2011年1月5日水曜日

文章について

言葉というのは不思議なもので、
ちらっとみた瞬間に全体的な印象が伝わってくる。
「ああ、この文章は魅力的で、
意味のある事が書かれているな」
というのが解る。
スラスラと淀みなく言葉が入ってくる。
まるで体の中に染み込んでいくかんじ。
そういう文章を美しい文章と言うんだろう。
書いてる内容がどんなにくだらなくても、
美しい文章であれば読むに値すると思う。
落語に関心があるのは落語の言葉は美しいからだ。
声に出した時に流れ出る感じがたまらない。

私は人の日記はあまり読まない。
読んだとしても途中で詰まってしまったり、
飽きてしまう事が多いからだ。
書いている人が言いたい事を言うだけの文章は
読んでいて苦しいものがある。
言葉の言い回しもその人自身の独特のものがあり、
考え方のクセや、その人そのものの何かが見える。
それが個性というものであり、
時には「いいな」と思える事もあったりするのだろう。

それは私の日記にも言える。
同じような言い方、同じような考え方、
それが延々にループしているのだろう、というのが解る。
単調で単純。
どんどん思いついた事を垂れ流しているので節操がない。
分かりやすい言葉しか使いたくないし、
人の目を気にしてわざと自分を大きく見せたり、
大げさな言葉も使いたくない。
というかそういう文章がすごく苦手だ。
逆に自分を卑下するような言い回しも嫌い。
でも、いつの間にか本人が気が付かないうちに、
そんな言い回しになっていることが多々ある。

私はこれまであまり本を読んでいるとは言えないけれど、
よしもとばなな、さくらももこ、村上春樹、糸井重里、
あたりの言葉の使い方がすごく好きである。
多分みんな好きだろう。
なんというか、肉がある。
そして骨もある。
ふわっとしていて、うすい黄色のあたたかい世界なのだ。
そういう生き物だったりするのかもしれない。
田口ランディあたりの言い方や感じ方も前は好きだったけど、
なにかがめつさというか、品のなさというか、
自信が無いことの裏返しの大げさな言い回し具合が気になり、
最近はそれほどでもないのだけど、
それでも「おっ」と思う事はときどきある。

やはりプロは違うなーと思うのだけど、
それは持ち合わせた資質と、日々の訓練の賜物なのだろうと思う。
憧れてちょっと真似ぐらいはできるのかもしれないけど、
そこには重みが全くない。
いくら真似たところでそれはニセモノなのであり、
ペラペラの文章なのだ。
どうやったらそんな文章が書けるのか、
なんて考えている時点で、なにか違う気もする。

ま、こんな風にざらっとした部分を地道に掬い取っていくことの中にしか、
道はないのだろう。

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