相当難しいのではないかと思う。
これは続いて観るつもりの「嫌われ松子の一生」が楽しみだ。
やっぱり美人がぶっ壊れてる姿を見るのはなんか爽快だ。

気がつけば夜中の2時だ。
私はだいたい12時には寝てしまう人なのだけど、
近頃はちょっと夜型人間になってみようかと思う。
だいたい何かを創作する人たちは、
夜中に創るという意見をよく聞くし。
もしかしたら夜中は、何かが暗闇の中をうようよと蠢いていて、
ちょっとした拍子に何かが取り憑いて、
自然とタイピングしてしまったりするのかもしれないと思うと、
俄然夜のほうが楽しいだろう。
しかし、今日はさっき映画を観て思う存分に泣きはらしてしまったので、
少しまぶたもつかれているし、そろそろ寝てしまおうと思う。

何かを書き終わった後の空っぽ感が私は好きだし、
その感覚にもっとどん欲になってもいい気がする。
よし、より動物っぽくなろう。

2011年2月23日水曜日

ウランちゃん

私は人生で2回ほど、
「手塚作品に出てきそう」と言われた事があり、
それはわりと嬉しいのだけど、
ウランちゃんとかかわいいなぁと思って、
ウランちゃんをグーグルで検索しようとしたところ、
誤って劣化ウラン弾を検索してしまったら、
多分劣化ウラン弾で負傷した人間であろう、
ものすごいえげつない画像を見てしまい、
今だに立ち直れません。
しかもウランちゃんを検索してもあんまりかわいい画像がなかったです。
あと今まで人生で立ち直るのに時間がかかったものは、
学生の頃、家庭科の授業でみた奇形児です。死ぬほどこわいです。

女の人の本質は結局のところ「空っぽ」なのかもしれない。
男に合わせてコロコロと自分を変える。
女が無色透明であればあるほど男は自分の欲望をそのまま女に投影する。
それが気に入った男であれば、
女は男が見ているものを速やかに察知してそれになろうとする。
それになりきれるか、なりきれないかが、女の勝負どころだ。
しかし、一旦なりきれたとしても、
だんだんそのポーズが苦しくなって崩壊したところに、
真の女の凄みというか、本質的な世界が現れてきて、
そうなった時、女は生まれ変わり、
一番エネルギーに溢れ自由に生きることができる。
そのことに気がついている男がどれほど居るだろう。

「空っぽ」だから女の人は強い。
どこへ行ってもそれなりに順応してしぶとく生き抜く。
今の時代に必要なのはうっとおしいぐらいのしぶとさかもしれない。

2011年2月22日火曜日

引き寄せる引力を

DVDを4枚一気に借りてみた。

「恋の門」
「自虐の詩」
「嫌われ松子の一生」
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

私の中で同系統のものをセレクトしてみた。
この内2本は主演が中谷美紀である。
やっぱり私は中谷美紀が好きである。

西原理恵子の漫画の映画化が続いているけれど、
主人公役(つまり西原理恵子役)の女優が、
みんないい女優であることがなぜか気なる。
深津絵里、菅野美穂、小泉今日子。
うーん、いいなぁ。

西原理恵子って確かすごくさくらももこを意識してた、
イメージがあって、これはある意味越えたんじゃないかと思うわけで。
2人とも漁師の娘と、八百屋の娘ということで、
親の才能とか全く関係なしに、
自力でやってる感になんとなく惹かれるものがある。

西原理恵子のウィキペディアを今みたけど、
ものすごい壮絶な過去だった。
なんだか人生荒れくれてるというイメージはあったけど、
あそこまでだったとは。
川上未映子といい、荒れくれた人生経験を持つ人は、
やっぱりたくましくなれるんだなぁ、と人間に対する一抹の希望。

昨日の新聞に中学生の少年が首つり自殺をしたことが載っていた。
その原因が、母親の糖尿病や脳梗塞などの病気と、家庭の貧困で、
毎日の家事もその少年がこなしていて、
母親の看病で学校も休みがちだったそうだ。
そんな中の将来に希望が持てなくて自殺。

いやーなんだろうね。この気持ち。

確かに中学生にはキツ過ぎる現実なんだけど、
もう少し生き続けていれば何か見えたんじゃないか、
なんて思うのは勝手過ぎる言い分だろうか。
趣味が読書だったのだから、本からなにか生きるヒントというか、
希望みたいなものは見出せなかっただろうか。
日々の現実が、日常が、活字の世界に勝ったのかもしれない。
中学生にとってみれば、いくら読書が好きな瞬間があっても、
現実のほうが圧倒的なリアルで迫ってくるし、受け止めてしまう。
大人みたいに逃げたりしない。逃げられない。

しかし、そうなったら文章の負けだ。
言葉なんて所詮そんなもんだ。無力だ。

よしもとばななだったか、
たしか、自殺する人が減るようにと思いながら書いている、
と、どこかに書いていた。

人の精神には色んな次元がある。
家族と関わる時間、漫画を読む時間、テレビを見る時間、友達と話をする時間、
全部、自分の違う世界で、一回の人生でも、
様々な次元を行き来することになる。
だから、家族と過ごす時間や、現実に襲いかかる不幸なこととは、
違う次元を自分の中に創りだして、
その両方を自在に行き来できるようになれば、
随分精神的に楽になるのだけど、
中学生にはまだなかなか難しいテクニックなのだ。
分裂症気味と言われてしまったとしても、
それはそれで生き抜く為の知恵である。
しかし生きてみて面白い事があるかどうか、
それは、その人次第なのでなんとも言えないのだが。

世の中のあるとあらゆる不幸と思われる事情は、
真に受けたら終わりである。
ということに気がつく。
ただひたすらに自分を追いつめるだけだ。
ちょっと頭悪いぐらいになって、
ヘラヘラしてゆるくこなしていると、
不幸というやつはどこかに逃げていくらしい。

きっとそんな風にして人間を試しているんだと思う。
誰かが。

2011年2月21日月曜日

塚本功トリオ


4月1日(金)マクサにて、塚本功トリオのライブがございます。
塚本功さんのギターさばきも、
長山雄治さんのウッドベースも気になるところではありますが、
個人的にASA-CHANGのドラムテクをたっぷり見れるのが楽しみです。
ASA-CHANG&巡礼の味わい深いASA-CHANGは何度か見たけれど、
ガッツリドラマーのASA-CHANGは初めてなのです。
間違いないライブになるのは確実なので、
近隣のみなさん今年のエイプリルフールの夜はマクサへ!
は、そう言えば、巡礼から浦山さんとU-zhaanさんが脱退して、
ちょうど一年の日だわ。。


アンプ直結、こんな音を出せるのは世界でただひとり。
SLY MONGOOSETHE HELLO WORKS、ピラニアンズ、ネタンダーズと
八面六臂の活躍で話題のギタリスト・塚本功。彼の2007年発売の侠気全開の
超絶ギターインストアルバム「Stompin’」レコーディング時の奇跡のトリオが
昨年のツアー~所沢航空記念公園「MOJO GROOVE 2010」への
出演を経て今年再び復活、全国ツアーを展開します!!


塚本功(ギター・ヴォーカル)
1970年生まれ。'94年にピアニカ前田率いるピラニアンズで
メジャー・デビュー。愛器ギブソンES175をアンプに直結した
唯一無二の演奏スタイルとサウンドは、
様々なミュージシャンからも強い支持を得ている。
2002年にはエレキギター1本による
インストアルバムElectric Spanish-175」を発売、
2007年には2ndアルバムStompin'」をリリースした。
ソロアーティストとしての活発な活動と並行して、
自らがリーダーを努めるバンド、ネタンダーズでは
ギター・ボーカル・作詞・作曲・アレンジ等、全面的に指揮をとり、
CD制作やライブツアーを行い、20097月には5年振りとなる
ニューアルバム『衝動』を発表し大きな話題となる。
また、2003年より正式メンバーとして活動している
SLY MONGOOSEでは20091月にアルバム『MYSTIC DADDY』を発表、
こちらも各方面から話題を呼んでいる。
その他にもASA-CHANG&ブルーハッツや、小島麻由美等、
アーティストのレコーディングやライブにギタリストとして参加し、
その多岐に渡る活動で多くの評価を得ている。
長山雄治(ウッドベース)
1965年 7月 19日 東京都武蔵野市生まれ
高校在学中より井野信義氏にコントラバスを師事。
卒業後ジャズベーシストとしての活動を開始。
91年、ピラニアンズ結成に参加。93年ファーストアルバムをリリース。
その後、数々のCDを発表。99年、
キヨシ小林&ジプシースイングに参加しコンサートや、
一連のアルバム製作に参加。チャボロ シュミットや高田渡と共演。
スタジオワークやツアーサポートなど、
ジャンルに捕らわれない"ウッドベース弾きとして活動中。
ASA-CHANG(ドラムス)
‘89年、東京スカパラダイスオーケストラの
パーカッショニスト/バンドマスターとしてデビュー。
その自ら創始した東京スカパラダイスオーケストラがブレイクを果たした後、
‘93年に脱退、ソロミュージシャンとして活動を始める。
スカパラ在籍時からその特異なライヴパフォーマンス、
プレイは注目されていたが、独立後の数々のセッションワークにより、
ドラマー/パーカッショニストとしてその存在を知られるようになる。
いわゆるラテン・パーカッション系だけでなくインド・アジア系から玩具類、
ガラクタ、シンセ音などを散りばめ楽曲にアプローチする
彼独特のプレイスタイルを確立し、
ドラマーとしても躍動感のある唯一無二のそのビートは、
パワフルさと繊細さを兼ね備え、
数多くのアーティストからの信望を集めている。
現在はASA-CHANG&巡礼、ASA-CHANG&ブルーハッツを率いての活動を軸に、
ポップとアヴァンギャルドを軽々と行き来して多彩な活動で
多くの注目を集めている一方、CM音楽や他のアーティストの作品での
作曲・アレンジもこなすプロデューサーとしても活躍。

2011年2月20日日曜日

ある種の人生の法則

本当はもっと楽しい事ばかりを考えたり、明るい事を考えたり、
しようと思ったら出来るのかもしれないけれど、
そればかりでは我慢できない、ということに気がつく。
世界が薄っぺらくて、表面的で、耐えられなくなるのだ。
だから私は、暗いところにいく。
自ら進んで、暗いほう暗いほうにいく。
こればっかりは自分で選べない。
もうこれはそういう性質なのだ。
それで、きっと誰も考えてないであろうということを考える。
私はもうそういう自分から逃げ出す事もしない。
(いや、少しはしんどくなって逃げたくなることはあるけど。)
なるべく丁寧に吐き出す事に専念する。
残念ながらそうしないと、
人生がちっとも進んでくれない事に気がついたので。
私の進む方向は、もうそこしかないのだ。
そこしかなかったら、そこに行くしかないだろう。

信じること

私たちは、食べるために生まれてきたのではなく、
もちろん金のためでもなく、楽をするためにうまれてきたのでもなく、
子孫を残すためでもなく、長生きするためにでもなく
自分の情熱を燃やすために、向いていることを
この人生でやりつくすために生まれてきたのではないだろうか。

という言葉がふとツイッターに流れてきて、
この言葉は私の根幹にある信仰のひとつだ、
と思ったのだった。

よしもとばななはやはり偉大。
カジュアルな宗教家であり芸術家なのだ。

落語ナイト

今日はカップジュビーにて古今亭菊六さんの落語を観に行きました。
うますぎて感動しました。
容姿もすっきりしているし、演技もスマートだけどきっちりしているし、
なんというか美しかったです。
32歳とかなり若い落語家さんでしたが、
若さゆえの危うさのようなものも全く感じられず、
気持ちよく落語の世界にのめり込んでいけました。
日本語のおもしろさや、美しさも堪能できるのが落語。
テンポといいリズムといい、表情と良い、
江戸っ子の調子もいちいちかっこいいですし、
落語はやっぱりおもしろいです。
来週は立川談春を観にいきます。
楽しみです。

2011年2月18日金曜日

東京とふるさと

中村一義がベストアルバムを発売するということで、
たいへんうれしいです。
なぜなら半年前くらいにパソコンのデータがふっとんで、
中村一義の曲も全部消えてしまったから。
久々にyoutubeで聴いてみたけど、
やっぱり超いいな!
大学時代おもいだすわ。
ライブとかもうやらないのかな〜。
やったとしても昔の曲はやんないだろうな。

やっぱアーティストって、
初期の頃に作った曲が尋常も無くよいものが多い気がする。
脳みそあんま使ってないていうか、
どっからか湧いて出てきたような、どストレートなやつ。
人間の創造ってそんなものだとおもう。
コツコツ脳みそ使って創るものなんてたかが知れてる。
自分でも「なんじゃこりゃ!?」的なものが出て、
初めて人は自由になるんだと思う。

田舎に残ってる人の、田舎に対する怨念とか、孤独感とか、反対に愛着とか、
それを振り払って東京に行った人の、すがすがしさとか、
故郷に残している家族への後ろめたさとか、
そんなのを題材にした物語があればいいのに。

東京からやってきた40代後半の編集長は、
いつも三重県に居心地の悪さを感じているようで。
東京は「なにものでもない自分」になれるから居心地が良いと言っていた。
それは七尾旅人もインタビューの中で言ってた。
私も東京に居た頃は「なにものでもない自分」になれてすごく楽しくてラクになれた。
私は東京という街に助けられたと言っても過言ではない。

東京はある種の人間にとって、精神的にすごく楽ちんに生きれる場所なのだ。
でも、私は田舎にいる。
イライラしながら、なにもできずにモヤモヤしてる。
でも、このイライラや、モヤモヤから逃げ出さないで、
思いっきり抱え込むことで、見えてくるものがあるし、
言いたいこともでてくる。

うまくいかない場所で、
圧を受けることでじわじわと構築されていく世界があるのだ。
それによって一人の人間ができあがっていく。

本日は強風なり

結局、図書館は2時間ぐらいで引き上げ、
お腹がすいたのでご飯を食べようと思って、
前々から狙っていたオサレな洋食屋に行ってみたけど満席で入れず、
適当に目に入ったうどん屋にいって、
肉団子やもやし炒めがおかずの定食650円を頼みお腹を満たし、
会社に行って出来上がったフライヤーを受け取り、
風が強くて外に出るのが嫌になり30分ぐらい車の中でぼーっとして、
じゃがりこの新商品アンチョビ&ガーリックに感激しつつ、
本屋に向かった。

snoozerの七尾旅人3万字インタビューと、
MUSICAの山口一郎と星野源の対談を立ち読み。

まず七尾旅人の3万字インタビューはものすごい読みごたえだった。
ほんとうは去年の8月に掲載される予定で、
半年遅れで誌面に掲載されたのだけど、
「それはそうなるかもな」
と思わせるぐらいに、内容が濃密で、ライター魂削ったな、
というのが伝わってきた。
田舎で友達もいなくて鬱屈してすごしていた少年時代とか、
若い両親の荒れ方とか、祖母との関係とか、
そういう諸々の田舎独特の閉鎖された空気感がよく伝わってくる。
本当に今のミュージシャンでは希有なぐらいに、
底辺から自力で這い上がってきた人なんだな、
というのがわかる。
宗教との関わり方もぐっとくるものがあった。
読んでよかったなー、と心から思った。

サカナクション山口一郎とサケロック星野源の対談もおもしろかった。
私たちの時代の私たちのポップミュージック。
それを表している二人の対談は本当に興味深かった。
二人とも孤独と仲良くしてる感じがいいと思った。
彼らの孤独の時間は愛が満ちている気がした。
一人で生きて一人で死ぬ。
それは絶望でもなんでもなく当たり前のことで、
それを悲しむ必要なんて何もない気がした。
そしてやっぱり言葉がうまいと思った。
ポップに私たちが求めている言葉を言葉にしているということ。
それは、音楽をやっている人たちのほうが敏感で、
リアルタイムに発信しているかもしれないと思った。

音楽みたいな文章でありたいなー。
それで音楽には出来ないことを、
伝えきれないことを伝えられたら、
なんてことを、横柄にも考えさせられた。

図書館

図書館に来ている。
調べものをしようと思い、本などを検索し、
管理ナンバーをメモし、図書館の中を彷徨い歩き、探すのだけど、
いっこうに見つからず、どうしようもないので、
その周辺にある本数冊を適当に手に取り、机に座り読む。
とたんに眠い。
どうしようもない眠気に襲われ一体なにをしたかったのか、
よくわからなくなっている。
「宇宙時代の科学的古事記正解」
なんて本をパラパラとめくるが、
昭和30年代にこんな変態的なことを考えている人が、
いたんだなぁ、と感心するのと同時に、
わけのわからない単語の羅列の中に吸い込まれていく
ような感覚に陥る。
また、図書館にくると、様々な種類の本が膨大にそこにあり、
よくぞここまで情報を文字に化かしたなーと、
人類の努力を讃える気持ちと同時に、
途方も無いな全く、なんて徒労感に教われたりもする。
反対の事柄が自分の中で起こって同時に進行していく。

入り口にあった「現代詩手帖」なんかを手に取り、読んでみる。
世の中にこんなにも詩人という種類の人間が存在し、
ぽつりぽつりと、言葉の海の中を泳ぐことを生き甲斐としている人たちが、
いることに驚く。
外界との接続を最小限にして、
内側にのみ耳を澄ます、という行為は賛同する。
外の世界と内の世界がバランスよく取れてくると、
うまく周囲が動いてくれる。
そんな風にしてひとりひとりの世界が常に流動的に動いている。

世の中にどんなに仕事の種類が増えたとしても、
ひたすら内側にしか興味が無い種類の人間の絶対数というのは、
変わらないのではないかと思う。

言葉と人間。
音と人間。
絵と人間。

世の中の喧噪から離れた場所での、
表現することの深遠さは、ますます深まる一方だ。

2011年2月17日木曜日

おりあい

無意識との折り合いをずっとつけようとしてるんだな、
ということに気がつく。

私は無意識との折り合いがうまくいかない。
それは思春期に無意識を無理矢理封じ込めようとしたことによる、
後遺症だと思うのだけど、じつはまだまだリハビリ中なのだ。

リハビリの一環として文章を書く。
文章を書いている間はすごく自由をかんじる。
のびのびと動き回っている感じ。
そういう感覚を掴むために、
そして取り戻す為に、文章を書く。

リハビリ以上のものを本格的に出していきたいのだけど、
これがなかなか難しい。
意識して力を入れるとすぐに上手く書けなくなる。
考えているようで考えていないというのがポイントだ。

もっと自由になりたいなぁ。
色んなところを飛び回って、
「これは!」という模様を書きたい。

文章によって思い込みという呪縛から解いてもらって、
自由にしてもらった分、私もそんな文章を書きたい。

日常という呪い、生活という呪いを取ると、
こんなにも世界というものはのびのびしていることを、
書きたい。

感動を世の中に還元するということ。
そういったエネルギーの循環で世界はまわっている。

そういうことをしたいんだなー。きっと。

妖怪になりたい

水木しげるの「妖怪になりたい」全部読みました。
鞄の中にいつも忍ばせていた暇つぶし本。
母親の病院の待ち時間に完読。
次の暇つぶし本みつけなきゃなー。

やはり水木しげるは最高です。
文章がとても読みやすい。
全然気取ってないし、人柄が全面に押し出ている。
やっぱりある程度文章で人間がわかっちゃうなぁ、と
言葉を扱うことの危うさのようなものも感じつつ。

「くそつまんねーな、まじ」
「あいつも、こいつも、全員終わってるわ」
みたいな、気持ちがいつもあり、
そっからじわりじわりと滲みでる感情がある。
恨みみたいな、怨念みたいな。

何かと不都合なことがおきると、
「死ねばいいのに」
を連発する40代がいて、
子どものようにそうやって言葉で発散しているのだな、
と思えばそれで済むのだけど、
やっぱりいつも聞いてると嫌になる。

独身の30歳前後の女3人が集まると当然のように結婚の話になる。
結婚のことなんて全く眼中にない子もいれば、
めちゃくちゃ気にしている子もいる。
(ちなみに私は前者)
「結婚して子どもを産んだらただの女にになる。」
という意識がどこかにある。
ただの女とは一体どんなものか、
私も漠然とおもっていることなのではっきりとは言えないけれど、
とにかく、男がいる女は、ほんとにただの女だ。
子どもがいたらますますひたすら女だ。
いちおう私も女の端くれなので、ただの女になりたい自分もいるし、
時々無償に女になりたいときがある。
しかし、ここのところそういう自分の気配が全く消えた。
すっきりしていて、すがすがしいほどだ。
「人生のひとつのポイントを通過したな」という感慨。

結婚したいのであれば、結婚したらいい。
できるものなら。
自分だけが結婚したいと考えていても不可能なのであって、
相手いて、しかもその相手も自分と結婚したいと考えていないといけない。
そんな状況に陥ることが簡単なタイプの人間もいれば、
そんな状況に全くならないタイプの人間もいる。

結婚なんて神様の采配だ。
自分の欲望なんてほんとは二の次なのだ。
欲望や計算で結婚する人間は、
きちんと欲望や計算でものごとを考える人間と一緒になる。
謎の引力で互いを引き合うのだ。
そんなふうにできている。

他人なんてなんだっていいのだ。
誰を好きになろうが、好きになられようが関係ない。
もうそんな世界をうろちょろして迷う生活は飽きた。
もっと、深く、深く、命の芯に迫りたい。

妖怪になりたい。
やっぱりその空気のほうが今の気持ちに近い。

2011年2月15日火曜日

初詣

健康ランドに死ぬまで居ようと決意して、
55日間無銭宿泊した60歳無職が逮捕された話は、
わりとツボでした。

昨日は大雪で、会社から家に帰るのに1時間30分かかった。
今朝、山道を走っていたら、道の途中の至る所に
車が無人で放置されていて、
大雪でにっちもさっちもいかなくなったことが想像できる。
雪に慣れてない人たちにとって雪は降りすぎるとこわい。

今日は伊勢神宮の外宮と内宮、それと猿田彦神社におそめの初詣。
昨日の雪の影響で人少ないかと思ったけど、
全然そんなことはなく、相変わらずたくさんの参拝客でにぎわっていた。
残ってる雪を踏みしめながら、いろいろ、
ほんとうにいろいろなことを考えていたのだけど、
やっぱりあの空間でしか考えつかないことや、
見えない内的世界がいくつもあるということに気がつく。

他の人たちも何も考えてない風に、
がやがやとお参りしていたけれど、
きっと普段と気持ちや考え方が少し違うのだろうと思った。
老若男女問わず、スルスルと吸い込まれるみたいにして、
あの場所に集まってきて、手を合わせて、おじぎして、
そんなことがほとんどの日本人の人生の中に、
当たり前に組み込まれていて、
節目節目に来たくなる場所が伊勢神宮だ。

結局、伊勢神宮の存在を考えることは、
自分のことを考えることと繋がっているのだという発見があった。
伊勢神宮はアイデンティティの一部だ。
伊勢神宮を知ることは、自分自身の根っこを知ること。
そんな風に、当たり前に思えた。

かなり畏れ多い発言のような気がしないでもないけど、
自分の外側にあるというよりは、内側にあるような気がしたのだ。
きっと、日本人全員の内側にあるもの。
ただそれを目に見える形にして、実際に行動として、
お参りができるようにしてあるのだと思う。

外宮も内宮も猿田彦も正宮の前に立つとなにも考えられなくなる。
ただ、ぽーんと自分がやってきているという感覚。
頭を下げ、手をたたく。
存在を示す。
それだけで充分な気がしてしまうのだ。
これまで何度もやってきているけれど、
お参りをするときの気持ちはいつも同じだ。
空っぽになる。

おはらい町やおかげ横町はもはやディズニーランドのような、
テーマパークであり、アミューズメント施設のようなふうで、
確固たる地位を築いている。
徹底したおもてなしの演出。
しかし10年ほど前はそうでもなかった。
この勢いはここ5年ぐらいだ。
平成25年の式年遷宮に向けてのものなのか、
そういう時代なのか、全国から伊勢神宮に人がやってくる。

内宮のお参りを終え、宇治橋から見える日本の国旗が印象的だった。
あの場所にある、あの国旗が一番に日本を感じるから、不思議だ。

理想の夫婦



星野源のニューシングル、『くだらないの中に』のCMなのですが、
この歌詞に私は大注目。

髪の毛のにおいを
かぎあって
臭いなって
ふざけあったり

って…。

森三中の大島夫妻のこと歌ってないこれ!?
たしか年末に本屋で立ち読みした、
大島の旦那、鈴木おさむ『ブスの瞳に恋してる』の
一番新しいやつを立ち読みした時に、
このエピソードが書いてあったんだよな。
で、大島が番組中にマリエだったか誰かの頭の匂いをかいで、
「くっせ〜!」
って、言ったらマリエが泣いたっていう。
大島夫妻の間じゃ、じゃれ合いというか愛情表現のひとつなのに、
他人の間では成立しない。
その辺にちょっと感動というか、「なるほどな〜!」と思ったのだ。
『ブスの瞳に恋してる』は笑えるし泣けるいい本。
世の中こんな夫婦もいるんだなぁ、って希望がもてる。
「ゲゲゲの女房」にしろ、「ブスの瞳に恋してる」にしろ、
結局みんな本当はちゃんと恋をして愛し合って夫婦をしたいっていう、
夢を持ってるんだろうな。
みんなそんな風に思ってても、
できる人と、できない人が居る。
夢を人生に持ってきて、リアルに出来る人って、
一体なにがちがうんだろう?

やっぱりそこは、二人ともひとつのストーリーを
ずっと共有し続けているっていう面があるかもしれないなぁ。
だから人間が出会うのはおもしろいし、
男女のおもしろみもますます深まるのだろう。

2011年2月14日月曜日

生誕100年

というわけで今年は岡本太郎生誕100年です。
3月8日から東京国立近代美術館で展示されるらしいのだけど、
3月5日、6日と上京する予定の私としては、
延泊して初日にいくしかないと思うのです。メラメラ。

図書館でゴーガンの画集を借りる。
「われわれはどこから来たのか?われわれは何者か?われわれはどこへ行くのか?」
という絵は題名もさながらおもしろい絵。
西洋文明に嘆いて、タヒチに渡りタヒチの絵を書き続けたゴーガンは、
西洋人には無くてタヒチの人たちにあるものを見出していたのだ思う。
われわれは生にどのようなイメージを抱くのか。
つまり生とはなにか。
この辺はこっそりと個人的にどんどん深めていきたい課題。

「ハートロッカー」という映画を見てみる。
爆弾処理班の米兵の極限状態をものすごくリアルに描いている映画。
これは演技がすごいなぁーとほんとに感激した。ちなみに制作費は16億円。
監督が女の人というのもすごい。
冒頭にも言葉があったけど、「戦争は麻薬」というのがわかる。
やっぱり殺し合いがしたい人たちっているんじゃないかと思った。
そういう性分というか。それにしか興味が無いというか。
宗教の問題だとか、国がとか、政治がとか、
なんて言ってるけど、他に人生かけるものがないから、
そういうものにどんどん突っ込んでいってしまっていて、
しかも一回その世界を知ると、のめり込んでしまって、
抜け出したくても抜け出せない状況になるのではないかと思った。
戦争はやりたい人たちがやればいいのだ。
殺しあいたければ殺しあえばいい。
その代わり、関係ない人たちは巻き込まないでほしい。
無差別殺人、無差別テロ、広島長崎の原爆は想像力が無さすぎる。
(いや、逆にありすぎるのか?)
しかし、そういう殺しあいたい人たちが、
国の実権を握ってしまうというのが一番おそろしい。
そんで、やっぱり男なんだよなー。
無茶をしたがったり、命を粗末にしたがるのは。
そんでもって今や女も子どもを放ったらかすんだから手に負えない。
民族浄化という歴史にも目を向けたい。
人は簡単に他者を排除しようとする。
その事実から目を離さないようにしたい。
人が人を裁いて死刑という判決が下される事実があり、
そしてそれを平然と受け入れられている社会に生きていることを、
自覚していたい。
人間とはそういう風にいつの時代も
残酷で野蛮で気持ち悪い生き物であることを、
肝に命じておきたい。

NHKの無縁社会特集は観ていないけれど、
何年か前に派遣切りが流行った時に派遣社員の悲惨な現実特集をやっていて、
ただひたすらに、どうしようもない気持ちにさせられた覚えがあり、
きっと今回もただひたすらに、
どうしようもない気持ちにさせられる番組内容であったことは想像がつく。
バツイチ40代後半の上司はこの番組をみて、とある提案をしていた。
身よりもないし、仕事もないから、
別にもう死んでもいいかな、と思っている人が集まって、
楽に死ねるような宗教団体があったらいいのにと言っていた。
「前向きな自殺」があってもいいのではないかと。
しかし、よっぽど現実的に追いつめられてないと、
自ら死は選べないのが人間なのではないかと思ったりもするので、
死のもとに集まって、結果的に生に希望を持つことも
あるのではないかと思う。
「無縁仏」
先祖に背を向けて誰とも繋がれずに死んでいく人が、
ますます増えていく。
きっと先祖は誰かと縁を作って、
血をこの世に遺すことを望んでいるのだ。
しかし、それをしようとしな、できないのは、
一体現代の私たちに何が起きているのだろう。
遺伝子の繰り返しの螺旋から降りるという意思は、
一体どういう現象なんだろう。
これはもしかして、本当に終わりの始まりなんだろうか。

「ハートロッカー」を観ていて、
最後のほうで体中に爆弾を巻き付けられたおじさんが、
まだ生きたいのに、自爆してしまうシーンがあって、
なんか、あの時に人っていうのは死ぬ時こんな感じか、
っていうのが、じわっ、と生々しく伝わってきた。
ぞっとするぐらい何もなくなる。
もちろん何もなくなったらぞっとすることもない。
それぐらいに何もなくなるのだ。

やはり、ここのところ、とても暗いことばかりを考えていたけれど、
岡本太郎の「絶望は祭り」という言葉が頭から離れない。
結局人間のエネルギーの源は、
現実を直視したときに見える絶望から立ちあがる反対の世界、
つまり希望を見る力だと考える。

2011年2月10日木曜日

書かずにおれない

今日は髪を切りに美容室に行った。

髪を切りがなら、なぜか美容師さんといじめの話なった。
(子どもの話から突然飛躍して)
美容師さんが自分のいじめ体験を滔々と語りだしたのだ。
幼稚園から小学生の間ずっといじめられた話しから、
中学生になっていじめた話し、それから友達に裏切られた話し、
事細かに全部話してくれた。
途中で美容師さん自身も、
「どうしてこんな話してるんでしょうね」
と不思議がっていたのだけど、
私もちょっと不思議だった。
結局、美容師さんは、
「いじめって楽しいんですよ」
と、言っていた。
私はなんて言っていいのかわからなくて、
「大人になってよかったですね。大人のほうが楽しいですね。」
と、答えた。

普段ニコニコして、頑張って働いている大人のほとんどは、
学生時代にいじめた、いじめられた体験を持っている。
そんなことなにもなかったように平気な顔をして、
もう大人になったみたいな顔で生きてるけど、
ふとした瞬間に蘇ってくることがあるのではないかと思う。
特にいじめらていた側は。

大人になっても子どもみたいにいじめみたいなことをする人がいる。
そういう人はいくら年齢を重ねたって、
人間としては赤ん坊以下だと思う。
むしろ生きてるだけで人を幸せにできる赤ん坊のほうが立派だ。

美容師さんはいじめ体験を普通に話をして、
普通に話し終えていたけど、
途中で泣いてしまわないかと心配だった。
でも大人の男性だったので泣かなかった。
私は帰りの車の中で話を思い出してこっそり泣いた。
こんな風に誰かが我慢して泣かなかった分、
他の誰かが泣いて感情をきちんと流しているんだと思った。

2011年2月8日火曜日

すべての物事には順序がある

最近キセルばっかり聞いている。
キセルのギンヤンマとベガと四面道歌がすごく好き。
たぶん死んでしまっても好きなままだ。

今まで観たこともない風景が通り過ぎて行く。
無意識レベルで私が変わっていく。
このままどこへでもいけそうだ。
臆病で、弱虫の自分もいるけど、今はちっぽけだ。
隅のほうで小さくなっておとなしくしている。

それにしても、
mixiやめてよかったとおもう。
やっぱり気持ちが悪いとおもうものは、
きちんと手放していったほうがいいのだ。
気持ちがいいとおもえるものだけを、
手元においていたほうがいい。
そのほうが、よりシンプルになって、
世界もわかりやすくなって、
いろいろなことが循環していく。

全てのことは循環している。
巡り巡って自分のところにやってきたものには、
丁寧に大切に最大限の優しさで、
一生懸命やるのが良い。

〈信号が青にかわり、わたしは、ゆっくりとこぎだした〉

というのは、華恵の『小学生日記』の中の言葉。
重松清が解説している中の最後の言葉。
つまりこの本の中で一番最後の言葉。
重松清さんもこの言葉が好きだと言っていたけど、
私もこの言葉がとても好きだ。

今日は宮沢賢治でも読んで寝ようかなと。
そんな気分。

2011年2月7日月曜日

つながるひろがる

友達が欲しい、と思ったり、
友達なんていらない、と思ったり、
私は随分他人との繋がりを気にするたちのようだ。

例えば、自分の胸に響く音楽や文章を読んだ時、
それを作った人にすごく親しみを覚えることがある。
現実にいる友達よりも、その音、言葉、
と常に寄り添っていたいと思ったりする。

一旦現実的な色々から自分を遮断して、
自分の中をぐんぐん掘り下げていくことの中にしか、
見出せない深い繋がりが人類にはあるんだと思う。
やはり私のちっぽけな脳みそで判断すべきではないのだ。
ちっぽけな脳みそで考えまくって、
人間の色んな欲望や、弱さや、汚さ、美しさ、を観たあとの言葉。
(一旦この作業をこなさないと、多分気持ちよく先にはいけない。
全てのものごとには順序がある。)

目の前に現れたものを受け入れ続けることの中でしか、
自分の人生の謎は解けない。

思考よとまれ。
新しい世界よ現れろ。

↑呪文。

愛のカタチ

ここのところ毎日12時過ぎくらいまで職場にいる。
火曜日が校了なのでみんなで頑張って夜中まで働いている。
やっぱり、あの追い込む感じは嫌いじゃないなーと改めて思い。
しかし、もういいかなーとも思う。

もう一度「ソーシャル・ネットワーク」が観たい、と思ったら、
近くの映画館ではすでにやってなかった。
今こそ私とって必要なのにな、あの映画。
悔しいから予告でも観よう。

なんだろう。
やはりこうぼんやりとするものがある。
それは、他人というのは人生のところどころで、
ものすごい勢いでやってきて、気が済んだら去って行く、
結局はその繰り返しに違いないということをしみじみと思う。
とは言え、それはやっぱり自分がおびき寄せている部分が大いにある。
イライラ、モヤモヤ日々を過ごしてそのエネルギーを放出していると、
私が無意識のうちに「欲しい」と思っているものを感知して近寄ってくるのだ。
相手のペースに巻き込まれ、洗濯機の中に放り込まれたようになり、
世界が突然、勢いよく回りだす。
過去の事例からいくと、ここで相手のペースに巻き込まれると、
ヘロヘロになって終わる。
こちらはこちらのペースで焦らずやるべきなのだ。
それで離れて行くようなら所詮その程度の関係だ。

「家系図カッター」の感想つづき。
増田セバスチャンのお母さんのこと。
私は彼のお母さんについて書かれている部分を読むたびに、
岡本太郎の母親、岡本かの子を思い出していた。
岡本かの子もまた育児放棄をしており、
泣きわめく赤ん坊の太郎を柱に縛り付けたり、
幼い太郎を寮に預けたりしている。
また岡本家はお金持ちだったので家政婦を雇い、
育児や家事をほとんどその家政婦に任せていたというのも
本で読んだことがある。
なぜ、岡本かの子は自分の子どもをそんな風に扱ったかというと、
自分の創作意欲を子どもに邪魔されたくない、
という“自己愛”だ。
子どもよりも、自分のことが大事だし、好きなのだ。

増田セバスチャンのお母さんも、
そして増田セバスチャン自身も、
自分を愛してやまないのではないかと思う。
尼になったり、芸術家になったり。
彼らはとても愛に溢れている人たちなんだと思う。
ただその愛情のかけかたが、ポイントが、
普通の人たちと違うのだ。

もっと言ってしまえば、
下村早苗容疑者だってそうだったに違いない。
お父さんは高校ラグビーの名監督だし、
離婚をして若い嫁を貰っているし、
さぞかし愛に溢れていたのだろうと想像する。
ただ早苗さんを愛することが出来なかったのだ。

そう考えると愛というものはなんて恐ろしいんだろう。

岡本太郎も子どもは作っていない。
そして、子どもの頃にひどい仕打ちを受けておきながら、
母親をとても愛していた。
「母親がどんな気持ちで自分を産み育てたのか」
というのがよくわかっていたのだ。
川端康成は岡本家の家族間における精神性を高く評価していた。
しかしこれは芸術家親子だから成し得たのだろう。
親も子どもも色々なことが超越できる才能が必要なのだ。

普通一般の理想の家族像というのとは違うかもしれないけれど、
色々な形の家族があるのだろう。
良いも悪いもなく、ただそこにそういう家族が存在して生かされているのだ。

実は「家系図カッター」は村上春樹の「1Q84」ともリンクするものが、
多々あるとは思うのだけど、それはまた後日。
そういえば、村上春樹も子ども作らない主義だなー。

それにしても、あの装丁が一番ずるいところ。
あの目の覚めるようなピンク色に、
かっこよく「子どもは作らない」なんて書かれたら、
スルスルとおびき寄せられて、とりあえず手にとってめくっちゃうもんなぁ。

2011年2月2日水曜日

きになるなる

今気になる人たちの動画を集めてみた。

『cero』
カクバリズムが一押しの若いバンド。
東京の正しいバンドの在り方って感じ。
スティールパンがいい音。


『イルリメ』
3年前ぐらいに行ったカクバリズムのイベントで見たんだよなー。
弾き語りのアルバムを出すそうでそれがなかなかいいモヨウ。


『ウリチパン郡』
とにかくPVがすごいし、5次元文庫愛読者としてはタイトルが気になるところ。
最近オオルタイチもソロアルバムを出したモヨウ。

2011年2月1日火曜日

マイリトルポニー


「家系図カッター」をも一回読み返してみる。

なぜか最初読んだときよりも泣きそうになる部分が増えていた。
色々おもうことはあるのだけど、そのまま通り過ぎて行く感情も多く、
なんとか掴まえた部分を3つ挙げることにする。

①増田セバスチャンという人物について。
彼の様々な側面をおもう。
宗教的観念、商売気質などが彼の先祖の中に見て取れる。
彼がディレクターを努める6%dokidokiのホームページを観たところ、
「センスがいい」ではなく、
「商売うまそう」というのが滲み出ている。
純粋な芸術家というよりも、やはり、
なにか人の心を捉えたり惹き付けるものを見出して、
商売をする才能があるように思う。
それだけの範囲に収まり切れない圧倒的スケールの世界も感じられる。
そして改めて思ったのは、
ポップルズとマイリトルポニーは有無を言わさずかわいいということ。

②ミドリという人物について。
増田セバスチャンが付き合っていた彼女なのだけど、
最後の別れ際がなかなか興味深い。
「小説家になりたい。」とか「アメリカに行きたい。」
という言葉を出したのは男を試したに違いない思った。
暗に「私とお店どっちが大事なの?」
と、聞いているのだ。
きっとずっと我慢し続けていたのだろう。
本当はそんなに寛容じゃない自分を隠しながら、
それでもいつか振り向いてくれるに違いないと思っていたのだ。
きちんと自分を愛して欲しかった。
増田セバスチャンが結局お店を選んだあとの、
彼女の暴れぶりはなかなか凄まじいものがある。
私なんかはプライドが邪魔をして他人にぶつけることが出来ない。
しかし、ちんけなプライドや理性を吹き飛ばして、
平気で嫌がらせをやってのけるタイプの女の人は確実にいる。
そしてそういうタイプに好かれる男の人もいるのだ。
増田セバスチャンのように圧倒的な才能を持つ人に多いのだとおもう。

③育児放棄について。
結局この本に惹かれるのは、
私自身も「育児放棄された」という少なからず意識があるからだと思う。
つまり、私も「育児放棄する可能性」がある、ということだ。
ネグレクト予備軍。
母親はよくこんな風に話す。
「私は放ったらかしで育てられたのよ」と。
軽く話すけれど、それを少し恨んでる風でもある。
たったひとりの時間にどれだけ深い闇の中に入ったのかは
想像するしかないけれど、きっと軽い感情では済まなかっただろう。
増田セバスチャンの家ほどの壮絶さはないけれど、
壊れた家庭内に充満する空気感にリンクするものが少なからずある。
お金でなんでも解決しようとするところや、
子どもにそんなに関心がないところ。
他にも色々思い出す部分はある。
「どれだけ老後一人で寂しい思いをしてしまうとしても、
そこにある孤独は甘んじて受けなければならない。」
時々そんな風に思うことがある。

子どもを産み育てるということ。
そのことをもっと真剣に考えるべきなのだろう。
自分の生い立ちに自信がない人間は、
子どもを産む前に、見たくもない事実にきちんと
向き合わなくてはならないのだ。
そうしないと、悲劇は何度でも繰り返されるのだろう。

そして、そんな風に育児放棄のことばかりを考えてしまう私が、
なぜか地元の子育て情報誌のお手伝いをしているのだから、
なかなか因果が複雑だ。
割り切れない何かがあるのかもしれない。

逆光の頃

最近すごく寝る。
いや今までもどちらかというと寝てたほうだけど、
それがどんどん寝るようになってきた。
今日は1時過ぎに寝て、10時近くまで寝ていた。
9時間は寝ている。

「ずっと寝てたいなー」と思い、
「それって死にたいと同じ意味なのか」と、ふと思ったのだけど、
死んだら眠ることも出来ないから、ちょっと違う。
生の中の眠りだから甘美なのだ。
疑似死、死への憧れ、それは生への執着だ。
私の人生の3分の2は睡眠でいい。

千葉の友達から時々「遊ぼう!」と誘われることに、
私の人生はすごく助かっている。ということに気がつく。
私はだいたい自分から誰かを誘いかけるのが苦手だし、
誰からも誘いかけられなければ、
ずっと家に閉じこもって悶々としていられる性分なので、
腕を引っ張られるみたいに外に連れ出してくれるのはありがたい。
最近はますますそういう傾向にある。

どんどん歳をとっている。
歳をとるということは、ずしっ、とした重みが魂にできることだと思う。
動かなくなる。
私はいつも家のことを考えている。
ずっと家にいたい。家を守りたい。
「守らなくちゃ」と考えている。
いや、これは考えているんじゃない、
血がそんな風に訴えている。
私の力であって、私ではない。
では、私とはなんなのか。

一方で、増田セバスチャンの「家系図カッター」に
どうしようもないシンパシーも感じる。
何かを守りたいと感じるのと同時に、
何もかもから抜け出たいと思う。
考えればいつもその間をいったりきたりしている。
私がこの家からの脱走を試みてもいつも失敗に終わり、
この家に戻ってきてしまうのは、一体なんだろう。
人生はちっとも自由じゃない、選択できない。
一見自由にしている人たちも、
何かのしがらみがあってそこに居て、
そんな風に振る舞っているのではないかと思う。

家にいてよくないことはどうしても笑顔が少なくなることだ。
暗闇の世界がやってきて、暗闇ばかりを私に見せるので。
「どうして私ばっかり」
と泣き言を言いたくなり、実際しくしくと泣いていた時期も通り過ぎ、
私は暗闇を受け入れ、凝視するようになった。
そしてそれにも慣れてしまった。
最近の私の顔はこわい。

全盲ろう人々について考えていた。
テレビに映る全盲ろうの人はとても強くて、
前向きで、キラキラしている。
テレビはそういう聖人みたいな全盲ろうの人しか写さない。
でも絶望から立ち直れない全盲ろうの人もいるんだと思う。
テレビには写さないけど。

善意は人を救えば、傷つけることもする。
その事を知ると、辺り構わず言葉を発することができなくなる。

弱者も強者も、聖人も犯罪者も、
全部に染み入る言葉を使えるようになりたい。
「知ってるよ」
って言ってくれる言葉に出会いたい。
きっと私はそんな言葉たちに救われてなんとかここに居るのだろうから。