豆板醤て我が家には置いてない調味料のひとつなんだけど、
そろそろ取り入れてみようかとおもっている。
そんな一日。
今日はライブに出掛けた。
伊勢のおはらい町にあるカップジュビーというお店の店長の、
外村伸二さんがCDを出したのでそれのレコ発ライブ。
相変わらずギターの音色は心地よく、
フィドルや、ハーモニカや、ウッドベースも気持ちよかった。
私は全然音楽に詳しくないし、知識の浅い人間だけど、
外村さんの曲には、高田渡とか、
ジム・オルーク的要素を勝手にちょっとずつ感じたりしている。
外村さんの音楽を聴いている間ずっと自分の事を考えていた。
なんとなくそういう音楽だ。
というか私は音楽を聴いてる間自分の事しか考えてないかもしれない。
「私はミュージシャンじゃない」と、最近よく思う。
そもそも楽器が何一つできないので当たり前である。
当たり前のことをよく考える。
ミュージシャンというのはミュージシャン脳というか、
ミュージシャン体質があるように思うのだけど、やっぱり私はそうじゃない。
音楽は好きだけど、音楽以外の事もかなり好きだし、
ものすごく下世話というか、下品だったり、残酷だったりすることが好きで、
つまり美しい夢を長く見続ける事が出来ない。
それから人とあんまり仲良く出来ない。
他人に対して心を広げる幅が狭い。
偏愛するし、苦手な人がたくさんいる。
とにかくミュージシャンというのは「いい人だなぁ」と思うのだ。
いい人で居ないとミュージシャンをやることが出来ないというのもあるんだろう。
時々そんな姿をみていると息苦しくなる。だから無理だ。
自分の事はさておき、外村さんは伊勢に帰ってきて、
伊勢での暮らしや生活をブルースにして歌っている。
田舎から都会へ、そして田舎に戻る。
その経緯は私も体験している部分なので非常に共感できる。
少年の頃に見た原風景、遠い記憶、
外村さんの体内から自然発生的に漂っている世界には、
限りなく無垢で純粋なものを感じる。
ふんわりと優しく流れている世界を、
外村さんの声と言葉とメロディでとても丁寧に描かれていて、
私が感じ得る外村さんの本質的な部分はそういう所にあるのではないか、
と勝手に考えている。
というか、私の中にもあるんであろう無垢で純粋な世界と共鳴するので、
外村さんの音楽について考えるとき、
その世界が浮き彫りになるのだと思う。
もちろん他にも外村さんの世界は多面的に広がっており、
それを表現されているのだけど、
私はギターの音色にも現れているその純粋な世界にいつも反応している。
それにしても人というのは、本当に様々な顔を持っている。
キラリと光っているその世界を埋もれさすのは常にその人自身だ。
その人の中で一番美しい部分を、なんとか拾い上げて、
常に眺めることが出来たらいいのだろうけど、そうはいかない。
なぜなら人は煩悩の塊だからだ。
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