2011年4月14日木曜日
散歩
近所を散歩した。老人みたいに。
「やっぱりここは天国に近いな」とおもった。
大きな木の側にベンチがあって、寝転ぶと、
木の枝や葉っぱがゆさゆさと風に揺れている。木漏れ日。
小鳥のさえずり、電車が走る音、学校のチャイムが聴こえてきて、
なんとも言えない幸福感に襲われる。
これからも度々あの場所に行って寝転がろうと思う。
昨日、今日と、昼間に3時間も昼寝している。
なので夜がちゃんと眠れない。
ぼーっとして、常に何かを追っかけているようで、
何も追っかけてなくて、
ああ、何にもなくなっちゃったなぁ、と、
ぺろん、とした薄っぺらい気分でいる。
「想念の世界」というものを考えていた。
私たちの世界は想念が創っている。
自分から何かを付け加えたり、削ったりしながら、
想念は瞬間瞬間で流動的に形を変える。
私が見ている「想念」というものを、
そのまま言葉に変換できないものかと、
日々こんな風にパソコンの前に向っているのだけど、
私の「想念」は時々暴走する。
コントロール不能に陥る。
愛おしい気持ちが暴走することもあるし、
憎しみや、怒りが突っ走ることももある。
私はこの憎しみや怒りといった「負の感情」について考えていた。
暴走するときというのは、明らかに増長させる作用が働いている。
殺人や、戦争のときのことを考えた。
彼らは何かに取り憑かれてはいやしないだろうか。
「想念」が浮遊していて、それが人にぴたっと吸着して、
いっこうに離れないという状況があると思う。
わたしが持っている引力の質には、
「なんでも見たい」という好奇心があり、
様々な想念が私のところにやってくる。
「憎しみ」も「怒り」も人間の感情のひとつであり、
捨ててしまうのはかわいそうだ、という感覚がある。
むしろ、自ら味わいたい、楽しみたいとさえ思っている。
でも、その結果「憎しみ」と「怒り」に取り憑かれる。
幸せでもなんでもない。
でも、私は多分、幸せなんてものはどうでいもいいと考える、
危険なやつなのだと思う。
それよりも「知りたい」という気持ちが勝ってしまうことがある。
人とは、この世界の成り立ちとは、
どうしてこの人たちが私の人生に現れるのか、
私はどういうこと語りたいのか、
そんなことばかりが気になり、
つまり自己中心的なのだといえる。
楽しく、おもしろく、穏やかに、という願望もあるにはあるが、
時々そういうものを、バーンとどこかに自ら追いやる瞬間がある。
見えない引力で、私は何かを引き寄せているし、引き寄せられている。
そのバランスの中でしか自分も他人も推し量る事は出来ない。
私がめちゃくちゃになってしまって、
不安で憂鬱になっている間、普通の会話を続けてくれる人がいて、
もちろんその人は私がめちゃくちゃになっていることなんて
知らないんだろうけど、私はそれにすごく救われていた。
何気ない、普通の会話は、私が普通であることを思い出させてくれる。
そんな風に、普通が一番大切で、愛しい事であるとおもう。
何も感じず、たんたんと日々を続けることができる、
強靭な人間が私には必要なのだと思った。
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