石牟礼道子の「苦海浄土」を全部読み切り、
ツタヤに行って東村アキコの「主に泣いてます」と、
中村一義のベスト盤に入りそびれた曲を拾う為に、
「ERA」と「太陽」を借り、
編集長が変わってサブカル寄りになったという噂がある
「GINZA」を買った。
石牟礼道子さんの「苦海浄土」では、
被害者の気持ちが延々と方言そのままで書かれている。
なので凄みがある。
そして歪曲されることなく、とうとうと吐露されている。
そのおかげでより鎮魂の効果が増しているようにおもう。
自分の立場や気持ちを感情を一切殺して、完全に相手になりきり、
そのままを言葉にすること。
そのままというのは簡単なようで難しい。
人は歪んだ生き物だからだ。
それはこの世で人間ができることで最も美しい技である。
こういった書物がこの世に産まれ、力強くそこにあることは、
ほとんど奇跡のようなきがしている。
東村アキコさんの「主に泣いてます」は本当におもしろい。
東村アキコさんがどんどん脱線して、
今まで吸収したものを思う存分に漫画の中で吐き出している様が、
鬼気迫るものがあり、かなり濃厚な内容となっている。
でも根本は女性週刊誌的空気感であり、
昼間にテレビの前で寝っころがって煎餅を食べる主婦の感覚であり、
それがものすごい安心感というか、女の本質が滲みでていて、
全面的に支持できる。
ギャグもツッコミも秀逸。
絵もいい。かなりの才女だね。
中村一義さんの「ERA」、これは改めて聴いたら、
まじで名盤であることが再確認された。
捨て曲なし。いやーすばらしいわ。
「太陽」は全体的にしっとりしてました。
丸くなったというか、こういう中村一義もあるんだなぁ、というか。
全部出し切ったあとの中村一義という感じ。
これはこれで出さなくちゃいけなかったんだと思う。
「GINZA」は立ち読みでいいかー、
なんて本屋でパラパラめくってみたら立ち読みでは収まらず購入。
ビビアン・スーの一人ガラスの仮面。
湯山玲子と池田理代子のベルバラ論考。
女王蜂が着るマークジェイコブス。
やくしまるえつこのなんかよくわからないコーナー。
星野源の新連載エッセイ、銀座鉄道の夜。
そしてコピーが「すべての女は女優である」
なにこの雑誌、色々詰め込み過ぎでしょ、っていうぐらいに、
新編集長の気合いがひしひしと伝わってくる内容。
おまけ付けまくらないと雑誌が売れない時代に、
勝負に出たなぁ、と感心した。
それにしても星野源がひたすらおっぱいの話してたのは笑ったな。
ラジオでもおっぱい、エッセイでもおっぱい、
それでも世の女達に受け入れられ、愛される男、それが星野源。
これはもうほとんどオバケだ。
いつ頃から「ポップ」がもてはやされ、
表現のスタンダードになったんだろう、なんてことを思った。
私なんかも子どもの頃から「ポップ」であることは当たり前だったし、
自然と「ポップ」は染み付いている。
やっぱりマイケル・ジャクソンあたりからだろうか。
私は石牟礼道子さんの文章なんかが突如欲したりするのだけど、
石牟礼道子さんはちっとも「ポップ」ではない。
あと「ポップ」じゃないものと言えば、土門拳だろうか。
なぜ土門拳が出てきたのかはわからないけど、
やっぱり厳しい現実を伝えるシリアスでジャーナリズム的な姿勢は、
「ポップ」になりえない。
しかし私はこの厳しい現実というものを直視したいという性質があり、
そこで「ポップ」を信仰している自分との矛盾や葛藤が生じ、
自己が分裂し、一向にひとつにならない。
バラバラになる。
まぁ、別にバラバラのままでいいとは思うのだけど、
いつまでたってもどっちつかずというが、
ふらふらと彷徨っているのだ。
「ポップ」は心が軽くなる。
どこまでも自分が軽薄になることができる。
それがすごくラクだし、楽しいとおもう。
でもそれだけじゃない。
ってなったときに突如、雪崩が起きたみたいに、
「ポップ」な自分が崩れ去り「リアリズム」に走る。
どうもそんなことを繰り返しているような気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿