宮川という川がある。
そこの土手には、たくさんの桜の木が植えてあり、
一斉に咲いている。
古くから、伊勢神宮に参拝する為には、
この川を渡らなくてはならなかった。
「こちら側」から「あちら側」へ船で渡る。
今となっては橋が架かり簡単に車で渡れてしまうが、
昔は、なにか儀式的なニュアンスがあったはずだ。
いよいよ伊勢の地、天照大御神の息吹のかかった敷地に足を踏み入れるぞ、
というような。
そこで、私の中でひとつの仮説をたてた。
「川を挟んで向こう側は、ちょっとした魔法がかかっているのではないか」と。
向こう側の世界は異世界。
そこに古くから暮らしている人たちに共通する、
特有の精神性があるのではないだろうか。
私は伊勢の人ではない。
よそものである。
父も母も三重県の人ですら無い。
そういう人間だからこそ、伊勢の中からではなく、
外から眺めることができるのではないかと思う。
今まで色々な伊勢の人達と関わってきた結果、
私なりに見えてきたものがある。
それは「家政婦は見た」の市原悦子のような感じだ。
伊勢特有の政治的な思想であるとか、
赤福の権力のすごさであるとか、
そこに媚を売る中小企業のおじさん達であるとか。
とにかく、伊勢でそれなりに力を持っている人のバックには、
赤福が存在する。
つまり、政治的な思想が赤福に支配されていると言える。
経済的にも政治的にも、そして文化的にも目立つ事がしづらい街、
それが伊勢だ。
天照大御神が居て、赤福があるので、それ以上に光輝くものは要らない。
その代わり、それに同調できれば守られ続けることができる。
それは脈々と続いている世界であり、揺るぎないものだ。
よそものの私は、
その世界になんとなく馴染む事が出来ない。
天照大御神は女の神様だ。
きっとそりが合わない。
彼女の支配下の世界に居たくない。
自然と足が遠のく。
伊勢から少し離れた町、明和がちょうどいい。
何も無い。
この何も無さが落ち着く。
私のホームだと思う。
これから「彼岸」を意識していこうと思う。
そして少しずつ研究して行くつもりだ。
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