2011年4月8日金曜日

彼岸の人々

宮川という川がある。
そこの土手には、たくさんの桜の木が植えてあり、
一斉に咲いている。
古くから、伊勢神宮に参拝する為には、
この川を渡らなくてはならなかった。
「こちら側」から「あちら側」へ船で渡る。
今となっては橋が架かり簡単に車で渡れてしまうが、
昔は、なにか儀式的なニュアンスがあったはずだ。
いよいよ伊勢の地、天照大御神の息吹のかかった敷地に足を踏み入れるぞ、
というような。

そこで、私の中でひとつの仮説をたてた。
「川を挟んで向こう側は、ちょっとした魔法がかかっているのではないか」と。

向こう側の世界は異世界。
そこに古くから暮らしている人たちに共通する、
特有の精神性があるのではないだろうか。

私は伊勢の人ではない。
よそものである。
父も母も三重県の人ですら無い。
そういう人間だからこそ、伊勢の中からではなく、
外から眺めることができるのではないかと思う。

今まで色々な伊勢の人達と関わってきた結果、
私なりに見えてきたものがある。
それは「家政婦は見た」の市原悦子のような感じだ。

伊勢特有の政治的な思想であるとか、
赤福の権力のすごさであるとか、
そこに媚を売る中小企業のおじさん達であるとか。
とにかく、伊勢でそれなりに力を持っている人のバックには、
赤福が存在する。
つまり、政治的な思想が赤福に支配されていると言える。
経済的にも政治的にも、そして文化的にも目立つ事がしづらい街、
それが伊勢だ。
天照大御神が居て、赤福があるので、それ以上に光輝くものは要らない。
その代わり、それに同調できれば守られ続けることができる。
それは脈々と続いている世界であり、揺るぎないものだ。

よそものの私は、
その世界になんとなく馴染む事が出来ない。
天照大御神は女の神様だ。
きっとそりが合わない。
彼女の支配下の世界に居たくない。
自然と足が遠のく。

伊勢から少し離れた町、明和がちょうどいい。
何も無い。
この何も無さが落ち着く。
私のホームだと思う。

これから「彼岸」を意識していこうと思う。
そして少しずつ研究して行くつもりだ。

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