2011年4月15日金曜日

ナニモノカ二ナル


ナニモノでもない自分というのが、
ずっと続いていて、
そりゃナニモノでもないのだけど、
ナニモノなんだと無言で問われるときが多く、
きっとナニモノかにならないと駄目なんだろうと思う事がある。

「ナニモノ」
というのはひどく自分を固定するみたいで面倒な気がするけど、
この部分をしっかりと自分で持ってないと、
色々やってゆきづらいものがある。

しかし私の自意識とは非常に面倒で、
見えていない部分がたくさんあるし、
なにか目立つ事もしたくないし、
とはいえ、色々なことを書かずには居れないし、
地味に、しかし、それなりに他者に認められたいという、
非常にめんどくさい世界を引きずっている。

しかし人の最終形態として「ナニモノかにナル」為に、
生きているんだとして、
例えば、自己満足を得るためだけにブログを書きまくる、
三十路間近の女フリーターが、
一体どんな「ナニモノ」になるのかと言ったら限られている。

しかし私の世界を開く術は、
文章しかなく、それ以外は本当になにもなく、
だったら全力をそこに注がねばならないと考えて、
というか、ずっとそれをしていて、
それなりの出会いというか、そういうものはあるし、
「ああ、続けていこう」
と次に繋がって行くエネルギーもある。

私が、どれだけ必死に世界を想い、
次を切り開いていくものはないかと、
ぐるぐるやっているか、そんなものは他人には関係ない、
いや、本当は地味に関係があって欲しいと考えて、
魔術的な言葉を繰り広げられたらと思ったりしている。

つまり、他者と関係していたいという欲望であり、
熱であり、それなりに社会に貢献したいという願望がある。

「僕は僕としていく」

という言葉が中村一義の曲の歌詞にあるけれど、
「私は私としていく」
この姿勢が大事なのだろうと、
おもった。

ウズウズする方へ。
私はこれからも、自分で自分を闇に突き落として(自分の意志でないにしろ)
そこから這い上がってくる人間の姿やエネルギーに、
ぞくぞくして楽しむんだろう。
ひとりで、勝手に。

0 件のコメント:

コメントを投稿