2011年2月14日月曜日

生誕100年

というわけで今年は岡本太郎生誕100年です。
3月8日から東京国立近代美術館で展示されるらしいのだけど、
3月5日、6日と上京する予定の私としては、
延泊して初日にいくしかないと思うのです。メラメラ。

図書館でゴーガンの画集を借りる。
「われわれはどこから来たのか?われわれは何者か?われわれはどこへ行くのか?」
という絵は題名もさながらおもしろい絵。
西洋文明に嘆いて、タヒチに渡りタヒチの絵を書き続けたゴーガンは、
西洋人には無くてタヒチの人たちにあるものを見出していたのだ思う。
われわれは生にどのようなイメージを抱くのか。
つまり生とはなにか。
この辺はこっそりと個人的にどんどん深めていきたい課題。

「ハートロッカー」という映画を見てみる。
爆弾処理班の米兵の極限状態をものすごくリアルに描いている映画。
これは演技がすごいなぁーとほんとに感激した。ちなみに制作費は16億円。
監督が女の人というのもすごい。
冒頭にも言葉があったけど、「戦争は麻薬」というのがわかる。
やっぱり殺し合いがしたい人たちっているんじゃないかと思った。
そういう性分というか。それにしか興味が無いというか。
宗教の問題だとか、国がとか、政治がとか、
なんて言ってるけど、他に人生かけるものがないから、
そういうものにどんどん突っ込んでいってしまっていて、
しかも一回その世界を知ると、のめり込んでしまって、
抜け出したくても抜け出せない状況になるのではないかと思った。
戦争はやりたい人たちがやればいいのだ。
殺しあいたければ殺しあえばいい。
その代わり、関係ない人たちは巻き込まないでほしい。
無差別殺人、無差別テロ、広島長崎の原爆は想像力が無さすぎる。
(いや、逆にありすぎるのか?)
しかし、そういう殺しあいたい人たちが、
国の実権を握ってしまうというのが一番おそろしい。
そんで、やっぱり男なんだよなー。
無茶をしたがったり、命を粗末にしたがるのは。
そんでもって今や女も子どもを放ったらかすんだから手に負えない。
民族浄化という歴史にも目を向けたい。
人は簡単に他者を排除しようとする。
その事実から目を離さないようにしたい。
人が人を裁いて死刑という判決が下される事実があり、
そしてそれを平然と受け入れられている社会に生きていることを、
自覚していたい。
人間とはそういう風にいつの時代も
残酷で野蛮で気持ち悪い生き物であることを、
肝に命じておきたい。

NHKの無縁社会特集は観ていないけれど、
何年か前に派遣切りが流行った時に派遣社員の悲惨な現実特集をやっていて、
ただひたすらに、どうしようもない気持ちにさせられた覚えがあり、
きっと今回もただひたすらに、
どうしようもない気持ちにさせられる番組内容であったことは想像がつく。
バツイチ40代後半の上司はこの番組をみて、とある提案をしていた。
身よりもないし、仕事もないから、
別にもう死んでもいいかな、と思っている人が集まって、
楽に死ねるような宗教団体があったらいいのにと言っていた。
「前向きな自殺」があってもいいのではないかと。
しかし、よっぽど現実的に追いつめられてないと、
自ら死は選べないのが人間なのではないかと思ったりもするので、
死のもとに集まって、結果的に生に希望を持つことも
あるのではないかと思う。
「無縁仏」
先祖に背を向けて誰とも繋がれずに死んでいく人が、
ますます増えていく。
きっと先祖は誰かと縁を作って、
血をこの世に遺すことを望んでいるのだ。
しかし、それをしようとしな、できないのは、
一体現代の私たちに何が起きているのだろう。
遺伝子の繰り返しの螺旋から降りるという意思は、
一体どういう現象なんだろう。
これはもしかして、本当に終わりの始まりなんだろうか。

「ハートロッカー」を観ていて、
最後のほうで体中に爆弾を巻き付けられたおじさんが、
まだ生きたいのに、自爆してしまうシーンがあって、
なんか、あの時に人っていうのは死ぬ時こんな感じか、
っていうのが、じわっ、と生々しく伝わってきた。
ぞっとするぐらい何もなくなる。
もちろん何もなくなったらぞっとすることもない。
それぐらいに何もなくなるのだ。

やはり、ここのところ、とても暗いことばかりを考えていたけれど、
岡本太郎の「絶望は祭り」という言葉が頭から離れない。
結局人間のエネルギーの源は、
現実を直視したときに見える絶望から立ちあがる反対の世界、
つまり希望を見る力だと考える。

2 件のコメント:

  1. 絶望は希望の一つの形態だ、と安部公房もどこかで言っていたような気がします

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  2. てことは、世の中そんなに怖いものがないような気がしないでもないです。

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