2011年4月8日金曜日

ゲルニカ


地震が起きてすぐに、私はピカソの「泣く女」が頭の中に浮かんでいて、
「ああ、たくさんの魂が泣いている」と、漠然と感じていた。
そして今日は「ゲルニカ」を思い出した。
天を仰ぎ、幼い子どもを抱えて、泣く女が描かれていた。
不安な絵だけど私の今の心の心象風景と似ている。
子どもの頃、教科書でゲルニカを見ても、
ちっともわからなかったのに。
今は、胸に迫るものがある。
どうしようもなく現実的で、普遍的で、恐ろしくて、悲しくて、涙が出そうだ。

ここのところずっと不調で、
色々なことに置いてコントロールの利かない状態にあった。
私の心の中にあるのは、どす黒い、ヘドロのような闇。
何かをずっと攻撃しているような状態。
何かを攻撃せずには居られなかった。
それは今も続いている。
私は攻撃している。
とても強く、激しく。

誰とも言葉を交わさない時間、
私はたったひとりきりで、どんどん腐っていく。
死臭がする。
年老いた老人が、そっと後ろからいう。
「お前はもう死んでるんだよ」

汚いものを避け続けていたら、
綺麗になれると思っていたのに、
それは間違いだった。
どんどん自分が汚くなる。
汚くて、卑しくて、貧しい。
私が通る道のものは全てが枯れる。
植物も、動物も、子どもも、育たない。

長くて深くて暗い道。
そんな道を歩いている人間が、今の時代にいる事が考えられない。

放射能に汚染された水が海に垂れ流され続けている。
魚が放射能に汚染される。
魚は売れない。そして食べられない。風評被害は拡大する。
漁師が頭を抱える。
彼らはこれからどうやって生きていくんだろう。
わからない。
ただ天を仰ぎうなだれるだけだろう。

昔、公害で水俣病が流行ったとき、
石牟礼道子さんが「苦海浄土 わが水俣病」という本を書いた。
水俣病の鎮魂文学だ。
きっとそれぐらいに事実を事実としてきっちり受け止め、
そこにある苦しみを、悲しみを、怒りを、憎しみを、
美しい文章で、書ききるという作業を、
誰かがしなくてはいけないだろう。
ピカソが書いた「ゲルニカ」のように。

私が感じている怒り。
死んだ人たちの無念や、まさに今苦しんでいる人たちの、
リアルを全く伝えようともしないで、
そして本当に知りたいとも思わないで、
ただ、生きている人たちの慰めのものでしかないということだ。
もちろんそういうものを必要としている人たちもいるだろう。
人は自分が信じていることだけをピックアップして生きる。
圧倒的な現実を、死んだ人々の心を表せる器量の天才が、
この世はいない。
天才の不在。

遠くから深い地鳴りのような音がする。
「無念、無念、無念」

私は生きている人よりも、
死んだ人を愛したいのかもしれない。
早く死人になりたい。

人々が覆い隠そうとするものを、
私は引き剥がしていきたい。
罵られようと、攻撃されようと、
あったものを、なかったとされるのが、
一番悔しくて、腹が立つ。

最後に、「天才柳沢教授の生活」のおばあさんの台詞を。

馬鹿言ってんじゃないよ。
何がパラダイスだよ。
何が諸人来れだよ。
確かにこの家を設計したあの男はそんなことをほざいてましたよ。
私の一生を台無しにしたあの男はね。
でもそんなものは身勝手な妄想。
よくって?
やっと戦争が終わったんざますよ。
男どもの妄想の行き着く先の戦争がねっ。
あたしゃもうこれ以上、馬鹿どもの妄想に振り回されるのは真っ平御免だね。


今のところ水木しげるが一番的確。

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