2011年3月31日木曜日

公開ひとり問答

うちの母はよく、
「竹を割ったような性格だ」と親戚から言われたと言っているけど、
私も歳をとってきて随分そんな感じなってきた気がする。

「曖昧でいいじゃないか」
と思っていたと思ったんだけど、
最近全然そんなことない。
嫌いなものはとことん嫌いになって、
好きだった部分がなくなっていくし、
好きなものはとことん好きになって、
嫌な部分が消えていく。
そして時々大どんでん返しをくらう。
危険な感覚だなー、と思いつつも、
どんどんそんな風になっていく。

「過去を捨てるということが成長することだ」
みたいなことをどこかで聴いた事があるのだけど、
これって本当だろうか。

私は訳も無くつるむ感じが最近すごく嫌いだ。
昔はそんなことなかった。
ファミレスで友人と延々だらだら過ごすのが好きだったし、
「暇だわーまじ」みたいなことを、
無意味に言い合うのが大好きだった。
「駄目の典型」をやるのが私の生き甲斐だった。

ところが最近では、友達と会うことすら億劫である。
最近というか、もう随分前からだけど。
人間関係は人生に不快なものを持ち込む元凶である、
とさえ考えている。
家族の存在さえも面倒。
さっさと一人になりたいと考えたりする。

歴史上、今までどれほどの人がそんな風に自分の中に引きこもり、
心を病み、さみしい人生を送ったのだろうか、
なんてことを考えながらも、
いや、やっぱり一人きりの幸せもあったのかもしれないと思う。

結局、一人を愛している人間のほとんどが
実際に孤高に生きていく事は不可能なのある。
「孤高」にありたいと望み、「孤高」であるように見せかけて、
結局は家族がいたり、友達がいたり、
中途半端な人の温かさを欲し、曖昧なぬるま湯の中で生きている。
それで「ああ、ひとりだ、寂しいよう」
なんてニュアンスのことを日記にしたり、歌にしたりしている人間ほど、
みっともないやつはない。

ああ、書いてる側から腹が立ってきた。
そう、私がいつも腹をたてているのは、
そういう中途半端なやつが世の中ごまんといて、
何かに憧れて、何かの真似をして、何かのフリをしてはいるのだけど、
骨の髄までそれにはなりきていないというその中途半端さ加減に腹が立つのだ。
中途半端なやつといると、中途半端がうつる。


そんな感じで、最近の私はいつも何かに腹を立てている。
そんな私はどんどん孤立していくんだろう。
腫れ物でも触るように、扱われるんだろう。
いや、しかし、そんな事を言っていても、
結局他人が親しげに話しかけてきたら、私だって和やかに返してしまうし、
私の方こそ、嘘の仮面を被ったニセモノ野郎なのである。
その苦悩たるやない。
私が持って産まれた親密性ははたして仮面なのか?
それとも真実なのか?
その時々に応じて変化する。
結局人間という生き物は矛盾に満ちた人間で、
だったら他人の矛盾に目ざとく気がついて腹を立てる筋合いはないし、
私だって矛盾だらけで中途半端な人間であることに、
いち早く気がつかなければならないということだ。
そうすれば、他人も自分も寛容な態度で接することができるし、
自然と愛は産まれてくるはずなのである。

■まとめ。
結局私がここのところかかっていた病の原因は、
他人の矛盾が許せないことで、
「許せない」感情によって、どんどん自分の世界が砂漠化していくことだった。
一体何に対して不満を持ち、傷つき、
一切を遮断したくなっているのか検討がつかなかったけれど、
言葉に表していく事で見る事が出来た。
それにしても「他人の矛盾が許せない」って、
10代みたいなことを今だにしてるんだなーと、
私の精神成熟度の遅さが伺えるし、
むしろどんどん退化していってないかと不安になってきた。
いつまでたっても心が狭くて嫌になる。

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