石牟礼道子さんの「苦海浄土」を読む。まだ途中だけど。
自然の中で慎ましやかに暮らしてきた人々が、
文明によって、生活が見事に淘汰されていく様が、丁寧に丁寧に書かれている。
私の魂は、感覚は、やはりほとんど自然児だとおもう。
文明の流行を敏感に察知し追いかけることはできるけど、
別にそれだけである。
そこから何かを産み出すことはできない。
結局私の根本にあるものは、滔々と放出され続ける自然への回帰願望だ。
海とともに暮らしてきた父の家系と、
山のなかで暮らしてきた母の家系と、
先祖が眺めてきたそのどちらの風景も、
目を閉じれば簡単に思い出す事が出来る。
記憶が私の中にある。
通底音となって流れている。
それは貝殻に耳をあてると、海の音がするのと似ている。
水俣の自然が産んだ童女はもう80を過ぎているけど、
とても美しい人であった。
笑顔がにっこりと優しい。
水俣病の被害者の魂の叫びを言語化して、世間に提示したのが、
石牟礼道子さんだとすると、
地下鉄サリン事件の被害者に耳を傾けたのは、
村上春樹だった。
真の作家とは、時代の言葉にならない言葉に、
じっと耳を傾け、己の存在を一切消し去り、
徹底的にあぶり出す仕事が出来る人なのではないかと思った。
ひとつの物語として、昇華していくこと。
それは、驚くほど精密なデッサンをすることであり、
大切な事は、人そのものを、じっと見つめることである。
私の目に飛び込んでくる、その事象のひとつひとつや、
その人そのものはまだわからないことだらけなのだろう。
何かを解った気になった瞬間が一番危ない。
きっと私は、何もわかっていない。
荒狂っていた内側が、すっと凪いでいくのがわかった。
私は自分自身の事や、他の誰の事も思い込まない。
私が全力で嫌だと感じていた事は、
その人自身というよりも、その人が思い込んでいるそれ、
なのだと思った。
その人が思い込んでいるそれとを、
その人そのものであると判断する必要はないのだ。
私は私の感覚を覆うものを取り払おうと、
いつも、もがき、苦しみ、暴れ回っている。
そして時々コントロールが出来ずに他者へと牙をむく。
そうではない。
これは私の力量不足だ。
じっと目を閉じて、心を鎮める。
私はただ自由になりたい。
そしてまだ自由になりきれていない。
きっと歳をとればとるほど自由になる。
笑顔も屈託の無いものへとかわる。
そんな風に生きていこうとおもう。
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