図書館に行く。
2週間ぐらい前から借りたいと思っている本を借りに行ったのだけど、
またしても借りられていた。ちっ。
長嶋有さんの「いろんな気持ちが本当の気持ち」と、
押井守さんの「凡人として生きるということ」を借りる。
長嶋有さんは小説を読もうかとおもったのだけど、
ぱらりとめくって冒頭をちらりと読んだところ、
あんまり読みたくない気分になったので、
エッセイならいけるだろうということで、
エッセイコーナーに向かい見つけ出したもの。
押井守さんの「凡人として生きるということ」は、
以前読んだ事があるのだけど、久々に読み返したくなったので借りた。
あと帰りに古本屋さんに寄って、
大島弓子さんの「グーグーだって猫である」を買う。
押井守さんの「凡人として生きるといういこと」を読んだのだけど、
改めてこの本は名著だと思った。
手元に持っておきたいのでアマゾンで買おうと思う。
本能を大事にしたいとおもう。
これからはもう、ほとんど本能だけでいいんじゃないかと思う。
選び取る事の大切さを思い知らされる。
少なくとも私の身の回りにある最低限のもの、
それは家族であり、猫であり、友達。
偶然なのか必然なのか出会ったもの。
私が愛している言葉、音楽など、すり寄っていきたいもの。
そして、それにすり寄ってくるもの。
そういうものを本能で選び取り大事にしていくという、
人生の基本構造のことを考える。
人は猫と似てる。
共鳴するものにすりすりする。
仲良くしよーよ、とごろごろする。
で、なでなでされるのを待っている。
私が最近やっている事は、
すりすりしてきたやつに、するっと身をひるがえしてみたり、
ぺしっとパンチをしたりしていた。
それはすりすりしてきた人に何か傷つけられたり、
調子をめちゃくちゃにされたりした、苦い思い出があるからだ。
でも、すりすりは、すりすりした事実としてそこにある。
今はもう興味がなくなって、プイっとなったとしても、
すりすりした事実は残っている。
私の本棚やCDラックには私が過去にすりすりした形跡が残っている。
押井さんの本の中に「他者を選び取り、受け入れる事が人生」
という項目がある。
すりすりされる度に他人を受け入れていたらきりがないけれど、
いつか選び取ることをしなくてはいけない。
そもそもすりすりされることなんてあんまりない。
人生の仕組みについて考える。
やるべきことと、やらざるを得ないこと。
私がまっさらにしたかったのは、ゼロに戻したかったのは、
きっと本能を取り戻したかったのだと思う。
ひとりの人間として。一匹の動物として。
傷ついた猫を介抱していくうちに開いていく世界が、
目の前に広がっていく世界が確実にあった。
溢れる豊穣な世界。
人間の本能は豊さそのものだった。
気付かせてくれてありがとう猫。
君は神様からの贈り物だよ。
0 件のコメント:
コメントを投稿