2011年3月22日火曜日

鳥取の女


昨日は寝る前に境界性人格障害について色々と調べてみた。

こんな風に「なんとか障害」と勝手にカテゴライズされると、
病気みたいだけど、そんなに深刻に考える必要も無いのではないか、
という結論にいたる。
そもそもフロイトだかユングだかの外国の心理学者が、
勝手に人間を分別しだしたのであって、
結局のところ、日本は開国以降、外国の思想や感覚が紛れ込んできて、
どんどん病んできているのではないだろうか。
アメリカの精神医学会による境界性人格障害のチェック項目をあげてみる。


1、現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする、
気違じみた努力。


2、理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって
特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式。


3、同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像または自己感。


4、自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも二つの領域にわたるもの
(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)。


5、自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰返し。


6、顕著な気分反応性による感情不安定性
(例:通常は二三時間持続し、二三日以上持続することはまれな、
エピソード的に起こる強い不快気分、いらいら、または不安)。


7、慢性的な空虚感


8、不適切で激しい怒り、または怒りの制御困難
(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、
取っ組み合いのケンカを繰り返す)。


9、一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状

5の自殺はないけど、それ以外は身に覚えがある。
ていうか、ひとつも当てはまらない人なんているのだろうか。
結局、子育ての段階で親が子に適切な愛情を注いでいないのが原因らしいが、
一概にそれだけとは言えないだろう。
問題はもっと複雑だ。
物事を良い風に捉えることがいくらでも出来るように、
悪い風に捉えることもいくらでも出来るけれど、
自己を冷静に分析する事で得る「自己認識」は必要なので、
ひとつのきっかけにはなるのかもしれない。

そしてやっぱり改めて思ったのは自分の人生で起きた一番の失敗は、
「自分で自分を捨てた」ことだ。
これによってかなり人生がややこしくなり、
息苦しいものになった。
親がどうこうという前に自分の感覚がやっぱりどこかおかしい。
平気で自分を捨てたことのある経験がある人間は、
他人も平気で他者を捨てる事を知っているので、
常にある種の絶望のようなものがあるとも言えるし、
逆にすがすがしいほどの孤独も耐えうるということだ。
そして夢を見続けている。
一生私を捨てずに居てくれる人間がどこかにいるのではないかということを。
人生これだけ頭でっかちになっていたら、
それは生きにくいだろう、という気もしてきたが、
まぁこの辺は歳をとればとるほど、
ほっといても緩くなっていく部分だと思うので、
あまりいじくり回さないようにしようと思う。

朝起きて、夏目漱石のことを思った。
「近代的自我の目覚め」とかいうやつだ。
これによって日本人は個々に分断され、
孤独感に悩まされ、暗く苦しく重く病んでいく。
文学のエネルギー源のようなものだ。
病んでいないと、人は何かを創って残そうとはしない。
しかし、病まない文学者が颯爽と登場する。
今の時代病みながら小説を書いている人なんていない。
孤独を乗り越え、孤独を利用し、むしろ孤独を謳歌し、
私たちは生きていく事ができるようになった。
そんな風に人間の精神の在りようが発明されていく。
岡本太郎が縄文人の精神性を発見し、
水木しげるは土人や妖怪の世界を見せてくれる。
そこには孤独なんてものは消えてなくなり、
ただ何ものかがそこにあり、人間は夢中になってその夢を貪っている。
その世界を生き抜く事だって可能である事を身をもって証明している。
どれを選ぶかは個人に委ねられている。
しかし個人とは脈々と受け継がれてきた血によって支配されている。
なので自由はない。
自己を分析し続ける事の中で自由を発見していく。
心の旅や冒険はこれからも続く。
前人未到の領域を発見したら大声で知らさなくてはいけない。
なぜならそれは人類の共通財産だからだ。
そして歴史に名を刻むのだ。

いつも枕もとに置いていた尾崎翠の作品集を手にとる。
実は全部読み切れていない。
彼女の文体は私に馴染まない。
でも無理矢理読む。
なぜなら彼女の観ていた世界を体感しなくてはならないからだ。
「こおろぎ嬢」、「第七官界彷徨」。
彼女もまた精神を煩っていると見なされていたし、
自分自身もそう思い込んでいたのだろう。
そこに表されるのは、苔の恋。二人の自分。家族への献身。
いつも湯気が漂い、ジメジメしている。
精神がアメーバのように動き回る。
いや、きっとアメーバなのだ。
人の皮をまとい、彼、彼女は苔になり、分裂し、愛にナル。
彼女の生き様に私はひとつの道筋をみる。
このままでいいのだと。

私は現代に産まれ、子に依存する母をもち、
それゆえ「境界性人格障害」と呼ばれるものを発症し、
また平気で自分を自分で捨て、自ら混乱し、
しかし足りない頭脳をなんとかフル稼働させ、
自己分析を繰り返すいきモノ。
そしてその様をインターネットというものにのせ続け、
他人に表し、なにかになろうとしているモノ。
そういう泥臭くて、みっともなくて、情けない部分を、
これからも全て、包み隠さず出してゆこうと、おもっている。

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