2010年12月31日金曜日

もういくつ寝ると

今日は高校時代の友達5人と集まりました。
みんなの一年間の色々を聞いて楽しく過ごしました。

そのあと一番仲が良かった友達と、
二人でお茶をして色々と話をしたのだけど、
「数字で結果を残した方がいい」というような話をされ、
それって私が避けていたことだなーと思い、
なんかなーとたくさんの考えが頭の中を巡りました。
世の中には本当に色々な考え方があり、信じる事があり、
それに基づいてそれぞれ生きているんだと思いました。
ひとつ確実にわかった事。

私は君じゃないし、君は私じゃない。

ただそのことだけが明確になったのでした。
何かを選び取るのはいつも自分自身。
それでもこの時期になったらまた彼女と会って話しをして、
一緒に一年を振り返るでしょう。
彼女には私が持っていない世界があり、
私には彼女が持っていない世界がある。
正反対とも言える価値観を持ちながら、
友人でいられることに、人間としてとても可能性を感じるのです。
そんな2010年最後の日。
明日は2011年最初の日。
みんなが健やかに生きていけますように。
1日、2日、3日とアルバイトがんばります。

2010年12月30日木曜日

割り切れない部分

真実は美しい。
もちろん私の言う真実とは私の中の真実であって、
他人の真実はどうなっているのか知らない。
きっと真実は、すごく孤高で、他を寄せつけず、
かつシンプルで、圧倒的に力強いものだと思うのです。

平安時代のころから、恋の歌は詠まれているのであって、
日本人はそういうものがとても好きなのだと思った。
魂に染み付いているなにかがある。

ほとんどの事は時間が経てば忘れる。
でもちっとも忘れられないことがある。
執着しなければもっと楽に生きていける事を知っているのに、
ずっと執着し続ける。
毎日会っていたり会いたい時に会えてしまうと、
そんな風にはならない。
誰かにずっと恋し続けるには、
ずっと会わないし連絡もしない、
というのがきっと一番いいのだろう。
思えば随分長い間、ドキドキしたり苦しんだりしている。
普通そんなことはあり得ない。
好きになって付き合って毎日会ってそれで終わりだ。
自分でも不思議な世界を生きているなぁ、と思う。
しかし、私はそれがいいのだと思う。
それが日々瑞々しく居るエネルギーになるからだ。

こないだ「スイートリトルライズ」という映画をDVDで観て、
中谷美紀がすごくきれいだなーと思っていると、
ぽっちゃりめの女優さんが出てきて、
「だれだろう?」と思ったら池脇千鶴でびっくりした。
ほんとに太っていた。
でもだらしなく太っていた分めちゃくちゃリアルでエロかった。
たぶんそれを狙っているんだろう。
池脇千鶴といえば「ジョゼと虎と魚たち」を観てないな、
ということに気がつき、さっそくDVDをレンタルした。
この映画は妻夫木のキスがエロいと評判で「どんなものだろう」と、
ワクワクしながら観たらほんとにエロかった。
そして池脇千鶴はがっつり脱いで、完全に乳を出していたので
ある意味「ノルウェイの森」よりも見応えがあった。
次は星野源と坂井真紀との絡みを観る為に、
「ノン子36歳(家事手伝い)」をレンタルしたいのだけど、
地元のレンタルビデオ屋にはなぜか置いていない。

2010年の年末はやたら恋愛映画ばかり観てきたけれども、
結局、人ってすごく孤独だなーと思わせる内容が多かった。
というか、自分がそういうものを感じ取っていた。

「人は大切なものを守る為に嘘をつく」とか、
「自分を確かめる為に恋に落ちる」とか、
なるほどなーと思う言葉をたくさん見つけたように思う。
私たちはひとつひとつ自分の正体を知る為に、
溢れ出る感情のままに行動を起こすのだろう。

水木と太宰

「ノルウェイの森」観てきました。
映画の時間まで1時間ほどあったので、
本屋さんに行って、時間つぶしに良さそうな文庫本を選んでいると、
水木しげるの「妖怪になりたい」という本が目に留まり購入。
これがおもしろいのなんのって。
“楽園学入門−私の仕事と生活”というタイトルのエッセイの中のこの文章は、
今年一番おもしろいと思った文章かもしれない。
以下抜粋。

食後タバコを吸うのが唯一のたのしみだったが(略)
医者にタバコをやめたほうがよいといわれて禁煙、
今は何一つたのしみがない。
強いてたのしみといえば、人の大勢集まる会合なぞで、
「オマンコ」というような言葉を何気なく口にして、
相手がおどろくのをたのしむぐらいのことで、
午前3時まで仕事をしている。

そんな水木ワールドにどっぷり浸かったのはよいけれど、
「ノルウェイの森」の前に読むのに適切な本だったとは言えず、
映画はなんだかしらけてしまった。
いや、それなりに楽しめたしおもしろかったし、
映像も美しいし、役者もよかったのだけど、
うーん、松山ケンイチ演じる主人公のワタナベに対して
ずっとイライラしっぱなしであった。
本読んだときこんなにイライラしたかなぁ、
と思ったが多分私の考え方感じ方に変化があったんだと思う。
もちろん水木しげるの本を読んでいたのも影響があっただろう。
村上春樹の独特の文章で語られる魅力的な主人公も、
映像にし、台詞だけを抜き取ってしまうと、
どうも薄い人物像になってしまっていて、
若さゆえの一方的な感情がより強調されていたように思う。

そして私はこんな風に考えた。
直子が死んだのはワタナベのせいだと。
ワタナベがいなかったらきっと直子は生きていたのではないか、
とも思った。
ワタナベは人間としての責任と、愛や恋といった幻想が、
混ざりあってとても複雑な気持ちを抱いていて、
それが直子は負担だったのではないか、と思った。
今回はなぜだか直子に感情移入してしまい、
ワタナベのひとりよがりぶりにイライラしてしまったのだ。
結局本当にワタナベはワタナベ自身を、
『ひどくややこしい場所に僕を運び込んでいた』んだのだろう。

ちなみに水木しげるのエッセイで太宰治について語られていた。
とても意外な組み合わせだけど、水木しげるは太宰治について、
こんな風に語っている。

南方で原始的な土人の生き方に共鳴して帰ってきたものだから、
ぼくはひどく病的な文学に出くわした感じがした。
人間は本質的には犬、猫、シラミ、毛ジラミのたぐいとたいして
変わらないものだから、あまりくよくよしたって始まらないのだ。
まあ一例が、原爆ひとつにしても、悪いことだと思っていてもいまだに、
制作を中止することもできないのが人間なのだ。
人間サマだからって別にシンコクがることはない。
失格したって落第したってどうってことはない。
全ては大地に帰るのだ。
いちいち些細な人間関係を顕微鏡的神経で、眺め廻してみたところで、
そこにはなにもない。
土人に親愛の情をこめて肩をたたかれる方がはるかに荘厳ですらある。


こんな世界から村上春樹の世界を眺めようとしたのが
まず間違いだったのだ。
文学ってものは顕微鏡的神経が極めて突出した人間が、
作り出す世界なのだろう。
そしてそこにある繊細で美しい世界を愛でる。
そういう感覚ももちろんそれなりに持ち合わせているけれど、
水木しげる的世界では何の価値にもならないことに気がつく。
どちらが良いか、というのはなく、
本当にこれは単なる趣味の問題なのだろう。
どちらもとてもよく理解できるし、楽しめる。
その時その時の気分でどちらの世界も味わうことが出来る。

「ノルウェイの森」は「モテキ」ともだぶらして観てしまった。
やはり一人の男が様々な女を通過していく話だったからだ。
ワタナベはどれだけ悲しみの底に突き落とされようとも、
色んな女とセックスしているし、生き続ける。
だったらもう何も悲しいことはない気さえする。
しかも直子役の菊地凛子は「モテキ」で、
バツイチ子持ち元ヤンキー役の印象が強すぎて、
ちっとも20歳に見られなかったのが残念であった。
性的な台詞や濡れ場も多かったけどなんかイマイチ。
実際の人間の口から声に出すには生々しすぎて、
イマジネーションが働かない。
それぞれが文章から感知するのに適した言葉なのだと改めて思った。

なんか、自分もそれなりに歳とってるんだなぁ、
と思った映画だった。

2010年12月29日水曜日

身もだえる猫

うちの猫ちゃんがぐにゃぐにゃしていたので動画に納めました。
お日様に当たってぐにゃぐにゃして気持ち良さそうです。

今日はレストランでコース料理を食べました。
食べたことのない味ばかり楽しめて味覚が広がる気がしました。
たまに行きたいと思います。
そしてワインも飲みたいです。

2010年12月28日火曜日

なんにもないけどなんでもあるよ












今日はポケデジで近所を撮りました。
どんな写り具合になっているのか、パソコンに繋げないとわからないので、
とても楽しいです。

空気公団のファン投票ベスト「ぼくらの空気公団」も届き、
かなりさわかな世界です。
しばらくこの世界に浸れるといいなーと思います。
死ぬまででもいいかも。

空気公団の「旅をしませんか」すごく大好きな曲。

僕には何にもないよ
だからどこへでも行けるのさ

2010年12月26日日曜日

高湿度


「ノルウェイの森」を観る前にトラン・アン・ユン監督の「夏至」という映画を観た。
映像がとてつもなく美しい!アジアの湿度が伝わってくる。
フランスの美的感覚も融合してなんとも言えない世界観。
これは俄然「ノルウェイの森」が気になるなぁ。
予告の冒頭の台詞が大好き。

「女は不浄の存在だと見なされてきたわ」
「昔は男の頭にも触れなかった」
「ほかの部分にはさわらせるくせに」
「あの部分は高貴だとおもう?」

歴史と、民俗学と、心理学と、哲学と、音楽と、宗教と、科学。
全部が絶妙に取り込まれた読み物があったらおもしろいだろうな。

そういえば、村上春樹の作品は海外では、
「圧倒的なオリジナリティがある」と評価されていて、
それを村上春樹は喜んでいたけど、
確かに日本ではそういった評価の仕方はあまりされない。

日本はオリジナリティがあるというよりも、
どれだけ作品に共感出来たり世界が共有できるかが重要な気がする。
でも結局それがオリジナリティに繋がっていくのかもしれなけど。


言葉ひとつひとつのチョイスや並べ方すべてに、
その人が出てしまうということを意識している人はあまりいない。
何気ない一文で、わかる人には、
その人のほとんどがわかってしまうものなのだ。きっと。

永遠にループ


レイハラカミ氏が来年発売する空気公団の新しいアルバムを
ツイッターで絶賛していたので、すごく空気公団を聞きたくなってyoutubeで検索。
この曲大学生の時すごく聴いたなぁ。
新しいアルバムはやく聴きたいなぁ。

自分で自分の世界を壊したかったんだ、と思った。
わざとぶっ壊れたんだ。
自分で自分が壊れるように仕向けたんだ。
いつまでも執着している世界を断ち切って、
きちんと次にいくために。
後々から考えると、
無意識のうちに自分を取り戻す為の動きをしていることに驚く。
ただ時間が必要なんだろう。
生きれば生きるほど見えてくるものが確かにある。
でも私は、まだまだ不安なんだな。

来年の目標は「甘えないこと、冷静になること」
です。

世界が崩壊する日

兄が10年近く付き合っている彼女と、
2年ぐらい先に結婚するらしい。
そんな人生設計を組み立てることが出来るのがすごいと思う。
そもそも一人の女性と10年付き合うってどういうこと?
兄には「モテキ」的世界はちっとも理解できないだろう。
同じ母親の股から出てきたのに、
こんなにも世界が違うとは、正直生命の神秘だ。
彼らは結婚したら一戸建ての小さな家を買うだろう。
今時の田舎によくある建て売り住宅だ。
そこに二人で住んでやがて子どもをつくる。
人ごとながらなにやらワクワクする話である。

去年もそうだったのだけど、
この時期になると、どかーんと落ち込む。
多分それは気持ちが募りすぎることの反動で、
ちょっとしたことで募らせた想いが見事に崩壊するのだけど、
これがなかなかきつい。
とはいえ、「ああ、もう駄目だな」と呆然として、
ひとしきり静かに泣いたり、テレビ観たり、誰かと話しているうちに、
わりと復活する程度のものだ。
自分で自分を捨てたら終わりだな、と思う。
自分を自分で楽しめるのは自分しかない。
だから自分の人生を自分なりに解釈して自分なりに生きていく。
自分、自分て、どれだけ自分のことしか考えてないんだよ、
とも思うが、自分のことを知らない人に他人の気持ちが解るわけが無い。
そもそも他人の気持ちは想像することしかできない。
そしてその想像も全くの検討違いだったりするものだ。
だからまず自分ありきだ、
そんな風に思えるのに、随分時間がかかった。
何年か経って「そうじゃないんだよなー自分」と、
今の自分が思えるだろうか。
愚かさがひとつでも減っているだろうか。
そんなことを思いながら眠ることにする。

2010年12月25日土曜日

私の人生、私だけの旅

「モテキ」DVDを観る。
まずキャスティング、音楽のチョイス、
全てが神懸かり的な仕事であることに驚いた。
「モテキ」は日本版「500日のサマー」であった。
そして、少し源氏物語の要素もあるのではないかと。
源氏物語は実はまだ読んだことはないのだけど、
ひとりの男を中心として、
色んなタイプの女性と絡んでいく流れが似ている。
こないだ読んだ花村萬月の「触角記」にも似ている。
とにかく色々なことを思いすぎて、
なにか妙な気持ちになってしまい、
しばらくの間ふて寝した。

私は私という人間を生きている。
私という人間は他にはいない。
この場所に住み、この家族と共に生き、この感じ方を、
今この瞬間にしているのは紛れもなくこの宇宙に自分自身ただ一人である、
というこの世の不思議。
なぜ私は私なのか?なんて考えた所で、
なにもわかりわしないのだけど、
今一度考えてみたくなった。
宇宙というこの世界に、漂流しているこの魂。
自発的に幸せであるとか不幸であるとかを考える私。
きっとこの世界の重要な謎を解いた人間は、
常に光り輝きこの世を照らそうとするのだろう。
そして多くの人間から愛されるコツを掴み、
一生涯愛に満たされたまま生き抜いていくのだ。
この簡単な方程式を知っておきながら、
私は絶対にそういう人生を歩むことはできない。
なぜかはわからない。
全身全霊をかけてそういう人生を拒絶する。
そしてそういう人間をみると「いいなぁ」と思う。
私もそんな風に生きることが出来たらなぁ、
と思うが、することができない。
なぜか?
それが私という人間だからだ。
まだ28年しか生きていないけれど、
私は徐々に私という人間を自分で掴みかけてはいる。
もちろん錯覚かもしれない。
そしてそれが世界を狭めることになっているのかもしれない。
そうであったとしても確実に世界は前よりも自由になっている。
私という人間の中でだけども。
それぞれ背負っているものの質も形も重さも違う。
やるべき課題も全然違う。
私の人生は、常に私だけのものである。
そして私だけの旅が続いている。
その点において、全ての人たちと解りあえる。
「モテキ」を観ていて、特定の誰かと強く結ばれることについて考えた。
自分が自分の欲求を満たす為に誰かを求めることはたやすい。
しかし欲求は人生のところどころで変化する。
誰かと共に人生を歩むのは時に心強く、時に面倒だ。
許容と拒絶を繰り返しながら共に生きる。
しかし、人との出会いや別れの繰り返しにうんざりして、
人はひとりの誰かと共に生きようと決めるのかもしれない。
出会いと別れを繰り返しながら、
その度に変化をしながら、
私たちはなにかになるべくどこかに流れていく。

2010年12月24日金曜日

変わること変わらないこと

ポケデジで試し撮り。渋いな。
今日は久しぶりに前髪を短く切りました。
ポケデジで外で試しに撮ってみると、肌とか緑とか空がかなりいい!
やたら自分の写真ばかりをブログにアップするアイドル気分で
自分ばかりパシャパシャ撮ってみました。
夢はネットアイドルです。
動画も撮ったけど、なんかいまいちだったので、
明日天気がよかったら近所の芝生で撮ったりしようと思います。自分を。

今日はクリスマスらしく、
ケーキを買ったりチキンを買ったりグラタンを焼いたりしました。
グラタンはクリスマスぽいのか?と聞かれたらいまいちですが、
とにかく何もしないよりは何かしたほうがいいだろう、
という強迫観念からクリスマスを楽しみました。
そしてビールとチキンを食べながらグラタンを作るのは
すごく楽しいということに気がつきました。

色んなことがぐるーんと頭のなかを巡り、
「めんどくさいな、いろいろ」
とちょっと溜め息をつきたくなるような気持ちになった。
動じない自分になりたいと切実に思う。
基本的に私はあんまり自分の意思というものがない。
「これやって」と言われたら、
簡単に「うん」と言ってしまったりする。
そこから抜け出たいな、と思いながらも抜け出れなかったり。
どんどん絡めとられていく。
そんなことしてる場合なのかな、と思うけれど、
私が誰を助けたいと思うかは私の自由なはずなのだけど、
意思とか思いとか現実がうまく噛み合ない。
それでも時はどんどん流れているわけで。
変わりたくなくても変わっていくことがあって、
逆に変わって欲しいことがきちんと変わっていったりしていて、
その中でも時間が経てば経つほど積み重なっていく世界があるのは確かだ。
どこか遠くに出掛けても、
やっぱり気持ちが戻ってくる場所があることは、
嬉しいし、心強い。
そして、ああこの人はもうこの位置から、
この姿勢から変わらないんだろうなという覚悟が見えると、
すごく安心する。
人はそんな風にして大人になるんだと思った。
大事なもの、自分の根っこにつねにあるもの、
それだけでもう充分です、というスタンスを持つこと。
そういう人はそれだけで強い。
私が小さい頃から憧れていた大人はきっと、
そういう安心感が漂う大人だ。
単純に真似したい。
私たちはきっと憧れるものを真似し続けることで、
なりたい自分になるんだと思う。
もっとシンプルになろう。

恋愛研究家宣言

「モテキ」借りました。
毎日ツタヤに通ってやっとこさ借りることができました。
こんなに頑張ってDVDをレンタルしたのは初めてかもしれません。
5枚で1000円セールだったので、
中谷美紀が出演している江國香織原作の、
あまりおもしろそうではなさそうな最新映画を借りました。
それから、ずっと観てみたいと思っていた、
「ノルウェイの森」の監督の映画の「夏至」も。
勢い余って6枚借りましたが、ポイントが溜まっていたので、
割り引いてもらい結局1000円でした。
映画の感想はまた追々。

人は部屋みたいなもんだと思っている。
人はそれぞれの部屋を抱えて歩いている。
私はわりと自分の部屋を見せびらかしたい方だ。
こんな風に感じたり、こんな事に興味を持ったり、
こういう考え方をします、というのを見せる。
かなりオープンな性格だと言える。
なぜこんなにオープンになれるのかというと、
この世で生きているうちに自分を本当に理解してもらえる人に出会いたい、
というかなり自分中心的な欲求が起因しているように思う。
そしてもちろんだいたいの人は私をスルーする。
人は私の部屋を見ても何も思わないので反応はない。
しかし逆にここでたくさんの人から反応が来られても困るし、
意味はないので、それでいいのだけどやはり寂しい。
結局人間はひとりである事を痛感する。
でも、極まれに反応してくれる人と出会う。
そしてその反応の仕方が尋常じゃない。
その人の中でなにかすごいことが起きる。
ずっとモヤモヤしていた何かが繋がっているような感じ。
それが恋なのだと思う。
そんな人を眺めていたら今一度、
ものすごく冷静に恋について分析したいと思った。
恋とは一体なんなのか?それは愛に通づるのか?
それともただの独りよがりの錯覚なのか?
その辺をもっと当事者同志で語り合った方がいいのではないだろうか。
もちろんそこにはロマンチックさは全くない。
変にうわずった情緒もない。
そういった恋愛という名の一連のまやかしを飛び越えた先に、
恋という現象の本当の姿が浮き彫りになるのではないかと思う。
とにかく恋真っ最中の人はものすごく楽しそうである。
しかし楽しそうなのと同時にとても苦しそうでもある。
その苦しみは欲望の爆発からくるものだ。
全部の感覚が解き放たれるからだ。
そして恋してる方とされている方では温度差がものすごくあるという事実。
もし私が男でヤリチンだったらこういうのを見逃さずに、
きちんと頂くのだろう、という憶測。
恋とはほんとに妙な現象であると同時に、
やはりこの長い人生を生きていく間には、
全く無いよりはあった方がおもしろい世界であるし、
エッセンスだということを強く感じる。
ファンヒーターの灯油が切れたので続きは
また恋愛に対する思いが募ったら書く事にする。
あ、「500日のサマー」借りれば良かったなぁ。
これを観てない恋愛中の人は一度見た方がいい。おすすめ。

2010年12月22日水曜日

まつ毛パーマ

まつ毛にパーマしてみた。
すごくよかった。
これからも定期的にしようと思う。

自分のみっともない部分がやけに目がとまる一日だった。
執着したくないのにいつの間にか執着している。
それだけで頭の中がいっぱいになる。
他に何もしない。
ただ気持ちがざわざわしているだけ。
きっとずっと一緒にいたらすごくつまらない種類の人間だろう。
あんまり喋りたがらないし。
突拍子もないことをしでかして、
おもしろい事するわけでもないし。
相手に合わせる事に精一杯になって、
ちっとも気の利いた事が話せないし。
なんかちょっと常に憂鬱そうで不機嫌だし。

そんな普段の自分を知っているから、
私は不安になる。
そんなことに不安になってる自分が不甲斐なくて、
さらに嫌な気持ちになる。
とはいえそんなことをしても無益だし、
ちっとも楽しくないことを知っているので、
あまりハマらないようにする。
だけどそんな世界も人にはあって、
いいのではないかと思ったりもする。
そんなことも含めて人はおもしろい。

2010年12月21日火曜日

ポコニャンについて

ポコニャンだよ。
千葉の友達から早めのクリスマスプレゼントが届きました。
「ポコメゾン2010パート2」と
やけのはらと、ドリアンのアルバムを焼いたCD−R。
ポコメゾンというのは、「ポコニャン」というユニットを組んでいる、
友人DJ二人組によってセレクトされた曲が集められたCD。
彼らがセレクトする曲には大学生の頃から一貫してある、
さわやかさや、切なさが、変わらずにあります。
実に“ポコニャン的なもの”がそこにあるわけです。

大学を卒業してからもう6年経つけれど、
彼らは毎年1年に3回ぐらい、関東近辺のコテージを借りて、
パーティをします。
パーティというと何か不純な感じもしますが、
彼らが主催すると実に健全な内容になります。
年頃の男女が集まるにもかかわらず、
めんどくさいあれこれが全くなく、
純粋に音楽と酒とご飯をみんなで楽しむために集うわけです。
(もちろん私が知らない所にあるかもしれないけれど)
私はそういう空気が気に入って、
大学を卒業して三重に帰ったにもかかわらず、
誘ってもらえるので時々参加しています。

そういう感じは歳をとると、
消えていきがちな空気なのですが、
彼らはきちんと保持しつつ歳を重ねていて、
そういうことが本当に単純に嬉しいのです。

とはいえ、大学生から社会人になって、
変わったこともたくさんあるだろうし、
世の中にあるたくさんの考え方に揺らいだ事もあったでしょう。
でも“ポコニャン”というものに戻って集うのは、
きっと人生で大切な何かを“ポコニャン”に
それぞれが見出しているのだと思います。
28歳でそういう風に考えられる大人になれたことが、
私は単純に感動してしまいます。
「ああ、みんな無事だったんだ。よかった。」
という安心感のようなもの。
“ポコニャン”を支えているものというか、
“ポコニャン”そのものはそういうものの塊なんじゃないかと
思います。

ポコニャンは「遊ぼうよ!」という気持ちそのままでもあります。
30歳になっても、40歳になっても、
ポコニャンが続きますように。
なんとなくそんな風に思ったのでした。

2010年12月20日月曜日

恥をしのんで声に出すこと

今日は一日中、中谷美紀の「クロニック・ラブ」が
頭の中で流れていました。メロメロ。
で、ちょっと調べたら元曲があって、
聴いたらめちゃくちゃよかった。
教授歌ってるし!
後半の日本語なんていってるんだろう、と思って聴いてみると、

ぼくにははじめとおわりがあるんだ
こうしてながいあいだそらをみてる
おんがくいつまでもつづくおんがく
おどっているぼくをきみはみている
ぼくにははじめとおわりがあるんだ
こうしてながいあいだそらをみてる
おんがくいつまでもつづくおんがく
おどっているぼくをきみはみている

うわー、教授いい!
せつない!ナルシスト!でもいい!
この世界はドつぼだな。
ちなみに作詞は矢野顕子というのがまた鳥肌ものの事実。





こんなのもあったり。



突然めんどくさい事に巻き込まれることがある。
そういうものとは距離を取って、
なるべく巻き込まれないように注意深く生きていたはずなのに、
いつのまにか逃げられないようにすっかり囲まれていて、
ズルズルと引きずられていくときがあって、
そんな時、人生の重たさというか、しんどさを痛感する。
巻き込まれるべくして巻き込まれるトラブル、
みたいなやつ。
どっからどう考えてもすり抜けられない課題。
これが私の人生というやつか。
と、呆然と眺める。

で、私は根性がないのでこう考える。

ああ逃げたい。
今すぐ全部を捨てて遠くに行ってしまいたい。
最近の私はいつもそんな気持ちだ。
無責任と言われようがなんだろうが、
私はそんなつもりでそこに居るわけじゃない。
どんどん荷物を増やさないでほしい。
この重たい荷物は私をここに留まらせる為の、
重しなんだろう。
そうやって私をどこにも行かせないつもりなんだろう。
ああ、悲しい、苦しい、足に鎖が繋がっていてどこにも行けない。
鳥かごの中の鳥の気分。
どこにも行けやしない。
ここからこの世界の行く末をそっと見届けているだけ。
自慢の翼を広げることはもうない。
だから私はずっとチュンチュン鳴いてるんだ。
そうやってありったけのイマジネーションを使って、
なんとかどこかに行こうとしているんだ。
毎日のエネルギーの源はそこなんだ。
どうやったら向き合うべき課題をそこそこにこなしつつ、
楽しく飛べるか。
そんなことばかり考えているんだ。

人生の重たさや苦しさを身をもって感じてしまう、
研ぎすまされた感覚がなければ、
そうはならない。

日々、「現実につぶされてたまるか」
という、ほとんど雑草に近い、泥臭い気持ちの中にいる。

2010年12月19日日曜日

命がけで追い求める美



坂本龍一と大貫妙子の『UTAU』ツアー仙台公演をユーストリームで鑑賞。
シルクエビスがうまいのなんのって。

坂本龍一という人は美に対する姿勢が本気だな、と思う。
美以外は認めない。
自分の中にある世界を本気で世の中を覆い尽くそうとしている人だ。
こういう人を見ていると、
私はけして芸術家にはなれないなーと思う。
なぜなら美以外の価値を考えるからだ。
世の中美だけで成り立っていないぞ、
という気持ちにどうしてもなってしまう。
だから今まであまり聴こうとしなかったんだと思う。
でも今回youtubuなどで色々聴いた結果、
こういう決して妥協しない研ぎすまされた世界に
時々浸るのもいいなぁ、と思った。

狂気にも似た美への執着。
その辺はASA-CHANGにも通ずるものがあるなぁ。
やっぱり男の人のほうが集中力があるというか、
何かひとつのことを極めたり出来るんだよなー。

一番最初の坂本龍一体験はこれだろうなぁ。
この曲めちゃくちゃ聴いたわ〜そういえば。

中谷美紀エロ〜。そんでかわ〜。

なんか中谷美紀祭りになってきた。
あー、かわいいっ。

中谷美紀×坂本龍一か、
原田知世×高橋幸宏か。
細野晴臣は…うーん。
星野源だわ!
それか中川翔子。
細野さんの趣味やっぱかわいいな〜。
タムくんとライブやったりもするし、
諸星大二郎好きだし。
やっぱ細野さんはなんか安心するんだよなぁ。

ピヨ彦と同い年

同い年であることに驚くピヨ彦氏。
車の12ヶ月点検をしてもらっている間に、車屋さんの近くにあった、
漫画喫茶で『ピューっと吹く!ジャガー』の最終巻を読みました。
なんか泣けたなー。

中学生一年生の時、
毎週火曜日に発売されるジャンプを中心にして
人生が動いていたあの頃、
『すごいよ!マサルさん』が連載されたのだ。
あの時に受けた衝撃は今でも忘れられない。
ほんとに声を出して笑いながら読むとはあのことで、
毎回毎回度肝を抜いたストーリー展開、台詞まわし、
キャラクターの素晴らしさに感動していたものだ。

あれからもう10年以上の月日が流れて、
うすた京介はどんどん面白い漫画を書き続けいた。
本当に辛い時期もあったんではないかと想像する。
でも書き続けていたんだよなぁ。ギャグ漫画を。

ピヨ彦は最初18歳という設定だったらしく、
(専門学校に入る年齢だからそれで確かにそれでちょうどなんだよね)
今や28歳になっていて同い年だった。
就職とかすごく焦っていた。
ははは、って笑える立場じゃないんだけど、
すごくリアルでおもしろい。

うすた先生はやっぱりすごいよー。
田舎までぜんぜん情報が行き届かない時代に、
ジャンプを通してあんなに良質な漫画を届けてくれたんだもの。
ホントにありがたい。
これからも陰ながら応援しようと
心に決めたのだった。

人類の可能性に挑戦

テレビブロス年末超特大号買いました〜。
いやー年末ぽいね。
ちなみに「モテキ」のDVDは既にレンタルされていて
借りることが出来ませんでした。
今年中には借りれますように。

テレビブロス特大号にはサケロックのインタビューが掲載されていた。
インタビュアーはサラーム海上さん。
爆笑問題の太田が蓮舫のコスプレをして(田中は誰だろう…鳩山?)
今年を仕分けする記事の次がサケロックのインタビューで、
しかも新しいアルバムは「MUDA」というタイトルでなかなかシュールな構成。
テレビブロスナイスジョブ。

ギリギリな感じの人が好きだと思う。
好きという言葉では語り尽くせない、
胸がぎゅうっとしてしまうあの感じ。
AV女優であったり、戸川純であったり、
後藤まりこであったり、立川談志であったり、
大竹伸朗であったり、他にもたくさん色んな人。
大きな目で人類というものをくくったときに、
キラっとした輝きというか、
命の極限みたいなものに迫っている感じに、
反応して、じっとみて、ドキドキするんだと思う。

そして自分もそうでありたいと思っている節があるんだと思う。

何もかもがコントロール不可能で、
エネルギーがぐんぐん湧いてきて、
脳内垂れ流し状態で生きている人はそれだけで愛おしい。
足りない頭で将来を設計したり、他人を差別したり、判断したり、
そういう事ばかりに夢中になる人間にうんざりする。
うんざりしながらも、
自分が時々そうなっている事に気がつかなくて、
それが一番嫌になるのだ。

全てのしがらみから解き放たれて、
宇宙の真ん中に放り出されたい。

脳みそで考えるのはそれだけでいいのではないかと思う。
あとは自分自身のエネルギーが動き出す方向に動けばいい。
人はこんなにも自由で美しいことを世の中に知らしめるためには、
自分自身の中に自由で美しい世界を見出すことの中にしかない。

その覚悟があるのか?
何にそんなに怯えているのか?

人は賢くなるだけ馬鹿になることがある。
大人は自分で自分の首を絞め続ける。
そんなくだらないことが世界中で起きている。

2010年12月18日土曜日

かっこいい人


伊集院光の「のはなしに」を読破。
おもしろかったー。
なんでもない話しばかりだけど、
伊集院さんのエッセンスによってほろりとしたり、
くすりとしたり、ひたすらくだらなかったり、
色んな味が味わえました。
本当に人間としての幅が広くて尊敬します。

その中でも、「プロポーズ」のはなし、
の中で伊集院さんのプロポーズが素晴らしかったので、
載せとく。

内容はその場で思いついた。
「俺、商売柄口が達者だから、50年ぐらいだったら君に、
“幸せだな”って勘違いさせ続ける自信があるんだ」
てな感じだった。
答えは
「50年は半端なんで余裕もって100年くらいお願い」
だった。

素敵!
伊集院さんのプロポーズの言葉も素敵だし、
奥さんの返しも素敵。
私も誰かにそんな風に言われたいなー。
でも言われないだろうなー。
なかなか言えないよなー、

“幸せだな”って勘違いさせ続ける自信がある

なんてさ。
この台詞を言う人がかっこよくて、
普段から異性にモテて、それに答えているような人だと、
多分あんまり効果はないんだ。
普段女の子からはモテないけど、男の人から絶大な支持を得ているような人で、
彼女が出来て、結婚したいと思って、いざプロポーズしようという、
ここぞという時に、ぐっと力強い気持ちを、
きちんと伝えられる人はそれだけでかっこいい。
そして、その人が持って産まれた誠実さのようなものが
滲み出ているとなおさらいい。
そういえば叶美香が好きなタイプは「誠実な人」と言っていたけど、
これほど探すのが難しいものはない。
見当たらないもんな〜誠実な人。
それは多分私が不誠実な人間だからかもしれないけど。
神様はきちんと空の上から眺めていて、
相応の人同士を出会わせるのだから。
伊集院光はかっこいい男です。紛れもなく。
もしかしたらある程度下ネタ連発するぐらいの男の方が、
信頼できるのかもしれないなぁ。
(大人の男性が醸し出すエロス的なやつじゃなくて、
男子小学生が会話するうんこちんこ的な馬鹿なやつ。)
異性の目を全く無視して突っ走って生きているという点で、
安心できるものはある。

はだかのりれきしょ

AV女優のインタビュー記事がどうにもおもしろい。
men's NOWで連載されている峰なゆかの『はだかのりれきしょ』というコーナー。

鈴木杏里という人がおもしろすぎる。

本を読むAV女優はなぜだかとても好感が持てる。
結婚もしない、子どもも産まない、性欲もない。
その代わり、本を読む、モノを買う、AVを仕事にする。
そこまで突き抜けた精神を持ちつつ、
あれだけの美貌を兼ね備えていたら、
文句のつけようもなく、すがすがしささえ感じる。

Aセクシャルというものがあるそうで。

Aセクシャル【asexual】
男性および女性のどちらをも性愛の対象としない人、
もしくは性欲そのものがない人、およびその性的指向

ゲイ、レズどころか、性欲自体がない人もいる。
その件に関して石原都知事はどう思うのか聞いてみたいところだけど、
そういう人間は今の時代いくらでもいる気がする。

恋愛至上主義がもてはやされる時代はすでに終りつつあるのかもしれない。
無くなることはけしてないだろうけど、
違う価値観、違う生き方が模索され始めている。
そしてそういう世界こそもっと広まっていくべきだと思う。
もちろんますます子どもは産まれないだろう。
産まれた子どもも、ゲイやレズや、
そもそも性欲がないなんて言い出す可能性もある。

それにしてもこの感覚は一体どこからやってくるのだろう。
どうしてこれほどまでに広まって共有されているのだろう。
私たちは消えていくべき民族なのだろうか?
そんな風に遺伝子のどこかに書き込まれているのだろうか?

ところで私はときどき自分のことを「ぼく」と言いたくなる。
「どうして私は女なのだろう」とまでは思わなくても、
女の子の扱いをされるのが苦手だったし、
常に中性的な立場でものごとを考えようとしている。
しかし女の子っぽいものはすごく好きだし、
逆に普通女の子は興味を示さないものが好きだったりする。
しかし女である。紛れもなく。
それに違和感はない。
が、男だったらどんな風に過ごしていただろうか、
と考えたりはする。

多分どんどん性別というものの境目が
曖昧になってきているように思う。

少し歳があがるとその感覚を感知することができない。
今、この世で起きているのは、
これ以上この民族を増やさないという滅びの呪いが蔓延している、
ということ。
その代わりに、イマジネーションの力がものすごく強い。
イマジネーションで世界はどんどん豊かになる。
それを感知する能力がない人間は、一生不幸のままだ。

人間という生き物の本質的な部分。
それが問い直されている時代とも言える。

2010年12月17日金曜日

仲良くなりたい気持ち

伊集院光「のはなしに」
花村萬月と中島らもの本を貸してくれた職場の上司が、
今度は伊集院光のエッセイ「のはなしに」を貸してくれた。
相変わらず素晴らしいチョイスです。ありがとうございます。
途中まで読んだのだけど、かなり文章がうまかった。
さすが元落語家志望。
全部うまい小噺でまとめられていて読みやすい。
さくらももこのエッセイが一番と思っていたのだけど、
伊集院光かも。
ネタが豊富で脱帽。頭いんだろうな。
ラジオの伊集院、テレビの伊集院、エッセイの伊集院、
全部ばらばら違う顔で、どれが本当の伊集院とかなくて、
全部伊集院光なのであって、でもそういう風になるのは、
とても全うな気がする。
例えば私がブログのテンションを人と話しをするときに、
持っていけるかというと不可能だし、
そんなの気持ち悪いし、別に意識して使い分けているわけではなくて、
そんな風に人はその時その時の状況によって、
気分も表情もガラリと変わるのだ。
「それでいいんだよ」と、伊集院光のエッセイを読んでいて、
言われている気がして、なんだかホッしたのだった。
いいタイミングでいい出会いだった。

夕方BSのアジアクロスロードを観る。
テレビで喋るU-zhaanさん登場。
おもしろかったー。
しかも今回もナレーションが星野源で、
星野源の声でU-zhaanさんが語られているのが、
なんとも不思議で、私にとってスペシャルなコラボレーションで、
それだけでもかなり楽しめた。
この仕事で星野源はU-zhaanさんを認識したので、
来年あたり何か一緒に仕事したらおもしろいと思う。
楽しみだな。
この世には見逃せない未来が待ち受けているから、
それを観るためにも毎日を地道に楽しく生きていこうと思った。

仲良くなりたい気持ちがみんなにある。
いつだってどこかで誰かが誰かと仲良くなりたがっている。
そういうかわいい気持ちがみんなにある。
人はよっぽどのことがない限りなるべくその気持ちに答えようとする。
以前友人が「自分のことが好きな人が好き」
と言っていたけど、人間基本的にそういう風に出来ている。
「好き」と言われたら、
「好き」と返したい。
時々面倒なことになるけれど、
それでも出来る限り気持ちに答えたい。
そんな風に出来ていて、
世の中が動いているのもその気持ちが大きいのではないかと思う。

私も色々な人に好意を寄せてきたし、寄せられてきたけれど、
濃くなったり薄くなったりして、
好意が色んな形に変化して通り過ぎていく。
ずっと同じテンションで同じ色で思いを寄せ続けている人はいない。
ブームのような感じで、特定の人にハマることがある。
それが恋だと思う。
恋は一過性のものだ。
そして一方的に自分の中で新しい物語が産まれる。
「この人しかいない」と思う。
物語が通用するうちはいいけれど、
そのうちどうも通用しなくなる。
「あれ?」となって、そのうちイライラしだす。
そうすると相手を嫌いになる。
嫌いにならないまでも「やっぱり違った」となる。
そうなると恋は終わる。
しばらくしてまた別の人と出会う。
ふりだしに戻る。
そういう出会いを繰り返して、自分という人間を知る。
自分という人間がどんな欲望を抱いているのかが、
明るみに出る。
ちょっとずつ大人になる。
なんでもいい。
ヒトでも、モノでも、音楽でも、小説でも、
ハマったり、のめり込んだりして、
盲目的になる経験を繰り返すことの中にしか、
自分が自分を理解するチャンスはないように思う。
そういう人生のチャンスが来た相手をどうして無碍にできよう。
暖かく迎え入れることしか出来ないのではないだろうか。
たとえ傷つけてしまうことになってしまうと解っていても。

2010年12月16日木曜日

最近のこと

ここのところたくさん言葉を出している。
しかもわりとネガティブなイメージの言葉。
そういうことをすると心配する人もいる。
元気で楽しい当たり障りのない言葉を出すのが当たり前で、
汚い言葉やみっともない言葉、弱気な言葉は出さないことが、
いいとされている、この世にはそんな暗黙のルールみたいなのがあって、
私はそんなのは嫌なので思ったことをそのままに出している。
それがいいのか悪いのかわからない。
ただ大人ではないかもしれない。
きっと大人であれば世の中の流れをみて、
世の中をもっとよくしたいと考えて、
いい言葉、美しい言葉を選んで出したりするのだろう。
私はそういうことは出来ない。
本当に思っていることしか言葉にできない。
死ぬまでそのスタンスで行くのか、
途中で変化があるのかはわからないけれど、
ずっとこの感じでやってきてる。

きっと私は信じていることがある。
自分の中の自然を貫き通すことの中にしか、
本当は見えてこないのだと。
押さえ込んでしまったり、ねじ曲げてしまったり、
そういうことをすることで、答えがどんどん遠くなってしまい、
またたくさんの時間をかけて見つけ出さなくてはいけない。
自分自身に正直になることで見えてくることがある。
時折、それが大柄な態度になってしまったり、
わがままであると捉えられたりして、
なかなか加減が難しいのだけど、
ただ「気持ち悪い」ことには敏感で居た方がいい。
そんなことを思う。

こんな風にたくさんの言葉が出てくるときは、
大抵揺らいでいるときなのだけど、
この「揺れ」はそれなりに楽しいのである。
幸せは「揺れ」がない。
ふわっと安心の中に包まれているかんじ。
だから言葉はそんなに出てこない。
今後、安心の中にいるときの言葉をうまく出せるといいけれど、
今のところ不安の中にいるときの方が、
言葉がぽんぽん出てきて爽快なのだ。
人生は「不安」と「安心」を行ったり来たりする。
それは「地獄」と「天国」ということなのかもしれない。
私は多分どっちの世界も好きだし、楽しいのだ。
だから自由に行き来する。
どちらかに飽きたら、またどちらかに行って、
そんな風に人生にメリハリをつけて遊んでいるのだ。
きっと、ほとんどの人もそうなのではないだろうか。
自殺や鬱病も、遊びが本気になってしまうのだ。
力を入れすぎたり、真面目すぎたり、
色んな要因があるかもしれないけれど、
ふわふわと漂っているぐらいがちょうどいい。

もう少し大人になって、もっと自由になれたらいいなぁ。

2010年12月15日水曜日

ポケデジ

POCKET DIGITAL CAMERA SQ30m mother edition
このカメラすごくいいです。
こんなのが欲しかったんだよなー。
8ミリ風の動画までとれてしまうという。
ポケデジすばらしい☆
こういう風合いの写真てよくありがちなんだけど、
やっぱりなんか泣けちゃうのはなんでだろうなぁ。
もう2度と戻ってこない思い出の風景って感じがするからかな。

世界のあれこれ

昨日の自分のブログが見苦しくて仕方なく、
久々に消したい衝動にかられたけど、
そのままにしておくことにする。
色々と自分の人生に不満があるみたい。
はーみっともない。
が、しょうがない。それが今の自分の現状だ。

今日は「週刊現代」を病院の待合室で読んでいて、
まんまと週刊現代脳になってしまったのだけど、
この国がどんどん駄目になる様相が、
小気味いい程に伝わってきて変なテンションになってしまった。
老人の割合が増えすぎて、どう考えても、
若者は支えきれないし、どんどん沈んでいく。
「あーあ」とその様子を眺めているしかほかない。
どうして私たちは子どもを産めないのか、
と、いまだに産んでない28歳のひとりの女として考えるけれど、
どう考えても子育てにお金がかかりすぎるというのがある。
自分自身を養っていくのに手いっぱい(もしくは不可能)の
若者ばかりだし、社会は何かにつけお金を使えと脅迫してくるし、
実際欲しいものがたくさんあって、
そういう世の中に産まれて育って、
あー、なんだかなー、と思う。
色々なことがちぐはぐで、多種多様で、
私なんか都会でバリバリ働くなんて生き方はできないし、
まぁ、おいしいところばかり頂こうという魂胆が
こんな風になっているのではないかと思う。
自分の中の何かも、世の中のいろいろも、
色んなことが行き詰まっていて、倒れそうな気持ちになる。
というか、自分が行き詰まっているから、世の中の行き詰まっている部分ばかりに、
目がいくのであり、全ては自分自身の心に起因しているという、
みっともない事実を承知の上のこれらの発言だ。

ばたーん、と倒れる寸前の所で、
ぽかん、と抜け出てみる。
すると上からの視点が現れる。
「おや、まてよ。
私の人生ここいらで、この世界の流れがこういう風になっていて、
ふむ、だったらこんな風に進もうではないか。」
という流れがみえる。
まぁ、このまま行くしかない、という結論になる。
いつだって未来はみえないものだ。

そんな気持ちの中、旅行会社からブータンの資料が届く。
パンフレットを読んでいると、
「ブータン人は輪廻転生を信じており、徳を積めば
日本人に生まれ変われると信じているらしい」
まじで!?日本人になりたいの!?
そういう考えがほんの一部にしろあることに驚いた。
これからどんな風にこの国がなるのかは解らないけれど、
とにかく老人ばかりの国になることは間違いない。
「ああ長生きしてよかった」と思える老人が多い国になれるかどうか。
それとも「生きててもろくなことない」と考えるかどうか。
少なくとも子どもを作らない人が多いということは、
若者は「生きててもろくなことがない」と考えるからだと言えなくもない。
奇しくも子育て情報誌なんてものを創るアルバイトをしながら、
そんなことを考えている。

週刊現代で、江國香織が自分の本について語る記事があり、
その中で「子どもは学校に通わせたくない」という意見があり、
納得したのだけど、学校はたしかにろくでもない場所なのである。
小学生の頃などいかにズル休みが出来るかと考えていたものだ。
ろくでもない先生と、ろくでもない生徒。
まるで自分の感覚が間違っているかのように思い込まされる。
自分で自分をぐちゃぐちゃの不純物にに仕立てあげ、
ようやく、それでよし、と思えるなんて悲しすぎる。
他人なんかいらない、と思える強さを持つことが出来ればいいけど、
なかなかそうはいかない。
どうしても友達がほしい。
嘘でもいい、上辺だけでもいい、
ただの空気になれればそれでよかったのだ。
そんな時代が人生に必要なのか?と考えた時、
必要ではないかもしれないけれど、この世の不条理を考えた時に、
そういう体験は身をもって感じること出来る貴重な体験だった、
と言えるかもしれない。
そんなことを考えだすとますます子どもは産むべきではない、
という気持ちに傾いてしまうけれど、
子どもという生き物はそういう風にこの世にいる人間があれこれ考えて、
コントロールする生き物ではないような気もする。
きっととてもありがたくて、神秘に包まれた生き物なのだ。

あまり子どもを神聖視するのもいかがなものかと思うけれど、
そういう見方もある。
でも多分わたしは産むだろう。
そんな気がする。わからないけど。

不気味な動き

「東京都青少年育成条例」というのが可決されそうなんだそうで。
なにかバックに変な思惑がある気がして気持ち悪いのだけど、
ほんとに馬鹿でつまんない大人がたくさんいるんだなぁ、とあきれる。
そんな風に人の欲望にフタをしたって、
どこかでまた違う形で噴き出してくるのに。
妙な理想ばっかり掲げて、押し付けて、
それで世の中の性犯罪が減ったらいいけど、
減る気がしない。むしろ増えるんではないだろうか。
一番の迷惑を被るのは生身の女だ。
いつぞやのニュースで、すごい数の男女が参加した、
アルコール薬物なしの乱交パーティ(屋内)の情報を聞きつけた警察が、
その現場に踏み込んだという話もきいたけどそれも妙な話である。
そりゃあ世の中には乱交が趣味だという人もいるだろう。
そんなのほっとけばいいのだ。
警察とか公務員とか「自分が正義だ」と思い込んでいる人ほど、
とんちんかんで浅はかな判断しか下せない。
そしてそんな奴ほど、そういう世界を一度知ってしまうと、
のめり込んで人生を駄目にしたりするのだ。

その話しの流れで思い出したのが下の動画。
森達也の「放送禁止歌」ドキュメンタリー。
放送禁止であると判断を下す人間が見えてこないのが恐ろしい。
テレビで頻繁で言われる「内閣支持率」というものと、
同じぐらい不明瞭で不気味だ。
実はこの動画で高田渡を初めて聴いたけど、
おもしろい歌うたってたんだなぁ。
私の中で「放送禁止歌」を歌っていた男性フォークシンガーとして、
インプットされてしまった。

2010年12月14日火曜日

永世中立国

伊集院光がツイッターで二ノ国やってることをつぶやいてて、
なんかすごく嬉しかった昼下がり。
やってるっていう人が全然いないんだよなぁ。
ジブリのRPGなのに。ハリーポッターよりすごいのに。
(そういえば、ハリーポッター観たって人にも会わないな)
べつにいいけど。

今年のインスト(?)CDベスト3は、
suzukiskiの「OZMA」
SAKEROCKの「MUDA」
salmon cooks U-zhaanの「Tabla Makes Everything」
です。
一番聴いたのは、suzukiskiだな。
ドライブ中考えごとするにはぴったりの音楽。
精神がぐっとシンプルになって安定してとてもよい。
歌もの(?)だったら、
星野源の「ばかのうた」がダントツ一位。
その次が七尾旅人の「billion voices」。
いい音楽にいっぱい出会ったなー。
来年も日本のミュージシャン達が色んな人たちと出会って、
色んないい音楽がたくさん産まれますように。

さっき神聖かまってちゃんの新曲PVみて、
ちょっとぐっときちゃったよ。
色々混ざってるんだよなー。
今の時代の、この国の、ぐっちゃぐっちゃの、
弱くて、汚くて、みっともなくて、狂ってるところが。
ちゃんと出してるところが偉いと思う。
顔をしかめて「こんなのいらないよ」って言う人も居るだろうけど、
そんな人たちは無視してどんどんやったほうがいい。
本当に狂ってしまう前に、狂った音楽を創ってなんとか持ちこたえないと。
いつかみんながチヤホヤしなくなってしまったとしても、
きっと誰かが見つめ続けている。
どこかで誰かが救われている。
私は「ロックンロールは鳴り止まないっ」を歌っている
満島ひかりが観たくて観たくてしょうがなくて。
それだけのためにモテキのDVDレンタル開始されたら借りなくちゃ、
と思っている。

その先へ


穴を掘って掘って掘りまくれば、
どこかに出られると信じていたのだ。
下界とリンクする瞬間があると思っていた。
たくさんの人たちがそうしているように。
しかしどうやら私という人間の謎は、
どんどんと深まる一方なのである。
近頃では、もう掘ることにも飽きて、
周囲と合わせて生きてみようなんて思い、
ほどほどのところでやろうとする。
しかしどうでもいい邪念のようなものが私を取り巻き、
わけのわからない、不純な場所に連れていく。
腐る。
しかし人はこの腐っている状態が常だと考えている。
常だし、当たり前。
それ以上はない。
しかし、私はそれ以上があるのではないかと考える。
それ以上の世界がちらちらと頭の中をよぎるので、
そこへ行こうとするしかない。

今年ももう終わるけれど、
ほんとうに色々な人たちが通り過ぎていったなぁ、と思う。
すべての人を、私はもう求めていないし、
もちろん求められてもいない。
ただ、ぽかん、と宙に浮いている。
ああ、楽と寂の融合。

私は人生というのは、ある日突然、
「これだ!」という出会いがあり、
劇的に人生が一変して、迷いもなくまっすぐにどこかに向かうものだと考えていた。
もちろん、そういう解りやすい人生を生きている人もいる。
そしてきちんと切磋琢磨し、なにやら“向上”という世界にいる人もいる。
しかし、どうやら私の人生はそうではない。
どこにも向かうべき方向らしきものは見当たらない。
ただ漫然と時が過ぎていく。
割り切れないし煮え切らない。
「単なる精神の怠惰である」と叱る紳士淑女もおろうが、
それは、その人の世界がそうなのであって、
私の世界はそうではない。
そういう世界もこの世には存在することを認めて頂きたい。
認められないのであれば、すぐに私を無視して頂きたい。
いなかったことにして忘れてください。
私は君の人生には必要のない世界を持った人間だった、
ただその事実があるだけなのだ。

私は考えたいように考えるために生きている。
誰も言葉にしたことがない世界を言葉にする。
しかし、この世の全ての書き物を読んだわけではないので、
私のようなグータラな筆まめはいくらでも存在したかもしれない。
古代ギリシャあたりに居てくれた嬉しいが。

豊かであるとは、
現代の安っぽい病にかからないということだ。
物欲、金欲、嫉妬、恨み、恋だとか愛だとかにかこつけたくだらない茶番、
そんなもに煩わされない時間が多ければ、多いほど豊かだ。
悟りだとかそんな陳腐なものもいらない。
人一倍、様々な煩悩を吸収して通り過ぎる20代。
それでいいのではないかと思う。
徹底的に深めていくことの中でしか、
私が本当に語りたい世界は浮かび上がらないだろう。

何をしていても虚しいのは、
心が何かを強烈に求めているサインだ。
求めているその先のものを自分自身の手で見つけられない限り、
虚しさからは永遠に逃れない。
だとしたら、探しまわるしかないのである。
たとえひとりぼっちになってしまおうとも、
危険な場所だとわかっていても、
その中に飛び込んでいくしかない。
人は自分に絶対に嘘をつけないようにできている。

2010年12月13日月曜日

若者に未来はないただ時間があるだけ



BSで4年前の立川談志のドキュメント2時間やってたので観る。
母親は大の談志嫌い。
途中まで一緒に観ていたのだけど、
「顔を見るのも嫌だ、何を言ってるのか解らん、眠い」
と言って寝た。
そういう強烈な拒否反応さえ与えてしまうのが立川談志という人間なのだろう。

やはり「かっこいい」の一言に尽きる。
落語ファンから観たら全くのズブの素人なので、
ああだ、こうだと語る資格もないように思うのだけど、
それでもやはり色々と思うことはある。

「書く」ということは精神の運動であると、
福田和也氏が言っていた。
体は動かなくても、精神は常に運動している。
私たちはものを考え、思考が彷徨い、
終着点も目的地もなく、どこかに流れている。
それこそが、魂だとも言えないか、と思う。
立川談志という人は、精神の運動が力強く美しいのである。
体が柔らかいのが自慢だと言っていたが、
精神も柔らかい。
柔軟で大胆で、人間の原点を常に見つめ続けている。
落語と常に格闘し続け、
うんうんと唸り、悩み、苦しみ、転げ続けている。
それを全部ひけらかす。
嘘をつかない、隠さない。
体調が最悪の日に、最高の落語をして、
「悪くない」とつぶやき、元気を取り戻す。
そういう姿をみて、「ああ、人間ってなんて…」
と、思う。
言葉が続かない。が、何か救われるようなそんな気分。

時代は変わる。
お人好しが多くなり、本当に優しい人がいない時代。
立川談志は本当に優しい人の最後の人かもしれない。
なぜなら本当に優しい人でなければ、
みずから危険には飛び込まないからだ。
しかし、今の時代、人々は危険を避ける。
自分の中の不条理からうまく目をそらす方法がいくらでもあるからだ。
知恵が付いている。

テレビもパソコンも携帯電話も、
どんどん薄型軽量。早い安い簡単便利。
きっとそれは人間にも言えることなんだろう。
いい時代とか悪い時代とかではない、
ただそういう時代なのだ。

すごくシンプルで良質な人間を観た。
そのことは、自分がかかっていた現代の病が浮き彫りになるようだった。
色々なことに捕われているくだらない自分に気がつく。
精神の運動は欠かさずに行うべきだと思った。
着地点は考えない。
流れ出るままに流してみる。
裏もないし、表もない。

古いも新しいもない。
ただ瑞々しさがどの時代にもあるのであって、
それさえ感知する能力があれば、
どんな時代で暮らしていても、
どこへでも行って、楽しむことができるのだろう。きっと。

それにしても、談志の娘がいちいちよかったな。
いやーあの人はすごいよ。

2010年12月12日日曜日

平野レミ

「胸にはエプロン、口にはシャンソン」

今日テレビに平野レミと清水ミチコが出ていたのだけど、
おもしろすぎた…。
ひさしぶりにちゃんと平野レミを観たのだけど、
改めて感動した。あの調理中の荒々しさったらない。
それでいてちゃんとおいしいみたいだし。
レミパンってもう10周年で160万個も売れているらしい。
家もそろそろ買おうかな、レミパン。

ゴミ当番



The Suzanという二十歳そこそこのガールズバンドが、
逆輸入デビューだそうです。
なかなか新しい風は感じます。
メークとか格好がかわいい。
こういう若い子達はプロデュース次第でいくらでも化けるのでしょう。

今日は年に一回のゴミ当番だったのですが、
高齢化社会をひしひしと感じました。
一緒に当番をしたタバコ屋のおばあちゃんが
優しくてかわいらしかったです。

2010年12月11日土曜日

ガーリーな気分

「眠りまでの階段」
nico arakawaという方の作品です。
うーん、女の子の横顔、大好きです。
この作品を観ていたら、
そういえば自分もとにかく女の子を描きまくっていた時期があったことを
思い出しました。
まあるいおでこ。
こんもりとした後頭部。
幼さが残る鼻先とあご先。
実はそういうものがすごく好きなのです。
触発されて描いてみたり。
かわいい女の子を描くって、
ほとんど仏像を創る気持ちと変らないんじゃないかと思う。
やわらかに、おだやかに、
なにか祈りにも似た繊細な作業だ。

物欲のオバケ

こいつはオバケのQ太郎だね

がおー

というわけで、この5時間ぐらいずっと、
グローバーオールというブランドの、
ダッフルコートが欲しい病に取り付かれてしまい、
検索しまくりましたが、今はちっとも欲しくないという、
心の移り変わりがありました。
あーこわ。
またこの病気にかかるかもしれません。
煩悩と欲望の塊。
年末108個じゃ足りません。

今日は17時にアジアクロスロードという番組を観た。
ホームページに星野源が出演と書いてあったので。
一体どんな風に出演するのか?と興味津々だったけど、
ナレーション仕事でした。NHKも好きだね!源くんの声が!
その番組の中でも「アジアエキゾ音楽紀行・インド編というコーナーで、
なんか知ってる感じだな、と思ったら、
サラーム海上さんが登場。
やっぱり!と嬉しくなってふんふんとインド音楽について学びました。
それにしてもザキール・フセインさんのタブラはやはり驚異だった。
すごすぎて、おかしいよ、なんか。
そのまま何気なく次回予告を聴いていたら、
なんと!次回はタブラ特集で、
まさか!?と思っていたら、
「J−popなど幅広いジャンルで活躍されているタブラ奏者ユザーンさんが
タブラについて熱く語ります。」
とさらっと紹介。やっぱりー!!
熱く語るんだー!うわー!
と、ひとりですごくテンションがあがったのでした。
テンションあがりすぎて一緒に見ていた母親に、
「この人こないだ鳥羽に来てた人だよ!」
と紹介したほどでした。
ちなみに、再来週はヨシダダイキチさん。
これは見逃せないわ〜!

続いて21時半。
またもやBSで星野源主演の30分ドラマ
「怪獣を呼ぶ男」を観た。
変なドラマだったけど、ものすごくシンパシーを覚える内容だった。
まず佐賀の寂れた港町が舞台なんだけど、
あの漁師町の感じが普段私が目にしている漁師町と、
ほぼ同じで、しかも故郷から逃げ出して帰ってこない漁師の息子という設定が、
なんとも言えず、他人事ではない気がしたのだ。
いやー、なんだなんだ。
横で観ていた母親は「普通やなこの人」
と、星野源がテレビに出て主役してること自体に、
疑問を持っていたようであった。
「この普通過ぎるぐらい普通なのがすごいんだよ!」
と、言い返せなかったのが悔しいです。
変なドラマだったけど、色々考えさせられたなーなんか。
しつこいようだけど、ほんと変なドラマだったな。

2010年12月10日金曜日

森ガールVS二次元の女

二ノ国おもしろい!てまだ1時間しかしてないけど。
オープニングは東京フィルハーモニー交響楽団なので、
大河ドラマのような風情がありました。

こないだ買ったテレビブロスが森ガール特集だったのですが、
とても面白かったです。
湯川玲子が森ガールについて、
「男が草食系ばっかりだから、森になって食ってもらおうっていう女が増えてるのよ」
という発言に妙な説得力がありました。
女も男の趣味をカバーして生きていかないといけないので大変です。
そもそも女は子どもを産んでなんぼみたいな遺伝子が、
いくら思想だとか時代だとかで頭では拒否していても、
DNAレベルで染み付いていると思うので、
そういう妙なカバーの仕方になるのかもしれないと思ったりしました。
「女は2次元に勝たなくちゃいけないから大変よ。」
というのも納得で、
ライバルが魔女の宅急便らしいです。
あんなにかわいいやつに勝てるわけがない。
そもそもおじさんの妄想から産まれた女の子なんですよね。
おじさんはすごいなー。
他にも手塚治虫や、鳥山明や、桂正和が描く2次元の女の子は、
どうしてあんなにかわいいのか。
女の人にはあんな風には描けないんだよなぁ。
そういえば昨日お風呂で湯けむりを眺めていたら、
まじかる☆タルルートくんを思い出した。
湯けむりのエロいシーンがあったのだ。
あれ、エロいし女の子もかわいいし、
小学生の頃ドキドキしながら読んでたなー。

2010年12月9日木曜日

精神的鎖国

食器を洗っている時にふと気がついたのだ。
ブータンという国はMOTHER3に出てくる、
タツマイリ村のようなところなのではないかと。
のどかで、懐かしくて、みんなの心の故郷のような場所。
現実にそういうところがこの世界にはあるのだ。
糸井さんがMOTHER3に込めているメッセージって、
意識的にしろ、無意識にしろ、
ほんとうに深いものなんではないかとそう思うのだ。
うーん。すごいなー。わくわくするなー。
これからどんどんブータンも変わっていくのかもしれない。
情報が入り込んできて、色々な欲望が刺激されて、
変な病気にかかったりする。
でもブータンの人たちの根底にはダライ・ラマがいるから
平気かもしれないし、注目しよう。
それにしても、日本の若者が引きこもるという姿は
やはりそんなに間違っていないんではないかと思う。
よりよい未来を築くためには必要な人間の姿なのだ。

母親が昔実家で、
馬、牛、ひつじ、やぎ、猫、犬、あひる、
を飼っていた話をきいて、
またもやMOTHER3を思い出したのだった。

パーティ野郎

犬と緑の小屋
そういや今年は星野源のライブにたくさん行ったなーと。
サケロックも含めて4回も行っている。
そして次に多いのが意外にもスチャダラパー。
友達が好きだったていうのはあるけど、
思いがけずスチャダラパーだったわ。
そんで「カバリズムのぐうぜん」のライブに行った時、
横の女の子がめちゃくちゃ踊り狂っていたのを思い出した。
ポケットにマイ水を入れて、とにかく多幸感に満ちた顔で、
あれには驚いた。
眼鏡をかけて、ちょっと太っていて、冴えないスタイルで、
普段めったに外には出掛けないようなそんな女の子。
きっと引きこもりのオタクだろう。
なにか妙にシンパシーを感じるキャラではあるけれど、
横で激しく動かれるためあまりライブに集中できないという
苛立ちも抱えていた。
それでハマケンがサケロックのライブでいつもやってる、
ドラムの伊藤大地との掛け合いを始めたのだけど、
そのとき途中で、
「ブスブスブスブスみんなブス!」
と言い、笑っている人がほとんど居なかったのが印象的だった。
確かにブスが多かったのだ。
ハマケンはなんて正直ものなんだろう。
と、どうでもいい思い出話しついでに、
今日見た夢の話でも。
夢の中でなぜか姉がいた。
そして株で大もうけしていた。
儲かったからと外国のお金をくれた。
「使えないよ…」と心の中でつぶやいた。
そんな変な夢。
あーほんと意味わからん。

たんなるミーハー

Tシャツのロゴ
サケロックの新しいアルバム「MUDA」を買う。
ひさびさにCDを買った。
バンドやってます!感がすごく剥き出しのCDだった。
聴けば聴くほど耳に馴染んできて、
いろいろな発見があって、それっていいCDの証拠だと思った。
今のうちにいっぱい創っていっぱいライブしよう!みたいな、
気持ちもあるように思う。
私はどっちかというとDVD「ぐうぜんのきろく3」の冒頭のような流れが
すごく好きなのだけど、今回のアルバムはいい意味でファンを置き去りにして、
やりたいようにやってやった!という感じがあって、
それが彼らの清潔感に繋がっているように思う。
「MUDA」というタイトル通り、ほんとに無駄な趣向が凝らしてあり、
CDの冊子(あれなんていうんだろう歌詞カード?歌詞ないけど。)
に全面銀色のページがあり、なんだろうと爪でこすると、
削れるようになっている。
ボロボロするし、ゴミ出るし、すげぇ無駄。
削ると星野源のメッセージが出てきてそれがまた、
なんかちょっといいこと言ってて、
いやーもう、やられたわー、という感じ。
ちょっとしたアート作品ではないかと思うほど。
本人は絶対にそんな風には捉えられたくないと思ってるだろうけど。
それにしても星野源という人はなんて空虚な世界に住んでいるんだろう、
と思う。
以下抜粋。

僕は、人生に無駄なことなんかないと思います。
しかし世の中には、音楽や様々な娯楽それ自体が、
「生きてゆくには必要のない無駄」だと言う人もいます。
でも、人間だって地球全体で見たらめんどくさくて無駄な生き物だし、
もっと言えば地球だって宇宙だってスケールの大きな無駄なんじゃないか。
それなら、「無駄の中に全てがある」ということでもあると思います。

ほんとあなたは天才ですね。と言いたい。
彼はソロでは「ばらばら」という曲を作り、

「世界はひとつじゃない
あーあそのままバラバラのまま
僕らはひとつになれない
そのままどこかにゆこう」

と歌っている。
無駄だし、バラバラだし、でもそのままでいいんだよ、
と最高の愛を発表しているのではないかとおもう。
ほんとうに奥の深い人である。
ちなみに明日NHKにたくさん出るみたいです。
要チェック。



ソロもはっとこう。

2010年12月8日水曜日

いらっしゃいませありがとうございました

気がつけばクリスマスカラー

今日やっと校了しましたー。明日からお休みです。ハフー。
頑張った自分に自分でねぎらってみようということで、
コンビニで上の3点を贅沢な気持ちでセレクト。
ウキウキしながらレジに持っていくと、
「ん?」
なんか違和感。
コンビニの店員が「○○円です」
おつりを貰って再び、
「んん?」

この何かが抜け落ちてる感じは、
コンビニの店員さんが
「いらっしゃいませ」と、
「ありがとうございました」
の2点を言わないというただそれだけのことなのだけど、
実際言われないとものすごーく気になる。
いつも絶対に言われる事を言われないのはこんなにも
気持ちが悪く感じるのかと驚いた。
なぜ彼女は接客必須用語
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
をはしょるのか、それがすごく不思議だった。
そして考えた結果、
多分彼女はお客に来店されるのを歓迎してないし、
ありがたくもなんともないのだ、とう結論に至る。
それならばしょうがない。
彼女を雇っているわけでもない私が言えと指図することはできない。
しかし、一度聴いてみたいものだ。
「なんで言わないの?」
きっと言わない方がエネルギーがいるんではないだろうか。
いつも言われている事を言われない
ってこんなにも気になるものなのだなぁと思いながら、
家に帰る。
テレビブロスと堅あげポテトを机の上に出し、
テレビを観ていた母親に「がんばった自分へのご褒美なんだ」
と自慢して、エビスビールはぬるくならないように冷蔵庫に入れる。
風呂上がりに冷えたビールをぐびっといくために。
そんな風にささやかな幸福の下準備をして風呂に入り、
ゆっくりと湯船につかり、はやる気持ちを押さえながら
ドライヤーで髪を乾かし、いざテレビのある部屋にいくと、
「えっ!?」
愕然とした。
なんと堅あげポテトの袋が無造作に開けられているではないか。
ゆっくりと袋に近づき中身をみていると、
すでに3分の2ほどのポテトが食べられている様子。
つまり3分の1しかない。
近くにいた母親が、
「コレしょっぱいね。なんか磯の香りがぶんぶんするし。」
とひとこと。
ショックと怒りと
母親のいつもの調子のとんちんかんなコメントに対する苛立ちで、
どす黒いエネルギーが湧いてきてそのエネルギーが表に出ないように、
必死に内側に閉じ込めつつ気が狂いそうになるのを堪えている間にも、
母親のわけのわからない言葉の応酬は続いてる。
「これ食べちゃいけなかったの?
だったら謝るわ。
ねぇなにだまってるの?
そんなに怒ること?」(へらへら)
もう駄目だ。耐えられない。
と、無言でその場を離れ無言で再びコンビニ行って、
堅あげポテトを購入。
レジがまたさっきの女の子。
やっぱり「いらっしゃいませ」も
「ありがとうございます」もない。
当たり前のようにない。
ああ。
何なんだ今日は。
なにか罰ゲームの日だろうか。
ああ。
もういいよ。
そういう日もあるよ。
家に帰って、テレビ観ながら、ビール飲んで、
ブロス読んで、ポテチ食べたよ。
それだけで私は満足したよ。
わかったよ。他に高望みはしないよ。
おやすみ。
さよなら今日。
いらっしゃいませ。
ありがとうございました。

2010年12月7日火曜日

太陽と月

明日が校了なので今日は帰れないかもしれないです。ひー。

宇宙から太陽がなくなったらどうなるんだろう。
なんていう途方も無い疑問がふと浮かび、
いつもそこにある太陽をありがたく感じた。
まるで原始人だ。
でもそういう単純な太陽に対する尊敬の念から、
人間は太陽に拝みつづけていたのだと思う。
そういう人としてのシンプルさは忘れたくないことのひとつだ。

出会ったり別れたりの繰り返しの中で、
私の中に残るものがある。
最後に手の中にあるものは、
結局は産まれた時から持っているまあるい玉だけなんだと思う。
そしてそのまあるい玉と一緒にどこかに消える。

人は色々なことに夢中になっている。
そういう姿をみていると羨ましいなーと思う。
私もなにか得意なことがあったらいいのにと思うのだけど、
なにひとつできない。
何をさせても下手だ。
私は漫画とかアニメとかが好きだったから、
そういうのを創るしごとがしたいと思っていたけれど、
どうやらそういったものを創ることは出来ないようだと気がついた。
でも、創る、という作業がこの世で一番楽しいことである、
というのは信じている。
あっ、と頭の中に広がる世界をどんどん表に出していくことは、
なによりも快楽である。
もっとうまく創りたいなぁ、と思ってたくさん創る。
するとどんどんうまくなる自分がいてそれが嬉しくてまた創る。
ただそういった単純な日々の繰り返しの中で、
ある日突然楽しさを覚えなくなる。
もうこれ以上創る事がないと知る。
世の中にはもっとうまい人がいる事も知る。
世界がみえなくなる。
他の世界に興味がでる。
損か得かで考えるようになる。
どんどん濁る。でも多分濁りたいと思っていたのだ。
「普通」の世界に身を置く事が必要であると考えた。

何年か経過して、
突然自分の道が解らなくなった。
四方八方真っ暗闇だった。
不安と、恐怖と、闇の世界が私を襲った。
これがあの時「ほんとう」を選ばなかったことの結果だった。
「ほんとう」を必死に探したけど、全然見つからなかった。
みっともないぐらいに這いずり回った。
友達に「もうやめたら?」と言われたりもした。
でもやめなかった。
なぜなら私は君が知っている私ではないから。
君の前で呑気に笑っていた私は今どこか違う所にいた。
他人なんて知った事ではない。私はこんなに苦しいのだ。
とにかく本を読む事にした。
何を読んだのかあまり覚えていないけれど、
気持ちが昇華されていくのが解った。
とはいえ相変わらず道はない。

つづく。。

2010年12月6日月曜日

世界に対する理解の表明

考えていることを吐き出し続けることは、
自分が理解していることを表現することは、
それが全部、愛なんだとおもう。

自分自身への愛、宇宙への愛、神様への愛。
世界はそういうエネルギーで満ちている。

だから人は何かを吐き出さずにはいられないのか。

ブータンの知恵袋

ツイッターを眺めていると糸井重里さんのつぶやきが目に止まる。
『足るを知ること』という内容。
そしてこのリンクが貼ってあった。
ホントにこの記事が最高で。
ブータンに住んでる日本人のブログなんだけど、
私が2日前にお金について考えたことのひとつの収まりどころが
ここにあるように思う。

ぐんぐんと燃えたぎるように湧いてくる欲望は、
若さゆえの過剰なエネルギーの放出でもあるのかもしれないけれど、
それを経験せずしてまともな大人になれるのかというと、
怪しい気がする。
一回大きく振れて、道を外しそうになるぐらいまで、
ギリギリのところまで行って、
でも戻ってくるという経験が必要なのだ。
そう考えると、田舎のヤンキーなんかはかなりの早熟で、
同い年くらいの人だと、今頃大きな子どもが2、3人ぐらいいて、
もはや身も心もおじさん・おばさんになっているのではないかと推測する。
ヤンキーに友達がいないから勝手な想像。

私の成長の遅さは一目瞭然で、
大学卒業するまでは特に荒れることなく過ごしたけれど、
(単に精神的にさぼっていたのだけども。面倒くさいことは後回しが悪いクセだ。。)
それ以降はほとんど嵐の中で暮らしていたようなものだ。
地に足がつかないし、ちょっとでも針で刺したら
すぐに割れてしまいそうな風船みたいになって空中を彷徨っていたのだけど、
やっと最近、手応えのようなものを掴み始めている。
『一個の魂としてここにいる』という自覚のようなものが、
芽生え始めてきた。
(いや、これはもうほんと遅いです。すみません。)

幸せについて考え続けることは大事だ。
そして暗闇の中にいても、光を求めようとすること。
そもそも暗闇というものはその状態がずっと続くと
居心地のよいところであるし理解すればさほど怖いものでもない。
むしろ人生のいい相棒として側にそっと寄り添っている。
でも命の本質はきっと光だ。
なんてことを言うとうさん臭い宗教ぽくなって嫌だけど、
きっと自分自身に正直になればなるほど、
光しか見えなくなるんだと思う。
そしてそれは他人から「これですよ」と与えられるものではなくて、
実際のプロセスを経てたった一人で掴みとっていくものなのだ。
そしてそこには宇宙史上たったひとつのスートリーが産まれる。
コンビニのレジ打ちでも、農家のおじさんも、中小企業のサラリーマンも。
誰一人として全く同じ人生はない。
そのストーリーこそが宇宙がみせる夢なのだ。
けして人間が勝手に頭でこしらえて人間に与える夢なんかではない。
人は絶対に神様になることはできない。

うーん。ブータンに行きたくなってきた。

よき日

今日は初の12時越えでした。ふひー。
それでも私以外の人たちは働き続けておりましたが。
締め切りのある仕事ってたいへんです。

今日は色んなところで色んなことが行われたようで、
みんな楽しんでるつぶやきがジャンジャカ更新されていった。
まずは、よしもとばななが下北沢でイベントを行い、
たくさんの人たちに握手&サインをしていたみたいで、
そのイベントに参加したたくさんのファンの人たちによって、
すごく嬉しかったという感想がツイッターでたくさんつぶやかれていた。
札幌では七尾旅人のライブ。
東京キネマ倶楽部では星野源のワンマン。
SHIBUYA-AXでは、U-zhaan×レイハラカミと相対性理論
(と他にも良さそうな人たち。)
うーん、全国的にとてもいい日曜日だったみたいで、
私はずっと仕事だったけど、なんだかとてもいい気分で過ごすことが出来た。
(幸せのおすそわけというやつ)
(んで、そんな風に素直に思える自分は結構いいコンディションだなと再確認。)
で、今年、私はどんなライブに行ったんだっけな、と思い返してみた。

4月 Splingfields(大阪・服部緑地公園)
   UA、星野源、細野晴臣、矢野顕子


5月 スチャダラ2010〜浪花恋シグレン〜(大阪城野外音楽堂)
   スチャダラパー、ハナレグミ、TOKYO No.1SOUL SET、
   neco眠る、EGO-WRAPPIN'


6月 クラムボン (松阪・マクサ)
   ASA-CHANGのタブラボンゴナイト (伊勢・再栄荘)
   タテタカコ (松阪・はなうた)
   小沢健二 ひふみよツアー (京都会館第一ホール)
    シークレットゲスト:スチャダラパー


7月 星野源 レコ初ワンマン (渋谷クラブクアトロ)
   ふちがみとふなと (伊勢・カップジュビー)


9月 カクバリズムのぐうぜん (名古屋・ダイアモンドホール)
    星野源、スチャダラパー、サケロック


10月 後藤まりこ+七尾旅人+勝井佑二+山本達久 (下北沢・440)
    『ブランコ』完結記念イベント (原宿・VACANT)
     ウイスット・ポンニミット、星野源
   リクオ、外村伸二 (伊勢・カップジュビー)
    
11月 インド古典音楽 U-zhaan+ヨシダダイキチ (鳥羽・はまなみ)




てな具合なんですが、なんかめちゃくちゃ良くない!?
今日のSHIBUYA-AXのライブ行けてたら完璧だったなぁ。
ちなみに色変わってるところは
(一応)オーガナイズさせてもらったイベントで、
今年は6ヶ月に1回のペースだ。
来年の5月か6月くらいにまた何か話がやってきたらいいなー。
と、淡い期待。

ほんと三重県に住んでるわりに我ながらやるなぁ、と。
でも三重県に住んでるから、大阪、京都、名古屋にも行ける訳で。
そんでもって、地元でもライブしてもらったりして…。
うーむ。ラッキーだ。

ちなみに来年はすでにタイコクラブに行くことが決まっている。
2年ぶり、2回目。長野県のこだまの森にて。
いい人がたくさん決まりますように〜。
(やっぱり前回出演したレイハラカミと、石野卓球は外せないな)

はっ!今年の音楽ライフを振り返っていたらもうこんな時間!
ねよねよ。

2010年12月5日日曜日

多感なお年頃

友達から送られてきたトン子ちゃん
バイトをしている子育て情報誌の締め切りが近いので、
連日深夜12時近くまで職場にいる。
赤ちゃんの写真をたくさんみたり、小さい子どもを持つ主婦達が
ネット上で交流している掲示板を読んだりしているのだけど、
お母さんというのは、つくづく独特の世界に住んでいるな、と思う。
というか仕事とはいえ、
なぜ私は主婦が書き込む掲示板を読む機会が巡ってきているんだろう、
なんてことを考えるととても不思議な気持ちになる。

人生は宇宙の夢だって、あがた森魚や池田晶子やが言っていたけれど、
だとしたら夢がみる夢とは一体なんだろうか、と思う。
複雑すぎる。
ただでさえ人生が不可解なのに、夢のことまで真剣に考えられない。
そんなことをとうとうと考えながら、
今日も仕事を辞めたくなったのだった。

お金なんかいらないけど、
お金がないと生活できない。
欲しいものが買えない。
そもそもなんで欲しくなっちゃうんだろう。
なにもいらなくなればいいのに。
毎日妄想で遊んだらいいのに。
でもお金は時々愛の表明に役立つ。
好きな作品を買うことが出来る。
お金が好きな人のところに届く。
その循環はわりと解りやすくていい。
そりゃ貢ぐ人が出てくるわけだ。
ジャニーズがグッズやCDを出せば、
ファンは必ず買ってお金を出す。
お金を出してその人を得るという快感がそこにはあるのだ。
だとしたら愛されている人はお金が集まるってことなのか。
ゴッホの絵は何億円もする。
それはその絵にそれだけお金を集める力があるということで、
それだけの価値を多くの人が認めているということだ。
価値ってなんだろう。
価値って人それぞれ。
私はお金がたくさんあっても何もできないし、
身の程のちょうどのお金が循環していたらそれでいいのだけど、
お金のために未来に不安を抱くことが一番ばかばかしいけど、
やっぱり不安になるものだ。

とりあえず損とか得とかを考えずに何かを選び続けたい。
人もモノも。

2010年12月4日土曜日

柑橘

ゆずハチミツとゆずジャム
庭にたわわになっていたゆずをもぎとり、
スライスしてハチミツに漬けてみたり、
砂糖で煮たりした。
パンとかヨーグルトとか紅茶とかに付けて食べるつもり。
ゆずを切ったり絞ったりしたおかげで、
台所がゆずのいい香りで充満した。
そのうちお風呂に入れたりしてみよう。

なんとなく、
私はとんでもない勘違いをしていたのではないかと思ったりした。
君がどんな世界をみているのか、私はきちんと汲み取っていなかったのだ。
でも今はなんとなく汲み取る事が出来る。
君が望んでいること。
それを叶える事が私の夢。
そんな風に思えたらどんなに幸せだろう。
なんでも先回りをして君の望む世界を用意する。
ただこの世界がややこしいのは、
自分が望んでいる事と実際手にする事は変わることがある、
ということ。
それまでの色々な積み重なりによって、
運命は左右される。
ただ私は解る。
今君がどんな世界をみてどんな願望を持っているのか。
そういう空気の中にいるということが。
また違う波がきて、世界が変わる事があるかもしれないけれど、
君の根本に常に抱えている願望を私が代わりに見続ける。
その代わり、私がどこかに流されている時は、
君が見つめ続けてくれる。
だから戻って来れる。お互い。
とても大きな波が訪れて、どこか遠くに流されてしまったとしても、
自力で戻ってくる場所は決まっているのだ。
きっと家みたいな場所が誰の心にもあるのだ。
心の家の風景が似通っている人たちが結婚したりするんだろう。
どっちかが遠くへ旅立って留守をしても根っこを守るために。
そんなふうにして家の風景は続いていく。

2010年12月3日金曜日

ゆれる

いやー今日はゆれたなー。
昨日気持ちをプラスにふった分、
マイナスに戻る力が強く働いたようなそんなかんじ。
ちょっと余分な力が入ったのかもしれない。

まだまだ自分の有り様がわかっていなくて無茶をする。
私は私を操縦するだけの技量があんまり無い。
まだもう少し時間がかかるみたいだ。
もしくはずっとこんな感じか。
いや、数年前よりは戻ってくるまでの時間が短くなったから、
確実に成長はしているんだと思う。
もうすこしだけ未来に期待しよう。

遠くにいるときはあんなに美しくてまぶしかったのに、
近くにいるとどうしてこんなにも嫌な部分が目についてしまうんだろう。

間違いなく君そのものと呼べる完結したそれ。
そういったものを感じて私たちは近づいたり離れたりする。
細かい事はあまり気にしないで、
もっと大雑把にその人を捉える事で、
人に優しく接する事が出来るのではないかとおもう。

私ももっと私に成っていくことに集中する。

すべての人は日々自分を極め続けるため生きているに違いない。

2010年12月2日木曜日

ただの妄想2

ものすごく嫌な夢を見る。しかも2本立て。
私が安心のふりをして眠っている間に、
地球の裏側でなにが行われているのかは知らないけれど、
たぶん人は私の期待通りには動いていないということかもしれない。
そもそも人に期待するのが間違っているし、
私自身のわがままや気分や都合で物事が動くわけでもないし、
だったらそのもしかしたらあったかもしれない事実を、
甘んじて受けるべきだろう、という結論に至る。
想いは往々にしてすれ違う。
それはたぶんそこにある想いが純粋ではなかったのかもしれない。
私はきっとニセモノなのだ。
それでも誰も悪くないし誰も間違っていないんだろう。
ほんとうに悲しい事に。
そんな世界を経過してその先にあるものは、
あたたかいものだといいなぁ。
私ができることと言えばそんな風に願うことぐらいだ。

それにしてもどんどん自分の中だけで世界が進行していく。
実際に目にした訳でもないのに、
なんとなく不安、なんとなく不快、
という気持ちがどこからともなくやってきて、
時々私を苦しめる。
その気持ちに外的要因なんて全くなくて、
勝手に落ち込んでいるだけなのかもしれないけれど、
人にはそういう機能が付いている。
私は私の世界の流れに正直になっていくことしかできない。
そのことで世界がより明確になればいい、
ただその想いだけだ。

さて今日も仕事をがんばろう。

2010年11月30日火曜日

ただの妄想

昨日友達の妊娠の報告を受ける。
とても嬉しかった。
元気な赤ちゃんが産まれてくるといいな。

色々な妄想が頭の中を駆け巡る。
自分勝手に、こんな風だったらいいなぁ、を頭の中で再現する。
すごく幸せ。すごく楽しい。
本当じゃないかもしれないけど、
ただの私の頭の中だけの世界なのかもしれないけど、
それでもこんな風な幸せな気持ちにさせてくれるだけの、
材料をくれてありがとうと思う。

私の命は、まず家族のためにある。
そして次に誰かのためにある。
なんだか解らないけれど人に産まれ人として生きていること、
この不思議さを思いながら、
時々憎らしくなったり、楽しくなったり、
自由自在に私はここで生きている。

よくわからない事を言っていると思う人がいるだろうけど、
わかる人がいるかもしれないという賭けで書いている。
この精神は池田晶子さんから学ぶ。

曖昧であやふやな、まるで夢を見ているような心地で、
私は人生を歩むのだろう。
その中でふらふらとどこかに進んでいる。
頼りになるのは、ただ自分の嗅覚のみだ。

以下突然ラブレターを書きたくなったので書いてみた。

これからもずっと見ているんだとおもう。
君が世界を縦横無尽に動き回る姿をみて、
君の思惑通りになるように念を送り続ける。
夢を叶える力が君にはある。
人をよく見ているし、人をきちんと愛しているのが伝わるから、
君は君だけのやり方で世界を切り開いていく。
だいじょうぶ。
安心して。
たぶん私は君を理解しているから。
これからも無言で君を理解することを努め続けるから。
もし私が変な気持ちになって卑屈になってしまうようなことがあったら、
それは私の気持ちがまだまだ弱い証拠。
もっと強くなれるように頑張るよ。
そうやってこっそりと世界を支えているよ。
だから今日はぐっすりと眠るといいよ。
いつも君の側にいて、君が君になっていく様を見守っているよ。
私は君がいつでも安心できるように、
自分自身を鍛える事を頑張るよ。
今よりももっとはっきりと世界が受信できるようにする。
私がやるべきことは君が教えてくれたんだ。
今、明確に理解した。
私はただ強くなる。
君を引っ張っていけるだけの世界を創る。
ただそれだけなんだね。
私が心の底から確信したかったのはそのことなんだ。
命が途切れるその瞬間まで気を抜かないで、
見つめ続けて強化し続ける事。
私はそれをしようと、そう思ったんだ。
その気持ちは多分“信仰”って呼んでもいい気がする。


君がこれを読んでいようといまいと、それはどうでもいい事なんだ。
ただ私の中にある世界を引きずり出すために言葉を使う。
私の中にある透明な想いを言葉に乗せて表したかった。
それは自分自身を強くする事が目的なんだ。
言葉で世界を縛ることで、世界が浮かび上がる。
そういう事を私はほんとうに信じているんだよ。


もし読んでいるなら私の世界はそういうことなんだって事を伝えたい。
全然違っていたら私はとても孤独な人間なのかもしれないけれど、
まったくの不幸だとも思えない。
もしかしたらそれはそれで幸せなことでもあるのかもしれないから。

2010年11月28日日曜日

言葉のその奥にある風景

ハリーポッターを観る。
まだ最終章のpart1。多分part3までは続くだろう。
それにしてもどれだけハリーポッターで稼ぎたいのだ。
まるで『渡る世間は鬼ばかり』状態だ。
まぁいいけど。

『言葉が足りないとサルになる』を飛ばし読み。
途中興味の無いサッカーの話しなどが挟まれているため。
ほんと自分が興味ないと飛ばしちゃうんだよな。
文面の流れから察して自分にはあまり必要の無い情報だな、
と思ってしまうと読まない。
もしかしたらこの中に有益な情報が隠されているかも?
なんて思っても、面倒が先立って読まない。
あまりよくない傾向だと思うけど、これはもうしょうがない。
大学生の言葉の足りなさを大学の教授が危機感を抱いていて、
問題にしてるんだけど、「確かにこの状況はまずいかもな」と共感しつつ、
完全に言葉が足りないサルの代表みたいな人間が私なのであって、
どうやらそんな若い人たちがいよいよ増えてきて、
世の中まともに話が出来ないサルみたいな人たちで溢れかえっているんだな、
という感慨をもつ。
やはりおじさん達はどうも人間がどんどん劣化しているように感じ、
それがとても心配で、恐ろしく、憂いているらしい。
というか、そもそも大学という存在がほとんどの人間に必要ない、
ということではないか、と私は思う。
そこまで明確に言葉を操る能力を育むシステムが教育現場にないというのもあるし、
ネットやテレビや雑誌の影響で言葉がどんどん変化していて、
それを子ども達はぐんぐん吸収して吐き出している結果だとも言える。
曖昧さや、不明瞭さ、が日本人の持ち味なので、
その性質がどんどん強くなっているというのもあるかもしれない。
そもそも一体なにが起きているのかというと、「幼児化」だ。
幼児が社会に出て社会をまわす。
そんな事が到底できないから、ニートやアルバイトになる。
言葉が足りない。言葉を構築できない。
この能力の欠如。不甲斐なさ。
それは私が随分前から常に感じているものだった。
どんどん言葉を使えなくなって、私たちはどこへ行くのか?
よくわからないけれど、とにかく人は変化をし続けている。
もしかしたら本当にサルになってしまうのかも。
たまの『さよらな人類』が頭をよぎる。

『残酷人生論』を読む。
うーん、池田晶子さんの世界はやはり素晴らしいです。
ある意味これは聖書だと思う。
といっても、仰々しいわけでもなく、
一人の人間の澄み切った思考の繰り返しの中にあるその一端に垣間みる、
神聖さ、のようなもの。
これほどまでに魂に正直で誠実で当たり前な世界があるものだろうか、
と思った。
これを読めばいつだってゼロに戻れると思った。
人間が自分を守るために勝手にこしらえた支離滅裂な思考から、
逃れられる世界がここにある。
言葉を通して、宇宙が垣間見える。
「わからない」が「わかる」。
それは安心だ。
ひとつの考えに縛られるという状況が一番苦しい。
抜け出せない。自由にならない。
魂が泣いているのだ。私を自由にしてくれと。
そして往々にしてそんな自分に自分が気がついていない。
それが一番の悲劇だ。
残りの人生の時間をなるべく宇宙に開いていたい。
そのことで魂が磨かれていけばいいと思った。
ほとんどその事をするために生きてると言っても過言ではない。
世の中には色々な才能を持った人が居て、
それを全うするために生きているのだけど、
私の場合、池田晶子さんが言葉で綴る世界に激しく共鳴し、
その事で自分自身を知るのだった。
他者を知ることは自分を知ること。
どうやって知るのかというと、それは言葉という方法がやはり大きい。
私は私がどういうことに共鳴するのかを誰かに知ってもらいたいし、
共鳴はさらなる共鳴を産み、そこに人との繋がりができることで、
明日を生きて行く活力になる事も知っている。
なるべく色々な人と共鳴したい、
というのが私のスタンスであることを改めて気がつかされる。

印象的な一文を抜粋。


人が、自身の宿命を認識し、それに沿い、その実現のために為される努力、
これが幸福だ。
悪人であるとうい宿命もあるのではないか、そんなのは屁理屈だ。
悪人は自身の悪を認識していない、つまり自身を認識していないのだから、
したがって、それは彼の宿命ではない。
たんに努力をしていないだけである。
人はいかにして自身の宿命を認識すべきか
宿命は魂にあるのだから、「己が魂」を、まずよく認識することである。




2010年11月27日土曜日

人生の楽しみ方

インド古典ライブが終わり、
楽しむべきものが未来にないなーなんて思っていたら、
友達から来年のタイコクラブ行かない?とお誘いの電話。
こういうタイミングってほとんど神様が仕組んでるに違いないと思う。
神様ってすごい。
わたしたちを見えない糸で操っていて、
宇宙からの引きの目でみたらすごく綺麗な模様だったりするのかも。
ここに悲しみや苦しみがあることで、
どこかの光が引き立てられていたりして、
なんて事を考えると、無理をしなくなる。
私は無理をしない。
何者かに操られるままだ。
そこにある模様が美しいと思えばそれに従うのみ。
人生は美意識で出来ている。
そう決めた。

今日はグラタンを作った。
お母さんにもお兄ちゃんにも好評。
明日はお母さんとハリーポッターを観に行く予定。

DSでマリオカートをしていたら、
お兄ちゃんも興味津々で懐かしがって楽しそうに遊んでいた。
それを横からみてる感じがすごくよかった。
「もう30前なのにこんなことしていいんだろうか」
なんて言ってたけど、「PS3買おうかな」なんて言ってて、
なんか「しめしめ」と思った。

兄弟で仲良くゲームで遊んでたあの頃を思い出して、
なんだか泣きそうになった。
私たちはもう大人で、別々の他の事に興味があって、
それぞれに世界を構築していて、
もう共通で楽しめる事なんて持てないと思っていたけど、
昔はちゃんとあったんだな、ってそう思ったのだ。

本屋さんで森三中の大島の旦那さん鈴木おさむさんの、
『ブスの瞳に恋してる』の一番新しいやつを立ち読み。
全編どれだけ二人が愛し合っているかを赤裸々に綴り、
ほとんど嫁(大島)へのラブレターなんだけど、
やっぱりこれも泣いてしまった。
お互いが全力で愛し合っているのが分かって、
この二人の出会いもほとんど奇跡に近いなと思ったのだ。
私はこの人たちみたいに誰かを全力で
素っ裸の泥まみれになって愛したりするのだろうか?
多分相手の気持ちばかりを読み取る事に専念して、
私の本当の気持ちにフタをする。
それで何か物事が捩じれていく。
私はまだそんな方法の愛し方しかできない気がする。
人には色々な段階で色々な愛情表現が在るのだ。

よしもとばななのツイッターのbotが素晴らしかったので、
こちらにも乗せておこう。
ああ、染みるなぁ。

人生はうんとはじめのころに至福のほとんどを知るものなの。
人によって違うけれど、至福の鋳型はそのときに作られる。
そしてその後はほとんどずっとそれを取りもどすための戦いなの。
ーサウスポイント

さて、友達に薦められた本と、
池田晶子氏の『残酷人生論』でも読むとしよう。