近頃、私はあの世の感覚に支配されている。
というのも、私個人の生活面で言っても、
この頃、人間関係があまりうまくゆかず、
生きている人間達の欲望が私のところにやってきて、
何かを要求され、それにうまく答えることができず、
自分がどうしようもなく駄目なやつだと感じる事が多く、
なにもかもが行き詰まり、しかも地震とかあって、
「どうしよう、生きるのつらいな」と途方に暮れていると、
死者の世界が扉が、ギギギ、と開いたという感じだ。
ほんとに自殺しなくても、
精神的に生きている人間を辞めることはできる。
というわけで、個人的な事と地震などの自然現象が重なって、
私がこれまで感知したことのない世界に足を踏み入れている。
これはちょっとした避難場所だ。
そこに行くと、様々な死人の声を耳にする。
私が特に感じたのは、やはり地震や津波で亡くなった人々の声だ。
やっぱりそれは無念であり、悔しさであり、みじめさである。
私がもし今回の地震で津波に吞み込まれて死んだら、
どんな風に思うか想像してみた。
「いやいや、ちょっと待ってよ、こんなんで私死ぬの?
嘘でしょ?まだまだやりたいことあったし、人生ってなんなの?
いやーすごいなーまじで、これは理不尽過ぎるでしょ。」
みたいな独り言が延々と続く気がする。
「えええ、これでも、死ぬのとかすごいな。死ぬってこういうことか。
うわあ、こわいこわいこわい、みんなさようなら。
それにしても死んだらどんな風になるんだろう、
どう思うんだろう、見てみたいな。」
ということで、好奇心と執念により、この世に残ろうとすると思う。
残ろうとしたら、ほんとに残れちゃって、
「あれ、わたしほんとに死んだんよね?」
みたいに、ぼんやりとそこに居るとおもう。
でも生きてるのとは違うし、人間は私のことに気がつかない。
ふわふわと漂い、色々な人たちのところに行く。
泣いてる人もいるから、大丈夫だよって気配で伝えようとする。
そしたら泣いてる人も少し冷静さを取り戻して、
次に向う気力を取り戻していく。
私と同じようになって泣いている子どももいる。
何もわかってない。死んでる事も知らない。
でも、何かが違う事だけわかっている。
そんな子どもがたくさんいて、事情を知ってる死んだ大人達が、
こっちだよって、手を引いてどこかに連れて行く。
明るくてまぶしくて、目が開けられないところに、
吸い込まれて行くようにぞろぞろと入っていく。
そこに入ったらどうなるか知っている。
私たちはいよいよ無くなる。
ほんとうに消える。
ほんとうに消えたらどうなるのか、私は知らない。
消えた事がないし、消えてしまったら伝えるものもない。
一度まぶしい所に入ったら、きっと溶けて、何もかもが一緒に成って、
みんなの気持ちがわかるんじゃないかと思う。
「ああ、そういうことだったんだ」
ってことがたくさん押し寄せてきて、何かを思う隙間も無いほどに、
ただぐるぐると理解しつづけるのだと思う。
そしてまた新しい世界をもった人間の一部として産まれる。
私という人間もそんな風にして、
何かの意思の一部が寄せ集まった生命体だったのだ。
この世をふらふらと彷徨い、生命体の意思のままに行動していたのだ。
全ての人間はそういうふうにできているのだ。
…
というわけで、書き始めた時には全く見えなかった世界が、
ぞろぞろと出てきてびっくりしたけれど、
そんな風に世界は出来ているという、自己認識の上で生きていく事が、
私的にはとても大切な事だと思うので、
書けてよかった。
それにしても、ビックリしたなぁ。
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