2011年4月13日水曜日

死者の声

近頃、私はあの世の感覚に支配されている。
というのも、私個人の生活面で言っても、
この頃、人間関係があまりうまくゆかず、
生きている人間達の欲望が私のところにやってきて、
何かを要求され、それにうまく答えることができず、
自分がどうしようもなく駄目なやつだと感じる事が多く、
なにもかもが行き詰まり、しかも地震とかあって、
「どうしよう、生きるのつらいな」と途方に暮れていると、
死者の世界が扉が、ギギギ、と開いたという感じだ。
ほんとに自殺しなくても、
精神的に生きている人間を辞めることはできる。
というわけで、個人的な事と地震などの自然現象が重なって、
私がこれまで感知したことのない世界に足を踏み入れている。
これはちょっとした避難場所だ。
そこに行くと、様々な死人の声を耳にする。
私が特に感じたのは、やはり地震や津波で亡くなった人々の声だ。
やっぱりそれは無念であり、悔しさであり、みじめさである。
私がもし今回の地震で津波に吞み込まれて死んだら、
どんな風に思うか想像してみた。

「いやいや、ちょっと待ってよ、こんなんで私死ぬの?
嘘でしょ?まだまだやりたいことあったし、人生ってなんなの?
いやーすごいなーまじで、これは理不尽過ぎるでしょ。」

みたいな独り言が延々と続く気がする。

「えええ、これでも、死ぬのとかすごいな。死ぬってこういうことか。
うわあ、こわいこわいこわい、みんなさようなら。
それにしても死んだらどんな風になるんだろう、
どう思うんだろう、見てみたいな。」

ということで、好奇心と執念により、この世に残ろうとすると思う。
残ろうとしたら、ほんとに残れちゃって、
「あれ、わたしほんとに死んだんよね?」
みたいに、ぼんやりとそこに居るとおもう。
でも生きてるのとは違うし、人間は私のことに気がつかない。
ふわふわと漂い、色々な人たちのところに行く。
泣いてる人もいるから、大丈夫だよって気配で伝えようとする。
そしたら泣いてる人も少し冷静さを取り戻して、
次に向う気力を取り戻していく。
私と同じようになって泣いている子どももいる。
何もわかってない。死んでる事も知らない。
でも、何かが違う事だけわかっている。
そんな子どもがたくさんいて、事情を知ってる死んだ大人達が、
こっちだよって、手を引いてどこかに連れて行く。
明るくてまぶしくて、目が開けられないところに、
吸い込まれて行くようにぞろぞろと入っていく。
そこに入ったらどうなるか知っている。
私たちはいよいよ無くなる。
ほんとうに消える。
ほんとうに消えたらどうなるのか、私は知らない。
消えた事がないし、消えてしまったら伝えるものもない。
一度まぶしい所に入ったら、きっと溶けて、何もかもが一緒に成って、
みんなの気持ちがわかるんじゃないかと思う。
「ああ、そういうことだったんだ」
ってことがたくさん押し寄せてきて、何かを思う隙間も無いほどに、
ただぐるぐると理解しつづけるのだと思う。
そしてまた新しい世界をもった人間の一部として産まれる。
私という人間もそんな風にして、
何かの意思の一部が寄せ集まった生命体だったのだ。
この世をふらふらと彷徨い、生命体の意思のままに行動していたのだ。
全ての人間はそういうふうにできているのだ。


というわけで、書き始めた時には全く見えなかった世界が、
ぞろぞろと出てきてびっくりしたけれど、
そんな風に世界は出来ているという、自己認識の上で生きていく事が、
私的にはとても大切な事だと思うので、
書けてよかった。
それにしても、ビックリしたなぁ。

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