「ハチはあとあと後悔しないように、
むきだしに感情を発散させていた。
今の悲しみを今だけで終わらせるための、
生きたテクニックだった。」
ツイッターのよしもとばななbotがとても好きだ。
よしもとばななの言葉の技術はやはり抜き差しならぬものがある。
増田セバスチャンの「家系図カッター」を読んだ。
すごかった。
彼の世界はリアリティに溢れすぎていた。
そして残酷と愛がきちんと共存していた。
つまり信用できる大人の文章だった。
色んなことが崩壊しているのだ。
ガラガラと音をたてて崩れている。
家庭も、学校も、国も、今までの思い込みじゃ通用しなくなっている。
つまり人間は変化している。
価値観は常に流動的だ。
当たり前は当たり前でなくなる。
新しい当たり前に塗り替えられる。
若者の無差別殺人も、若い母親の育児放棄も、
命の価値がどんどん薄まっていく。
そして今も鶏が何十万羽と殺されている。
犬や猫は捨てられる。
年寄りは家族に疎まれる。
そういうもの全部を覆い隠して、抱腹して、
人間は今日もへいぜんと笑う。
私ももちろん笑う。
楽しいことを、気持ちがいいことを、安心を、求める。
しかし、それが一体なんだというんだろう。
いや、この長い人生を乗り切るにはそういう時間が必要なのも解っている。
きちんと楽しむ。
色々なことを忘れて、私は私であることを楽しむだろう。
しかし、それがなんだというのだろう。
私と他者の境目が無くなることがある。
ぐちゃぐちゃになり、頭の中が混乱し、
私がわからなくなる。
そして透明になる。
言葉はいい。
ゾロゾロと内側から這い出てくる言葉に集中するだけで、
色々なことが昇華していく気がする。
どんな形でもいい。
それが世の中から求められるものでなくても、
とりあえず吐き出す術を持っているだけでも、
その人は恵まれているのだ。
いい音、いい言葉、とにかく創ることに集中できる人間、
そしてそれを求められる人間はそれだけで幸運だといえるだろう。
私は人間のできるだけ多くのパターンを収集する。
どれだけ人間が思い込みで生きているかを知るために。
人がそこに存在しているには必ずバックボーンがある。
脈々と続いている血の流れがある。
色々な人々が色々な思惑で繋いできた血の表現。
血には全ての情報が詰まっていて、
何も語らなくてもその人はその人としてそこに居る。
そして誰かを惹きつけたり、誰かを不快にさせたりしながら、
一生を過ごす。
この血を次に繋げるべきかどうか。
それは血が語りかけてくる。
血が反応していてもたってもいなくなる。
そして繋がった人々は結婚して子を授かるのだ。
自分の血を理解していれば迷うことも突然苦しむこともない。
徹底的に深化させていくことでしか人は救われない。
血が「きみはもうこの血を次ぎに繋げなくてもいいよ」
と語りかけてきたら繋げないだろう。
結構そこがギリギリのような気がする。
まだ不完全な部分や、目覚めていない部分があるから、
それをこの世に表すために次を遺そうとするかもしれないし。
人間の理性では到底追いつかない世界が、
いつだってどうどうと流れていて、
ここぞという瞬間に、ぐっ、とこの世に現れるのだろう。
世界はパラレルワールド。
ひとつじゃない。
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