2011年5月11日水曜日

不安が安心にかわるとき


ここのところ怪我をしている猫の世話に意識が集中している。
母親の病気に加えて新たな心配どころである。
結局私は家族の世話をするためにある命なんだろうとおもう。
もちろんそれが全てではないけど、
かなり大きな部分を占めている。
そして、そのようなことは生きている意味を漠然と感じて、
ひとつの世界を見続ける事が出来て精神が安定する。
嫌だと思っていた他人の世話は、
私をそこに留めておくことのできる唯一の方法だ。

猫も母も若くない。年寄りである。
きっとどちらも私が看取るだろう。
そんな風にして必ずやってくる自分の未来を凝視する。
人間の死に際というか、死に様のようなもの。
佐野洋子さんや、池田晶子さんは、
私の理想の歳の取り方であり死に方をされている。
言葉のひとつひとつ、観ている世界、感じている世界、
その全てが最上だとおもう。
産まれてくるのも一人、死んでゆくのも一人、
この事実をここのところ凝視している。
母親という生き物も勝手なものである。
ぽろっと股の間から一人の人間を産み落として、
かわいがり大切に育てるけれど、
結局のところ自分の楽しみの為に育てるのである。
そして大きくなったら自分の世話をしてもらう。
そんな風にして身の回りに置くのだ。
完全なる孤独にならないように。
そして死んでゆく。
しばらく母親に触っていないけれど、
死に際、手をさすってみたりするのだろう。
猫を触って、たくさん撫でているとよくわかる。
触れられると気持ちがよくて、安心する。
猫は触られたがっている。
たくさん愛されたがっている。
それは私が思っている以上だった。
不安な時の人の手は想像以上に安心する。
私はどれだけの人の不安を安心に変えることが出来るだろう。
不安だらけの世の中で、ただエネルギーを交換するだけで、
私たちは、ふっと心が軽くなって生き伸びることができる。
そんなことができたら、と思う。
そんなことができたら、素晴らしいなぁ。
安定した世界観を持つこと。強く。
ただそれだけで、それは可能なことのようにおもう。

ひねくれ者の私がいやに本当に素直にそんな風に思う事が時々ある。
そんなときうまくのれているのだと思う。
命のリズム、のようなものに。

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