2011年2月1日火曜日

逆光の頃

最近すごく寝る。
いや今までもどちらかというと寝てたほうだけど、
それがどんどん寝るようになってきた。
今日は1時過ぎに寝て、10時近くまで寝ていた。
9時間は寝ている。

「ずっと寝てたいなー」と思い、
「それって死にたいと同じ意味なのか」と、ふと思ったのだけど、
死んだら眠ることも出来ないから、ちょっと違う。
生の中の眠りだから甘美なのだ。
疑似死、死への憧れ、それは生への執着だ。
私の人生の3分の2は睡眠でいい。

千葉の友達から時々「遊ぼう!」と誘われることに、
私の人生はすごく助かっている。ということに気がつく。
私はだいたい自分から誰かを誘いかけるのが苦手だし、
誰からも誘いかけられなければ、
ずっと家に閉じこもって悶々としていられる性分なので、
腕を引っ張られるみたいに外に連れ出してくれるのはありがたい。
最近はますますそういう傾向にある。

どんどん歳をとっている。
歳をとるということは、ずしっ、とした重みが魂にできることだと思う。
動かなくなる。
私はいつも家のことを考えている。
ずっと家にいたい。家を守りたい。
「守らなくちゃ」と考えている。
いや、これは考えているんじゃない、
血がそんな風に訴えている。
私の力であって、私ではない。
では、私とはなんなのか。

一方で、増田セバスチャンの「家系図カッター」に
どうしようもないシンパシーも感じる。
何かを守りたいと感じるのと同時に、
何もかもから抜け出たいと思う。
考えればいつもその間をいったりきたりしている。
私がこの家からの脱走を試みてもいつも失敗に終わり、
この家に戻ってきてしまうのは、一体なんだろう。
人生はちっとも自由じゃない、選択できない。
一見自由にしている人たちも、
何かのしがらみがあってそこに居て、
そんな風に振る舞っているのではないかと思う。

家にいてよくないことはどうしても笑顔が少なくなることだ。
暗闇の世界がやってきて、暗闇ばかりを私に見せるので。
「どうして私ばっかり」
と泣き言を言いたくなり、実際しくしくと泣いていた時期も通り過ぎ、
私は暗闇を受け入れ、凝視するようになった。
そしてそれにも慣れてしまった。
最近の私の顔はこわい。

全盲ろう人々について考えていた。
テレビに映る全盲ろうの人はとても強くて、
前向きで、キラキラしている。
テレビはそういう聖人みたいな全盲ろうの人しか写さない。
でも絶望から立ち直れない全盲ろうの人もいるんだと思う。
テレビには写さないけど。

善意は人を救えば、傷つけることもする。
その事を知ると、辺り構わず言葉を発することができなくなる。

弱者も強者も、聖人も犯罪者も、
全部に染み入る言葉を使えるようになりたい。
「知ってるよ」
って言ってくれる言葉に出会いたい。
きっと私はそんな言葉たちに救われてなんとかここに居るのだろうから。

0 件のコメント:

コメントを投稿