岩手に農業研修に行ってると思ってた友人が、
実は災害ボランティアに参加していると知った。
その事をお父さんに言ったら、
「お金ももらえないのに仕事をするなんてありえない」
というようなことを言っていて、
あー、うちの親父だわ、と思った。
ちなみにお父さんは桜を愛でる気持ちが解らないと、
桜を観るたびに言っている。
そして今日はそんなお父さんから、
母親の前にお見合いをした女性の話しと、
若い頃はバイクに乗っていた話しを初めて聞いた。
今までそんな話し聞いたことがなかったので驚いた。
私が知らないことはたくさんあるんだなぁ、と思った。
八丈島に行って友人達と飲みながら話しをしていた夜、
一人の友達が「自分は普通の人間だ」という話しをしていた。
確かに普通である。
内輪では劇的におもしろいことを言うので、
そこらの芸人よりおもしろいんじゃないかと思うほどなのだけど、
けして芸人にはならないタイプだ。
そんな素人はたくさん居るのだろうけど、
そんな素人が居なくなったら世の中相当つまらないだろう。
普通の考え方で、普通の生き方をして、普通に死ぬのだ。
しかし、普通も神懸かり的に普通なので、
もはや普通と言っていいのかわからなくなる。
私は普通になりたいと思っていた時期があるのだけど、
今またそういう時期に差し掛かっている。
「凡人として生きるということ」を読んだ影響もあり、
私は自分の中の普通を貫き通したいと思っている。
私は今まで、「私は変だ」と思っていたのだけど、
「私が変」なのではなくて、変な人を見つける才能がある、
だけなのではないかと思った。
そもそも「変な人」とは何か。
というか、「普通」とは何なのか。
その辺の定義が自分の中で定まっていないので、
このような話しは無意味なのかもしれないけれど、
やはりここはとにかく、
「人生に美学がある」ということが言えるかもしれない。
私の美学とはなんなのか。
人生に一貫して表現されている世界。
その人が言いたいこと。
それは人生に現れている。
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