池田晶子という人の「残酷人生論」という本を、
いつも手に取れる場所に置いてある。
もう2冊ぐらい買って、車に一冊、鞄に一冊あってもいいぐらいだ。
今日も持て余した時間に本を手に取り、
パラパラとめくっていた。
その中でもこの一文が目に留まる。
幸福とは、要するに、なんでもいいのである
人はなんでもいいとは思わない。
だいたいあれが欲しい、ああなりたい、こうしたい、
と願望や欲望がある。
それが手に入れられないと不幸だとおもう。
その思考回路こそが不幸の源だ、という事に気がついていない。
人は「向上心」であるとか「成長」だとかいう言葉を信じて、
その上、欲望と願望を絡み合わせて物事を考える。
それが悪いとは言わない。
そういう人間が世の中ほとんどで、
ましてやそういうスタイルを軸としている人間がいなければ、
この世のほとんどが無意味なものとなってしまい、
味気ないものとなってしまうだろう。
しかし世の中には本当に色んな人が居るもので、
そういう当たり前の世界が全く通用しない人間が
稀に産まれるのだ。
そういう人間が産まれることで、
当たり前だと信じていた世界が当たり前でなくなり、
新しい世界がじわりじわりと広がっていく。
長年の違和感が文章によって解けていく。
まるで魔法みたいに。
「残酷人生論」というこの本。
残酷の反対は優しさで、優しさの反対は残酷だ。
つまり、優しさは残酷にもなりうるし、
残酷なことが優しさにもなりうる。
優しさと残酷は常に一緒にそこにある。
どこまでも孤独でどこまでも自由、
とてつもなく残酷でとてつもなく優しい。
生ていることと死んでいくこと。
この本はまさしくそういう本だ。
ところで、努力とは、必ず苦しいものである。
楽な努力、そんなものはない。
楽なことは、たんに楽なのであって、そこに努力は伴っていない。
善くなるための努力は、必ず苦しいものである。
しかし、善くなることは幸福になることなのだから、
これをつづめて言うと、
善く苦しむ
苦しみは喜びである
幸福とは、これである。
そして、これ以外の何かではあり得ない。
これを書いていて、なんと多様な精神だろう、と思う。
あちらこちらに点在して、しかも同時にたくさんそこにあって、
世界はめまぐるしく動く。
しかし、人はそんな風に存在しているのものなのだ。
大雑把に捉えようとするから、
訳の分からないことになる。
最初からひとつに定まることのない構造なのだと知っていれば、
より自由になるし、自己矛盾に苦しむこともない。
ほどほどの適当さと寛容さが世界を救うのだ。
もちろん世界というのはworldではない。
一人一人の内側にある世界のこと。
つまりをworldを形成している元素のようなものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿