2011年4月19日火曜日

無為無策の無能者


今日は母親と美術館に行って「堀文子展 華々しい収穫のとき」を観てきた。
サライや婦人画報に絵を載せたり、
曽根綾子さんなど数々の小説の装丁をされている。
今年で93歳の堀文子さんだけど、
82歳でブルーポピーを求めてヒマヤラに行ったりと、
かなりエネルギシュな女性。

多様な作風で、多様な表情をみせる堀文子さんの絵。
よそのブログに載っていた堀さんの文章がまた秀逸。
ちょっと拝借して、以下抜粋。



『その時その時をどう生きるか、その痕跡を絵に表すので、
一貫した画風が私にはないのだ。
結果として画風が様々に変わって見えてもそれらはすべて私自身なのである。』


『泥水をかきまわし、その混沌のなかから顔を出すようにして
私の絵は生まれて来た。
人は必ずその絵の意図や説明を聞きたがるが、「こうなってしまった」
としか答えるしかない。
私の作品には主張も意図もない』


『クラゲは海に住む宇宙人ではないかと思う。
地上の生き物と比較しても、どんな常識もあてはまらないこの透明な放浪者は、
無為無策の無能者を装いながら、
六億年以上も不滅の命を長らえている恐るべき生命体である。』

「無為無策の無能者」という言葉にぐっとくる。
人間が「なにかしたい」とか「なにかしなくちゃ」
なんて考えている間に、
クラゲは何にも考えずに海の中をふわふわ漂うだけで、
六億年この地球に存在する事を許されているのだ。

とにかく母親とこの人の展示を観に行かなくちゃ、
という使命感に襲われたのだけど、
堀さんの世界は私たちと何かが共通してるんだとおもった。
結局この世は何を考えても自由なんだということ。
私たちの精神はどこまでも自由で、
どこへでも飛んで行っていいんだ、という事なのかもしれない。
この自由さはちょっとした秘密めいたものであり、魔法なのだ。
本当の事を知っている私たちのだけのものだ。

人間の世の中で何が起ころうと、
どんな不幸が襲ってこようと、
変わらずに流れている世界があり、
その世界を感知して留まる事ができれば、
何が起きても幸せなのだ。

世界は私たちの為にはないし、
私たちも世界の為にはいない。

これからもシェルターみたいな場所にこもって、
じわじわとエネルギーを受け取りながら生きるんだとおもう。

そういう風に生きてもいいんだという許しを、
堀文子さんの絵から感じたかったのだ。

2 件のコメント:

  1. もっちゃんのブログまじくそおもろすぎる!

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  2. ぶんちゃんありがとーう!
    堀文子展ぶんちゃんにもオススメですよ。
    モチーフは花とか木とかが多くて、
    北原白秋の装丁も書いてるよ。
    ほかにはマヤとか甲骨文字、
    あと壁画とかいろいろ描いてておもしろい。
    ぜひ。

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