「ノルウェイの森」観てきました。
映画の時間まで1時間ほどあったので、
本屋さんに行って、時間つぶしに良さそうな文庫本を選んでいると、
水木しげるの「妖怪になりたい」という本が目に留まり購入。
これがおもしろいのなんのって。
“楽園学入門−私の仕事と生活”というタイトルのエッセイの中のこの文章は、
今年一番おもしろいと思った文章かもしれない。
以下抜粋。
食後タバコを吸うのが唯一のたのしみだったが(略)
医者にタバコをやめたほうがよいといわれて禁煙、
今は何一つたのしみがない。
強いてたのしみといえば、人の大勢集まる会合なぞで、
「オマンコ」というような言葉を何気なく口にして、
相手がおどろくのをたのしむぐらいのことで、
午前3時まで仕事をしている。
そんな水木ワールドにどっぷり浸かったのはよいけれど、
「ノルウェイの森」の前に読むのに適切な本だったとは言えず、
映画はなんだかしらけてしまった。
いや、それなりに楽しめたしおもしろかったし、
映像も美しいし、役者もよかったのだけど、
うーん、松山ケンイチ演じる主人公のワタナベに対して
ずっとイライラしっぱなしであった。
本読んだときこんなにイライラしたかなぁ、
と思ったが多分私の考え方感じ方に変化があったんだと思う。
もちろん水木しげるの本を読んでいたのも影響があっただろう。
村上春樹の独特の文章で語られる魅力的な主人公も、
映像にし、台詞だけを抜き取ってしまうと、
どうも薄い人物像になってしまっていて、
若さゆえの一方的な感情がより強調されていたように思う。
そして私はこんな風に考えた。
直子が死んだのはワタナベのせいだと。
ワタナベがいなかったらきっと直子は生きていたのではないか、
とも思った。
ワタナベは人間としての責任と、愛や恋といった幻想が、
混ざりあってとても複雑な気持ちを抱いていて、
それが直子は負担だったのではないか、と思った。
今回はなぜだか直子に感情移入してしまい、
ワタナベのひとりよがりぶりにイライラしてしまったのだ。
結局本当にワタナベはワタナベ自身を、
『ひどくややこしい場所に僕を運び込んでいた』んだのだろう。
ちなみに水木しげるのエッセイで太宰治について語られていた。
とても意外な組み合わせだけど、水木しげるは太宰治について、
こんな風に語っている。
南方で原始的な土人の生き方に共鳴して帰ってきたものだから、
ぼくはひどく病的な文学に出くわした感じがした。
人間は本質的には犬、猫、シラミ、毛ジラミのたぐいとたいして
変わらないものだから、あまりくよくよしたって始まらないのだ。
まあ一例が、原爆ひとつにしても、悪いことだと思っていてもいまだに、
制作を中止することもできないのが人間なのだ。
人間サマだからって別にシンコクがることはない。
失格したって落第したってどうってことはない。
全ては大地に帰るのだ。
いちいち些細な人間関係を顕微鏡的神経で、眺め廻してみたところで、
そこにはなにもない。
土人に親愛の情をこめて肩をたたかれる方がはるかに荘厳ですらある。
こんな世界から村上春樹の世界を眺めようとしたのが
まず間違いだったのだ。
文学ってものは顕微鏡的神経が極めて突出した人間が、
作り出す世界なのだろう。
そしてそこにある繊細で美しい世界を愛でる。
そういう感覚ももちろんそれなりに持ち合わせているけれど、
水木しげる的世界では何の価値にもならないことに気がつく。
どちらが良いか、というのはなく、
本当にこれは単なる趣味の問題なのだろう。
どちらもとてもよく理解できるし、楽しめる。
その時その時の気分でどちらの世界も味わうことが出来る。
「ノルウェイの森」は「モテキ」ともだぶらして観てしまった。
やはり一人の男が様々な女を通過していく話だったからだ。
ワタナベはどれだけ悲しみの底に突き落とされようとも、
色んな女とセックスしているし、生き続ける。
だったらもう何も悲しいことはない気さえする。
しかも直子役の菊地凛子は「モテキ」で、
バツイチ子持ち元ヤンキー役の印象が強すぎて、
ちっとも20歳に見られなかったのが残念であった。
性的な台詞や濡れ場も多かったけどなんかイマイチ。
実際の人間の口から声に出すには生々しすぎて、
イマジネーションが働かない。
それぞれが文章から感知するのに適した言葉なのだと改めて思った。
なんか、自分もそれなりに歳とってるんだなぁ、
と思った映画だった。
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