さっきまでブラマヨが司会の番組を観ていたのだけど、
被害者意識というのはほんとにこわいな、と思った。
全ての犯罪は被害者意識から産まれているのではないだろうか。
自分だけ苦しい、
自分だけ辛い、
自分だけ寂しい、
自分だけ不幸、
どうして自分だけ…。
そういう気持ちがどんどん積もっていくと、
世の中の全てが悪にみえてきて、
突然憎しみや怒りに変わることがあり、
そういう時に犯罪が起きてしまうように思う。
この気持ちは油断するとすぐに心に広がってしまう。
ぐるぐると渦を巻き取り囲み身動きできなくなり、
外界から隔離させられ全然違う所に連れて行ってしまう。
なるべくそのような気持ちにならないようにしたいものだけど、
心が弱っていたり、疲れていたりすると、
するりと隙間から入ってくるのだ。
「しっかりしたいなぁ」となんとなく思う。
何事にも動じない人間でいたいと思う。
些細な事に惑わされない人間でありたいと思う。
まったく動かない石でありたいと思う。
人の気持ちの吐露を受けて、それに巻き込まれないようにする事に、
とてもエネルギーを使う。
色んな人に会うということは色んなエネルギーが通過していくという事で、
それに動じない為の訓練が必要なのではないかと思う。
その為にはやはり一人の時間は欠かせない。
ぐっと内側に向かって集中していく感じ。
それは人によって乱された気を補正していく作業だ。
いつの間にか人から過剰にエネルギーを受けたり、
奪われたりしていることに気付き、それを整える。
ちょっとした切り傷ぐらいならほっとけば自然と治るように、
人間には自己治癒力が備わっている。
自己治癒力を高めていけば、きっと誰にも頼らずにすむ。
心の空洞も自分で埋められる。
そういう能力をもっと高めていきたいと思う。
自分の意志で働こうと思ってたくさん働く人間もいれば、
ほんとはそんなに働きたくないのに働かなくてはならない状況に、
追い込まれている人も居る。
人には様々な状況があるけれど、
「鬱病になりたい」とか「死んでも別に後悔はない」
と言わせるその心の現状はなにか切ないものがある。
そういうどうしようもない感じを抱えながら人は、
生きていかなくてはならないのだろうか。
どうして私はそのような心の吐露を聞いているんだろうか。
結論は出ないけれど、なにか滔々と考えてしまうものがある。
もちろん言った本人はそんな風に他人が気に留めて考えているとは思っていない。
しかしそんな風に自分が発したさ些細な発言でさえ、
何かしらの影響を人に与えて生きていることは、
それなりに自覚したほうがいい。
もちろんまたすぐに別の事を考えだすのだとしても。
そんなことを考えていたらゴミ屋敷でゴミと暮らすおばあさんを思い出した。
ゴミ屋敷のおばあさんは、捨てられたゴミを拾って、
捨てられたゴミと暮らすことを生業としている。
「捨てられたゴミ」はおばあさんの立派な表現の手段なのだ。
きっとおばあさんは何十年も生きてきて、
人生の最後の結論として「捨てられたゴミ」を愛し、
一体化することになったのだ。
そこにある人間のどうしようもなく抜け出せずにいる気持ちのループは、
たくさんいる人間の形態でもそんなに珍しくはないパターンなのではないか、
と思う。
どうしようもない気持ちの収まりどころが、
結局のところ人間をどこかに連れていくのだと思う。
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