「モテキ」DVDを観る。
まずキャスティング、音楽のチョイス、
全てが神懸かり的な仕事であることに驚いた。
「モテキ」は日本版「500日のサマー」であった。
そして、少し源氏物語の要素もあるのではないかと。
源氏物語は実はまだ読んだことはないのだけど、
ひとりの男を中心として、
色んなタイプの女性と絡んでいく流れが似ている。
こないだ読んだ花村萬月の「触角記」にも似ている。
とにかく色々なことを思いすぎて、
なにか妙な気持ちになってしまい、
しばらくの間ふて寝した。
私は私という人間を生きている。
私という人間は他にはいない。
この場所に住み、この家族と共に生き、この感じ方を、
今この瞬間にしているのは紛れもなくこの宇宙に自分自身ただ一人である、
というこの世の不思議。
なぜ私は私なのか?なんて考えた所で、
なにもわかりわしないのだけど、
今一度考えてみたくなった。
宇宙というこの世界に、漂流しているこの魂。
自発的に幸せであるとか不幸であるとかを考える私。
きっとこの世界の重要な謎を解いた人間は、
常に光り輝きこの世を照らそうとするのだろう。
そして多くの人間から愛されるコツを掴み、
一生涯愛に満たされたまま生き抜いていくのだ。
この簡単な方程式を知っておきながら、
私は絶対にそういう人生を歩むことはできない。
なぜかはわからない。
全身全霊をかけてそういう人生を拒絶する。
そしてそういう人間をみると「いいなぁ」と思う。
私もそんな風に生きることが出来たらなぁ、
と思うが、することができない。
なぜか?
それが私という人間だからだ。
まだ28年しか生きていないけれど、
私は徐々に私という人間を自分で掴みかけてはいる。
もちろん錯覚かもしれない。
そしてそれが世界を狭めることになっているのかもしれない。
そうであったとしても確実に世界は前よりも自由になっている。
私という人間の中でだけども。
それぞれ背負っているものの質も形も重さも違う。
やるべき課題も全然違う。
私の人生は、常に私だけのものである。
そして私だけの旅が続いている。
その点において、全ての人たちと解りあえる。
「モテキ」を観ていて、特定の誰かと強く結ばれることについて考えた。
自分が自分の欲求を満たす為に誰かを求めることはたやすい。
しかし欲求は人生のところどころで変化する。
誰かと共に人生を歩むのは時に心強く、時に面倒だ。
許容と拒絶を繰り返しながら共に生きる。
しかし、人との出会いや別れの繰り返しにうんざりして、
人はひとりの誰かと共に生きようと決めるのかもしれない。
出会いと別れを繰り返しながら、
その度に変化をしながら、
私たちはなにかになるべくどこかに流れていく。
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