2011年4月22日金曜日
ムーミンのマグカップ
黒柳徹子さんに続き、ムーミンが意識に引っ掛かってきたので書いておく。
ムーミンとわたしはさほど関わりはないのだけど、
ムーミンの存在がなんとなく気になりだしたのは大人になってからだ。
そして最近またチラチラとムーミンがわたしの意識に顕在しだした。
私はツイッターをよくチェックしていて、
見逃した分も遡ってくまなく観てしまうたちなのだけど、
奈良美智さんがムーミンのマグカップを使っているとつぶやいていて、
昨日はSNOOZERの編集長田中宗一郎さんが、
ムーミンについてなにやら言っていて、
「あーまたムーミンだー」と思って、ムーミンを検索してみたりして、
だいたいいつもそんな感じである。
ムーミンを探していたら、佐野洋子さんを発見して、
「あー私この人の本全部読まなくちゃいけない」
とまたもや謎の使命感に襲われたので、
これからめちゃくちゃ読むんだろうし、
「多分このタイミングでこの出会いまじ神!」
という感じで、「神」という言葉がすぐ出てくるあたり、
私って現代の若者なんだなぁ、と再確認したりして、
とにかく、そんな案配。
結局「うわーまじ救われたわー」みたいな感じを受けるのは、
女性の表現者が多いので、やっぱり私は女性だ、という当たり前の事を、
考える事が最近多い。
多分、今まで男性に随分振り回されてきた、と思う部分が多く、
それは誰が悪いわけでもないのだけど、
というか別に誰も悪くはないのだけど、
「まじひとりにして!私にかまわないで!」
と、断固拒否をし続けることにより、
私の人生は一層深まり、そして自由になるという現象は明らかである。
結局他人は自己確認装置である。
と言い切れるほど、サバサバできない部分もあるけれど、
だいたいそんなところだ。
優しい顔をして近寄ってくるやつほど、
自分の事しか考えていないし、
他人をどうにかしたいという欲望しか持ってないし、
つまり欲望と愛を勘違いしているし、
ほんとなんていうか「死ね!」と思わずにはいられないんだけど、
結局、私にそういう隙があるというか、
コロっと、相手に合わせて安易に受け入れてしまう部分がある
というのが問題なのであり、
でもさ、せっかく興味もって近づいてきてくれたんだから、
相手してあげなくちゃかわいそうじゃん!
相手の思惑通りにしてあげなくちゃなんか私が嫌なやつみたいじゃん!
と、慣れない東京弁を使ってしまったけれど、
結局私がおびきよせている節があるということかもしれない。
しかし、それをそのまま受け入れていると人生が混乱する、
というのが証明された。
私は何がしたいのか、という部分をはっきりさせておくと、
平穏無事に暮らせていればそれでいいのだ。
ただ精神的に一人で「うわー」とか「うおー」とかの瞬間を味わっていれば、
それで幸せなのであって、それを維持する為にはどうすればよいかという部分が、
根本の問題なのである。
この「ひとり」というのが重要である。
これが「ふたり」になると相手の趣味嗜好も考慮にいれなくてはいけないし、
そなると私の「うわー」とか「うおー」の感覚が薄れる。
そして私はどんどん腐っていき、つまらなくなり、精神が不安定になる。
他人と関わると精神が病む。
つまり、他人の病みがうつる。
それが一番嫌なのだ。
他人の病みは他人のものであり、私のものではない。
私はいたって健康、健全、そして極めて純粋な精神活動を営んでいるのであり、
結局ひとりでいれば誰に精神を犯されることもない。
自分で言うのもなんだけど、私の根本は優しいのである。
優しいから相手に同化してしまうのだ。自然と、無意識のうちに。
今までさんざん自分を犠牲にして優しくしてきたので、
これからは他人の病みを精神に抱え込まない訓練をしていこうと思う。
現代社会の病み、人間関係の病み、集団生活における病み、
これら全てが不必要だ。
私はそれら全てから抜け出してみようと思う。
命をかけて。
さようなら、みんな。私は元気です。誰よりも。
なんて言ってる私が一番病んでたりして。
まぁ世界は価値観によってぐるぐると反転するもんだからね。
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