2011年4月10日日曜日

苦海浄土

石牟礼道子さんの「苦海浄土」を読む。まだ途中だけど。
自然の中で慎ましやかに暮らしてきた人々が、
文明によって、生活が見事に淘汰されていく様が、丁寧に丁寧に書かれている。

私の魂は、感覚は、やはりほとんど自然児だとおもう。
文明の流行を敏感に察知し追いかけることはできるけど、
別にそれだけである。
そこから何かを産み出すことはできない。
結局私の根本にあるものは、滔々と放出され続ける自然への回帰願望だ。
海とともに暮らしてきた父の家系と、
山のなかで暮らしてきた母の家系と、
先祖が眺めてきたそのどちらの風景も、
目を閉じれば簡単に思い出す事が出来る。
記憶が私の中にある。
通底音となって流れている。
それは貝殻に耳をあてると、海の音がするのと似ている。

水俣の自然が産んだ童女はもう80を過ぎているけど、
とても美しい人であった。
笑顔がにっこりと優しい。

水俣病の被害者の魂の叫びを言語化して、世間に提示したのが、
石牟礼道子さんだとすると、
地下鉄サリン事件の被害者に耳を傾けたのは、
村上春樹だった。
真の作家とは、時代の言葉にならない言葉に、
じっと耳を傾け、己の存在を一切消し去り、
徹底的にあぶり出す仕事が出来る人なのではないかと思った。
ひとつの物語として、昇華していくこと。
それは、驚くほど精密なデッサンをすることであり、
大切な事は、人そのものを、じっと見つめることである。

私の目に飛び込んでくる、その事象のひとつひとつや、
その人そのものはまだわからないことだらけなのだろう。
何かを解った気になった瞬間が一番危ない。
きっと私は、何もわかっていない。
荒狂っていた内側が、すっと凪いでいくのがわかった。
私は自分自身の事や、他の誰の事も思い込まない。

私が全力で嫌だと感じていた事は、
その人自身というよりも、その人が思い込んでいるそれ、
なのだと思った。
その人が思い込んでいるそれとを、
その人そのものであると判断する必要はないのだ。

私は私の感覚を覆うものを取り払おうと、
いつも、もがき、苦しみ、暴れ回っている。
そして時々コントロールが出来ずに他者へと牙をむく。
そうではない。
これは私の力量不足だ。

じっと目を閉じて、心を鎮める。

私はただ自由になりたい。
そしてまだ自由になりきれていない。
きっと歳をとればとるほど自由になる。
笑顔も屈託の無いものへとかわる。
そんな風に生きていこうとおもう。

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