2011年5月18日水曜日

普通とか変とか

岩手に農業研修に行ってると思ってた友人が、
実は災害ボランティアに参加していると知った。
その事をお父さんに言ったら、
「お金ももらえないのに仕事をするなんてありえない」
というようなことを言っていて、
あー、うちの親父だわ、と思った。
ちなみにお父さんは桜を愛でる気持ちが解らないと、
桜を観るたびに言っている。
そして今日はそんなお父さんから、
母親の前にお見合いをした女性の話しと、
若い頃はバイクに乗っていた話しを初めて聞いた。
今までそんな話し聞いたことがなかったので驚いた。
私が知らないことはたくさんあるんだなぁ、と思った。

八丈島に行って友人達と飲みながら話しをしていた夜、
一人の友達が「自分は普通の人間だ」という話しをしていた。
確かに普通である。
内輪では劇的におもしろいことを言うので、
そこらの芸人よりおもしろいんじゃないかと思うほどなのだけど、
けして芸人にはならないタイプだ。
そんな素人はたくさん居るのだろうけど、
そんな素人が居なくなったら世の中相当つまらないだろう。
普通の考え方で、普通の生き方をして、普通に死ぬのだ。
しかし、普通も神懸かり的に普通なので、
もはや普通と言っていいのかわからなくなる。

私は普通になりたいと思っていた時期があるのだけど、
今またそういう時期に差し掛かっている。
「凡人として生きるということ」を読んだ影響もあり、
私は自分の中の普通を貫き通したいと思っている。
私は今まで、「私は変だ」と思っていたのだけど、
「私が変」なのではなくて、変な人を見つける才能がある、
だけなのではないかと思った。
そもそも「変な人」とは何か。
というか、「普通」とは何なのか。
その辺の定義が自分の中で定まっていないので、
このような話しは無意味なのかもしれないけれど、
やはりここはとにかく、
「人生に美学がある」ということが言えるかもしれない。
私の美学とはなんなのか。
人生に一貫して表現されている世界。
その人が言いたいこと。
それは人生に現れている。

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