ここのところ毎日12時過ぎくらいまで職場にいる。
火曜日が校了なのでみんなで頑張って夜中まで働いている。
やっぱり、あの追い込む感じは嫌いじゃないなーと改めて思い。
しかし、もういいかなーとも思う。
もう一度「ソーシャル・ネットワーク」が観たい、と思ったら、
近くの映画館ではすでにやってなかった。
今こそ私とって必要なのにな、あの映画。
悔しいから予告でも観よう。
なんだろう。
やはりこうぼんやりとするものがある。
それは、他人というのは人生のところどころで、
ものすごい勢いでやってきて、気が済んだら去って行く、
結局はその繰り返しに違いないということをしみじみと思う。
とは言え、それはやっぱり自分がおびき寄せている部分が大いにある。
イライラ、モヤモヤ日々を過ごしてそのエネルギーを放出していると、
私が無意識のうちに「欲しい」と思っているものを感知して近寄ってくるのだ。
相手のペースに巻き込まれ、洗濯機の中に放り込まれたようになり、
世界が突然、勢いよく回りだす。
過去の事例からいくと、ここで相手のペースに巻き込まれると、
ヘロヘロになって終わる。
こちらはこちらのペースで焦らずやるべきなのだ。
それで離れて行くようなら所詮その程度の関係だ。
「家系図カッター」の感想つづき。
増田セバスチャンのお母さんのこと。
私は彼のお母さんについて書かれている部分を読むたびに、
岡本太郎の母親、岡本かの子を思い出していた。
岡本かの子もまた育児放棄をしており、
泣きわめく赤ん坊の太郎を柱に縛り付けたり、
幼い太郎を寮に預けたりしている。
また岡本家はお金持ちだったので家政婦を雇い、
育児や家事をほとんどその家政婦に任せていたというのも
本で読んだことがある。
なぜ、岡本かの子は自分の子どもをそんな風に扱ったかというと、
自分の創作意欲を子どもに邪魔されたくない、
という“自己愛”だ。
子どもよりも、自分のことが大事だし、好きなのだ。
増田セバスチャンのお母さんも、
そして増田セバスチャン自身も、
自分を愛してやまないのではないかと思う。
尼になったり、芸術家になったり。
彼らはとても愛に溢れている人たちなんだと思う。
ただその愛情のかけかたが、ポイントが、
普通の人たちと違うのだ。
もっと言ってしまえば、
下村早苗容疑者だってそうだったに違いない。
お父さんは高校ラグビーの名監督だし、
離婚をして若い嫁を貰っているし、
さぞかし愛に溢れていたのだろうと想像する。
ただ早苗さんを愛することが出来なかったのだ。
そう考えると愛というものはなんて恐ろしいんだろう。
岡本太郎も子どもは作っていない。
そして、子どもの頃にひどい仕打ちを受けておきながら、
母親をとても愛していた。
「母親がどんな気持ちで自分を産み育てたのか」
というのがよくわかっていたのだ。
川端康成は岡本家の家族間における精神性を高く評価していた。
しかしこれは芸術家親子だから成し得たのだろう。
親も子どもも色々なことが超越できる才能が必要なのだ。
普通一般の理想の家族像というのとは違うかもしれないけれど、
色々な形の家族があるのだろう。
良いも悪いもなく、ただそこにそういう家族が存在して生かされているのだ。
実は「家系図カッター」は村上春樹の「1Q84」ともリンクするものが、
多々あるとは思うのだけど、それはまた後日。
そういえば、村上春樹も子ども作らない主義だなー。
それにしても、あの装丁が一番ずるいところ。
あの目の覚めるようなピンク色に、
かっこよく「子どもは作らない」なんて書かれたら、
スルスルとおびき寄せられて、とりあえず手にとってめくっちゃうもんなぁ。
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