2011年2月15日火曜日

初詣

健康ランドに死ぬまで居ようと決意して、
55日間無銭宿泊した60歳無職が逮捕された話は、
わりとツボでした。

昨日は大雪で、会社から家に帰るのに1時間30分かかった。
今朝、山道を走っていたら、道の途中の至る所に
車が無人で放置されていて、
大雪でにっちもさっちもいかなくなったことが想像できる。
雪に慣れてない人たちにとって雪は降りすぎるとこわい。

今日は伊勢神宮の外宮と内宮、それと猿田彦神社におそめの初詣。
昨日の雪の影響で人少ないかと思ったけど、
全然そんなことはなく、相変わらずたくさんの参拝客でにぎわっていた。
残ってる雪を踏みしめながら、いろいろ、
ほんとうにいろいろなことを考えていたのだけど、
やっぱりあの空間でしか考えつかないことや、
見えない内的世界がいくつもあるということに気がつく。

他の人たちも何も考えてない風に、
がやがやとお参りしていたけれど、
きっと普段と気持ちや考え方が少し違うのだろうと思った。
老若男女問わず、スルスルと吸い込まれるみたいにして、
あの場所に集まってきて、手を合わせて、おじぎして、
そんなことがほとんどの日本人の人生の中に、
当たり前に組み込まれていて、
節目節目に来たくなる場所が伊勢神宮だ。

結局、伊勢神宮の存在を考えることは、
自分のことを考えることと繋がっているのだという発見があった。
伊勢神宮はアイデンティティの一部だ。
伊勢神宮を知ることは、自分自身の根っこを知ること。
そんな風に、当たり前に思えた。

かなり畏れ多い発言のような気がしないでもないけど、
自分の外側にあるというよりは、内側にあるような気がしたのだ。
きっと、日本人全員の内側にあるもの。
ただそれを目に見える形にして、実際に行動として、
お参りができるようにしてあるのだと思う。

外宮も内宮も猿田彦も正宮の前に立つとなにも考えられなくなる。
ただ、ぽーんと自分がやってきているという感覚。
頭を下げ、手をたたく。
存在を示す。
それだけで充分な気がしてしまうのだ。
これまで何度もやってきているけれど、
お参りをするときの気持ちはいつも同じだ。
空っぽになる。

おはらい町やおかげ横町はもはやディズニーランドのような、
テーマパークであり、アミューズメント施設のようなふうで、
確固たる地位を築いている。
徹底したおもてなしの演出。
しかし10年ほど前はそうでもなかった。
この勢いはここ5年ぐらいだ。
平成25年の式年遷宮に向けてのものなのか、
そういう時代なのか、全国から伊勢神宮に人がやってくる。

内宮のお参りを終え、宇治橋から見える日本の国旗が印象的だった。
あの場所にある、あの国旗が一番に日本を感じるから、不思議だ。

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