2011年3月11日金曜日

川の流れのように(byひばり)

最近ひきこもり願望がひどい。
週末に色んな人にたくさんあったからだろうか。
どうしてこうも他人の感触が変になってきたんだろう。
前はこんなに強く変に感じる事は無かった。
多少、気持ち悪い部分はあったけど、
別に我慢できたし、むしろ他人だって我慢していたはずだ。
それを一方的に「変」とか「気持ち悪い」とか、
偉そうにもほどがあると自分でも思うのだけど、
やっぱり「変」なんだなー。
お互いの何かが響き合って「たのしい」瞬間がないわけでもない。
だけど後でよくよく思い返してみると、
「変」な部分をより強調して思い出してしまう。
「ああ、あそこズレてたなー」とか、
「あの感じ嫌だったな」とか。
よくわからないけど、そんな近頃。

その事自体は、そんなに嫌なことでもないのだと思う。
ただほじくり返していちいち嫌な部分を強調させている、
私の気持ちに問題があるのだ。
どうしてそんな風になってしまうのか?
どんどん他者と距離を持とうとしているのだろう。
距離を広げる。近づかない。
自分自身を孤立化させようとしている。
そこになんの意味があるのか。
孤立化させる事で、周囲の流れに巻き込まれないようにできる。
もちろん人生は社会や他人の人生に巻き込まれることが生きるということ
なのかもしれないけれど、そうではない生き方もあるわけで。
私は巻き込まれたくない。
巻き込まれがいのある流れだったら巻き込まれてもいいけど、
つまらないイザコザやいさかいにはまっぴらごめんだ。
私は私の流れをつくる。
いや、もともと持っているので、それをより強化する。
そして、他人を巻き込む。
そんな生き方をしたいと思うのだ。

他人の悪い部分ばかりが目に付いて酷評するのは、
自分自身の立ち位置を確認するためだ。
その人にはその人の人生の流れがあって、
ただ私がその流れに全部乗れないだけだ。
流れは他人に変えることはできない。
特にその人にそのことを言葉にして伝えても、
全く無駄な事だ。より頑にその流れに執着するだろう。
ただ、私は私の流れを無言のうちに強固にして、
その姿勢を保ち続ける事しかできない。
それに気がついて、いいと思ってもらえれば、
その人は変わるし、思わなければ何も変わらない。
生きているとは、流れの中にいる、ということだ。
知らず知らずのうちに私たちは流されていて、
その中でどんなポジションを取るのかは個人の判断にゆだねられている。

強い人になりたい。
父のように、母のように。

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