2010年11月28日日曜日

言葉のその奥にある風景

ハリーポッターを観る。
まだ最終章のpart1。多分part3までは続くだろう。
それにしてもどれだけハリーポッターで稼ぎたいのだ。
まるで『渡る世間は鬼ばかり』状態だ。
まぁいいけど。

『言葉が足りないとサルになる』を飛ばし読み。
途中興味の無いサッカーの話しなどが挟まれているため。
ほんと自分が興味ないと飛ばしちゃうんだよな。
文面の流れから察して自分にはあまり必要の無い情報だな、
と思ってしまうと読まない。
もしかしたらこの中に有益な情報が隠されているかも?
なんて思っても、面倒が先立って読まない。
あまりよくない傾向だと思うけど、これはもうしょうがない。
大学生の言葉の足りなさを大学の教授が危機感を抱いていて、
問題にしてるんだけど、「確かにこの状況はまずいかもな」と共感しつつ、
完全に言葉が足りないサルの代表みたいな人間が私なのであって、
どうやらそんな若い人たちがいよいよ増えてきて、
世の中まともに話が出来ないサルみたいな人たちで溢れかえっているんだな、
という感慨をもつ。
やはりおじさん達はどうも人間がどんどん劣化しているように感じ、
それがとても心配で、恐ろしく、憂いているらしい。
というか、そもそも大学という存在がほとんどの人間に必要ない、
ということではないか、と私は思う。
そこまで明確に言葉を操る能力を育むシステムが教育現場にないというのもあるし、
ネットやテレビや雑誌の影響で言葉がどんどん変化していて、
それを子ども達はぐんぐん吸収して吐き出している結果だとも言える。
曖昧さや、不明瞭さ、が日本人の持ち味なので、
その性質がどんどん強くなっているというのもあるかもしれない。
そもそも一体なにが起きているのかというと、「幼児化」だ。
幼児が社会に出て社会をまわす。
そんな事が到底できないから、ニートやアルバイトになる。
言葉が足りない。言葉を構築できない。
この能力の欠如。不甲斐なさ。
それは私が随分前から常に感じているものだった。
どんどん言葉を使えなくなって、私たちはどこへ行くのか?
よくわからないけれど、とにかく人は変化をし続けている。
もしかしたら本当にサルになってしまうのかも。
たまの『さよらな人類』が頭をよぎる。

『残酷人生論』を読む。
うーん、池田晶子さんの世界はやはり素晴らしいです。
ある意味これは聖書だと思う。
といっても、仰々しいわけでもなく、
一人の人間の澄み切った思考の繰り返しの中にあるその一端に垣間みる、
神聖さ、のようなもの。
これほどまでに魂に正直で誠実で当たり前な世界があるものだろうか、
と思った。
これを読めばいつだってゼロに戻れると思った。
人間が自分を守るために勝手にこしらえた支離滅裂な思考から、
逃れられる世界がここにある。
言葉を通して、宇宙が垣間見える。
「わからない」が「わかる」。
それは安心だ。
ひとつの考えに縛られるという状況が一番苦しい。
抜け出せない。自由にならない。
魂が泣いているのだ。私を自由にしてくれと。
そして往々にしてそんな自分に自分が気がついていない。
それが一番の悲劇だ。
残りの人生の時間をなるべく宇宙に開いていたい。
そのことで魂が磨かれていけばいいと思った。
ほとんどその事をするために生きてると言っても過言ではない。
世の中には色々な才能を持った人が居て、
それを全うするために生きているのだけど、
私の場合、池田晶子さんが言葉で綴る世界に激しく共鳴し、
その事で自分自身を知るのだった。
他者を知ることは自分を知ること。
どうやって知るのかというと、それは言葉という方法がやはり大きい。
私は私がどういうことに共鳴するのかを誰かに知ってもらいたいし、
共鳴はさらなる共鳴を産み、そこに人との繋がりができることで、
明日を生きて行く活力になる事も知っている。
なるべく色々な人と共鳴したい、
というのが私のスタンスであることを改めて気がつかされる。

印象的な一文を抜粋。


人が、自身の宿命を認識し、それに沿い、その実現のために為される努力、
これが幸福だ。
悪人であるとうい宿命もあるのではないか、そんなのは屁理屈だ。
悪人は自身の悪を認識していない、つまり自身を認識していないのだから、
したがって、それは彼の宿命ではない。
たんに努力をしていないだけである。
人はいかにして自身の宿命を認識すべきか
宿命は魂にあるのだから、「己が魂」を、まずよく認識することである。




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